しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

行ってきました FINAL

2012-07-31 17:29:44 | DB

さて、旅程も半ば。

ハワイ島に拠点を移した我々は、HILOに2泊、KONAに4泊して帰国するわけだが、今回リベンジする「マウナケア サンライズツアー」の日程を天候を見ながら現地で予約することにした。

しかし、予報では東海上には台風が発生しており、不安がよぎる。

何しろ前回(1998年)のマウナケア登山は、雨男パワー全開で、めったに出ないという山頂の霧の中、国立天文台ハワイ観測所のすばる望遠鏡をみて触れて、経験したことのない高度4,200m付近で弁当を食ったというだけのしろものだったのだから。

それはともかく、今回のレアツアーの1発目は汽水ジャグジー。

    

ヒロから約1時間の島南東部に位置するAhalanui Parkにあるプールで海水と温水が入りまじり、30℃ほどの水温になっている。時々越波してくる海水があると急激に水温が下がる。シャワーと四阿と簡易トイレだけの施設だが、監視員が常駐している。

プール内には肌を噛み噛みする魚がおり、いわゆるドクターフィッシュ?なのかな。

爺の肌はよほど角質が硬いのか、しばらく湯につかりふやけるまで魚が寄ってこなかったという衝撃的な事実も発覚した。

翌日は、ヒロからカイルア・コナまでサドルロードを移動。この道路は、最近までレンタカーの保証がきかない道路であったようだ。今もかな。

この道路の最高点は、約2,020m。マウナ・ケア山頂まであと2,120m。それほど高い山に見えないのが不思議だ。

  サドルロードとマウナ・ケア登山道の交差点

標高は、2,005m。

カイルア・コナの南アリイ・ドライブ沿いのコンドミニアムに落ち着いた我々は、毎日の好天に感謝しつつもとりあえずのレアビーチへ。

コナ国際空港の北に位置しているKekahakai State Park内にあるKuwa Bay(ManiniOwali Beech)

溶岩むき出しの海岸が多く、砂浜がめったに見られない島の海岸の中で白い砂に恵まれている元秘境。

海の色のグラデーションは宮古島の海にかなわないが、ハワイ島の中では上等さぁ。でも波が高くフィン装着の時には皆に笑われてしまったなあ。

  

2日も通ってしまった。

島を離れる2日前の午前0時、天候も大丈夫ということで予約も取れてマウナ・ケア サンライズツアーに出発。

毎日宿泊先から見る落日と4,200mから見たご来光。山頂は129%のサンライズ。顔を出す瞬間のシャッターを押し忘れるほどのサプライズ。

  

離島生活をしていてもこれらの体験は別腹である。

あらためてそれぞれの島をリスペクトすることができ、今回の旅は大成功であったのだ。

この旅を牛耳ってくれたO川夫妻には感謝の言葉もない。特にA子夫人には、夫婦仲まで気にかけていただき面目も無い。

Mahalo!

     また来るぞ!コナ国際空港


行ってきました3

2012-07-30 17:11:32 | DB

7月もあと2日になり、台風も10号まで発生しているのに、3週間前の旅行の報告がまだ終わっていない。

まあいいさ。

というわけで、現地の7月10日。

朝、宿泊先のJoy Hotel から集合地のHalekurani Hotel へ。フラガールズのお出迎え。手前は新婦の弟君。

       

結婚式は、パリハイウェイ沿いのNu'uanu Congregational Church(ヌアヌ組合協会)

       

1967年にハワイで初めて日本人の結婚式が挙げられたところだそうな。従って、式はすべて日本語。

不覚にも雨男といわれている爺であるが、この旅行中平地では雨どころか天候不順にも見舞われずパワーの衰えを実感させられた。

が、ただ1回それも一瞬、この教会で雨がぱらついた。喜びの涙雨といいたいところだが、この地はヌアヌ・パリ(涼しい断崖)という強風と雨が多いところとして知られている観光地でふつうの自然現象であったことよ。

この地の断崖はカメハメハ大王によるハワイ諸島統一の際、カメハメハ軍に追いつめられた何百人もの兵士が身を投げたことでも知られている。

パリはハワイでは断崖を意味するが宮古島では畑を意味する。どちらも時の権力者に苦しめられた土地である。

閑話休題。両家の皆様幾久しくお幸せに。

       

この後、パーティに参加し、笑いと涙と祝福を心の糧にしながらその日の16時55分発のハワイアン航空360便の機上の人となった我々は、ビッグアイランド、ハワイ島へ向かったのである。

       

さて、台風が東西から近づいている。

我が家のプルメリアもようやく花をつけたのに、強風で吹き飛ばされるかもしれない。

記録しておこう。

       

 

 

 


行ってきました2

2012-07-26 17:35:23 | DB

博物館で過去に思いをはせた現地9日の夜、今回の最大の目的、

Shinichi & Maki

の結婚式に参列する日本からのご家族、知人、友人の顔合わせ会?前夜祭?に招待されました。

場所は、ハワイ最大のアラモアナショッピングセンターに勝負するワイキキ最大のロイヤルハワイアンセンター内にあるここ。

        

なんか日本にいるみたいですが....

このロイヤルハワイアンセンターのある場所も由緒あるところで、王族ゆかりの地といわれており、1階にはハワイ固有の植物やヤシの木が植えられた庭園があり、施設内では無料のカルチュアプログラムが行われるなど単なるショッピングセンターではないところが素晴らしいところです。

        

ここでいただいたのは、目の前で焼かれるロブスターやステーキ、野菜にチャーハンなどなど。

腹の周りの浮き袋を膨らましながら堪能させていただきました。

雨男と言われて久しいけど、明日は大丈夫だろうかという一抹の不安と、式の後のパーティでは、新郎新婦の後に続いてダンスを踊らなければならないことになっていることへの不快感とを覚えながら、まあとにかく腹いっぱいなのでワイキキビーチを散歩して幸せな夢でも見るかと。

        

 


行ってきました1

2012-07-25 17:08:13 | DB

時間を17日戻して、7月8日。

午後9時15分関西国際空港発ハワイアン航空HA450便の機上の人となった我々は、およそ8時間後の現地時間8日午前10時15分、ホノルル空港に降り立ったのであった。

今回は入国審査も無事通り、(過去には拳銃やら薬やらを問われ、特別なおもてなしを受けたこともあったのだ)旅装を解いて2日目。

ビショップ・ミュージアムを訪れた。

       

このミュージアムは、カメハメハ大王のひ孫、バニース・パウハヒ・ビショップ王女がなくなった後、夫のチャールズ・ビショップ氏が1889年に設立したもので、正式な名前を

Bernice Pauhahi Bishop Muesum

という。

       

ホールに入って左には「カヒリ・ルーム」というスペースがあり、19世紀初期のハワイ王族の肖像画と王家のシンボルである、「カヒリ」(鳥の羽で作られたのぼりで最近は高いところの埃払いに使われている..というのは嘘でそんな形をしている)が展示されている。

       

この「カヒリ」は、祝祭事などで王家の人々の位置を示すものとされており、まさしくヤマトの戦国時代の旗指物の機能の一部と同じだ。

当初は、王家伝来の美術品だけだったが、現在は、ハワイと太平洋の島々に関する資料が25,000点集められているという。

       

吹き抜けのホールに展示されているこのクジラは、反対側に回ると臓器模型がみられる。

さて、

ここで爺は、宮古島の古代人が洞窟を出て農耕を始めたころ住み始めたであろう展示物を見せられることになった。

       

これは溶岩で作られた石垣だが、まさしく風の強い島では琉球石灰岩を積み上げ、風よけにしながら作られたであろう竪穴住居の原型を見た気がしたものである。

縄文も弥生も何の痕跡もない島の歴史に誰が住居の形式を持ち込んだのであろうか、ホノルルの博物館で宮古島の歴史に思いをはせる爺であった。

もはや、ハワイは買い物の場所ではない。


夏だ祭りだ室蘭だ

2012-07-24 15:30:19 | news

先週末は、宮古の夏祭りでございました。

ハワイの報告はどーなったか?とお思いの方もございましょうが、この暑さでございます。目先のホットなニュースから片付けないと腐ってしまいますので。

この祭りには、遠く室蘭からYOSAKOIソーランチーム「AJG・KIDS」が来島、宮古夏祭りと「ダンスDE結まーるフェスティバル」に出場し、昨日帰蘭されました。

実は、YOSAKOIソーランを生で見るのは初めてでございまして、踊りそのものよりも、1年間これに向けて練習を重ねているという努力に頭が下がってしまうのでした。

        

懐かしの白鳥大橋をあしらった大旗を振りかざしながら、この暑さの中すばらっしいパフォーマンスでございました。

       

地元からは琉球國祭り太鼓宮古支部が迎え撃ち。

       

元気な子供を見るのは良いものです。

わしらの子供の時の祭りといえば、みこし担ぎぐらいのもので、といっても参加できないくらい子供が大勢いたなぁ。

それにみんな浴衣を着ていたなぁ。

今浴衣を着ているのは、某クラブのロシア人くらいかなぁ。

        

とぼやいていたら、その前にしっかり宮古上布らしい?たぶん違うと思うけど、着物姿のおばぁがおった。

そいで綱引きは西軍が勝って、今年は豊漁が約束されたそうな。