しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

盆の送り火に綱を引く

2011-08-15 14:56:11 | 旅先

昨日は、旧暦7月15日、盆の送り火(ウッフィユー:ウィクビともいうらしい:本島ではウークイ)でありました。

今年は、新旧の盆が重なったことで、島の家々も何か慌ただしい気配があり、各地の豊年祭やらお参りやらも重なって普段はひっそりしている集落にいつもにはないヒトのざわめく気配が感じられる数日間でござった。

静かな集落にいつもはいないヒトの気配って本当に感じられるんだと、霊とか憑きモノには鈍感な私でもぞくっとしたりして。

さて、島の南、海に向かってなだらかに傾斜している地形の真ん中辺に、旧上野村宮国集落があります。ドイツ村やらユニマットのリゾートやらで何かと有名ですが、16世紀後半まで、ここの集落はもっと海沿いの低地にありました。

それが、1771年の明和の大津波で被災し、生き残った人たちが村ごと小高い土地に引越し新しい村を作ったのでした。津波に被災したところにできたのがこのドイツ村やらユニマットリゾートやらというわけです。

宮古島は地震の少ない島という誤った思い込みでここを終の棲家と定めた爺は、先島(宮古八重山諸島)が琉球列島の中で最も地震と津波の危険性が高い事を知ってショックを受け、オトーリを回しました。

そのことを決定づけたのは今月初めに開かれた「最新科学が明かす明和大津波と東日本大震災が残した教訓」と題した講演(千葉大惑星探査研究センター上席研究員後藤和久氏)を聞いちゃった時でした。

そのことは別の機会にして、この宮国のこの日の行事に「大綱引き」というのがあります。

昨夜はこれに半物見、半参加してきたというわけです。

この行事の詳細については、いろいろ調べる方法がありますので、驚きの事実をお伝えしましょう。

その1:いつ始まるんや

新聞情報で、20時頃より開始という事を知り、住民の方からの「21時に始まるかどーか」という助言にも何か行事が始まっているはずさぁと駆けつけてみると、自分たちで作った「キャン」と呼ばれるシイノキカヅラを太く編み込んだ綱を路上に置いたまま、各自の家でウッフイユーの儀式をしたり仲間内で盛大にオトーリを回している様子。まあ、自分たちの祭事で観光客のためにやっているのではないしとオトナの心で待っておりやした。

これがその綱。キャンだけでは長さが不足したのか荒縄で作った綱も用意されていました。これが事件を引き起こすのです。 

その2:どこから湧いてきたんや

待つこと2時間、何回かの召集放送にも集まる気配を見せなかった住民がどこからかざわざわと集まってきました。

乳児から後期高齢者まで暗くて数えられん。何しろ綱の全長は40m×2。それぞれのユニフォームを着て熱気があふれてきます。

その3:人数合わせはないンかい!

三々五々集まってきた住民は西、東に分かれてそれぞれ思い思いの場所にたたずみ、どーやらそのまま始まる様子。えーーーっ。引き手の人数チェックはないんかい?これで勝負になるんかいと思うのが都会の世俗にまみれ、公平だ対等だと叫ぶエセ凡人。いいんです。どっちが勝っても豊作か大漁になるんです。勝ち負けではなくて、勝負するための準備と盛り上がりが大切なですよ、きっと。

その4:綱が....縄が....ワナワナ

待つこと2時間。クイチャーや西組女綱と東組男綱を結合して1本にする儀式も済んでさあ引こう。と1本目。

突然の脱力感。さては相手があきらめて一方的勝利!と思いきや、先ほどの異種の綱の結び目が切れてこちらの引く力が宙に浮いてしまったというわけでした。

これが問題の結び目。                                      

2本目は、お互い譲らず長引くかと思っていたら意外とあっさり縄切れ組が勝利。

1勝1敗で迎えた3本目。今度はキャンで作った綱の本体が切断。結局、2回切れた西軍が東軍に負け、今年は豊作に。

この行事は、宮古島市無形文化財に指定され、他の地域にはない強い団結力を有した勇壮さと躍動感にあふれているといわれますが、最初は9日間引き会っていたのが、戦後3日間になり、1994年からは1日になってしまったという事です。材料の入手難に加え、綱の編み手の中心となる中学生の減少などが原因ですが、今年の2回の綱切れにもみられるように、綱制作技術の伝承などの面からも厳しい将来が待っているようです。