しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

米軍統治の痕跡

2018-08-14 17:00:57 | 宮古史

台風発生の多さと翁長知事急死で揺れている沖縄でございます。

明日は終戦記念日。本土では。

当地の終戦の日は2説あります。

沖縄では、当時駐留していた日本軍の牛島司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終焉した6月23日を「慰霊の日」としており、この日が沖縄にとっての終戦だとする説。

この日は、本土の祝祭日と関係なく県の行政機関は休日となり、各地で慰霊式典が開催されます。

もう一つは日本の降伏調印に伴って、沖縄の日本軍代表が降伏文書に調印した9月7日とする説。

この調印によって沖縄が日本から分離され、米軍統治下に置かれることが決定したため、太平洋戦争は終わったが沖縄にとって新たな戦いが始まったという日。

いずれにしても、長い戦いが終わり新たな日本の誕生に期する日8月15日とは遠い世界の感があります。

8月15日の終戦勅語を聞いた沖縄県民はほとんどおらず、住民はガマとよばれる洞穴に日本軍と米軍から身を守るために避難していたといわれております。

もっとも、自宅や病院にいてもラジオを所有していないため聞けなかったとも。

こうして地上戦がなかった宮古島でも米軍の統治が始まり、まずは食料問題の解決に着手するわけですが。

ここに一つの痕跡があります。

前にも画像をあげた記憶があるのですが、米軍が設置したと思われる(記録を探しましたが見当たりません)

TAIRA SLAUGHTER-HOUSE=食肉処理場 または 畜殺場  ですね。

     

しばらく木工所の看板が上がっていましたが、今は廃屋となっています。

屋根の上に少し後ろに傾斜しているコンクリートの板が気になりますが。

市街地のど真ん中にあり、昔は海岸のすぐそばにあったようですが、今はリゾートホテルのすぐ前の墓地の端。海岸から200mほどのところに位置しています。

     

後ろが、客室数137、収容客数374名、全室オーシャンビューのホテルアトールエメラルド宮古島。

この痕跡もいずれ開発の波に洗われてなくなってしまうのでしょうが。

内部は食肉を処理していた気配はもちろんなく、木工所を思わせる跡もありません。

     

この建物もなくなってしまうとここに何があったかも忘れ去られてしまうのですね。

 

 


しょう爺の宮古島史 1.時代区分

2014-02-06 16:49:51 | 宮古史

最近「宮古島史」のカテゴリーにご無沙汰してしまっております。

ここいらで復活させましょう。

この島の歴史を大きく分けると(資料によって呼び方が異なるがここはしょう爺説?を勝手に標榜する)

1.先史時代  先史前期 約4000年前~3500年前

              (約1200年間の空白)

          先史後期 約2800年前~1800年前

               (またまた空白)

2.古琉球   グスク時代  1100年~

         天太(てぃだ)按司(あず)の時代 ~1365年または1370年頃

         豊見親(とぅゆみゃ)の時代     ~1541年   この辺から年号が特定されてくる

         頭(かしら)の時代   ~1611年  

3.近世     1609年 薩摩琉球侵攻 ~ 1879年 琉球処分

            世にいう「人頭税」=これは間違い、正しくは 「定額人頭配賦税制」 1659年~1903年

4.近代     1879年 沖縄県設置 ~ 1945年 

5.現代     米軍政下の時代 1945年~1951年

          琉球政府時代  1952年~1971年

          県政時代    1972年~

この中でも興味深いのは、群雄割拠の「天太・按司」を終結させ、宮古の統一を果たした「豊見親」の時代から琉球政府に呑み込まれて島を統治するために「頭」を拝命するあたりですね。

今年は、このあたりを読み解いて(といっても所説を披露するだけですけど)いきましょうね。

 

 

 

 

突然ですが今日はここまで。

                          

予習したい方は下のページを開いて見ておいてください。

http://blog.goo.ne.jp/umiyako/e/d8d69490bde08a393a17cd1ce275f53c


赤い鳥居の赤名宮

2013-02-20 18:13:22 | 宮古史

数回前に赤い鳥居についてちょっと書いたついでに赤い鳥居の赤名宮を紹介しておきませぅ。

場所は、与那覇湾に面した下地、以前源流を探した崎田川の河口近く、今、フル稼働の沖縄製糖宮古工場の真向かいにあります。

        

ここはほかの御嶽と違ってご祭神がいらっしゃいます。

見てのとおりまだ新しい。右手の緑のネットの中が製糖工場です。

昭和34年のサラ台風で倒壊した後、40年には立て直され、老朽化したため、沖縄製糖会長の肝いりで平成20年に立て直されたものです。

赤い鳥居といえば厳島神社、日本の三大鳥居の一つですが、あと二つの春日大社、気比神宮の鳥居も赤いそうです。気比神宮は行ったことがありません。

ご祭神は、御栄加主(うえかぬす)と称し、人々の昇進栄達を司り、四方四方の事業の成就隆昌も道を開き給う霊験あらかたな神様であると案内板には書いてある。

どうも、神様が養育した12の神々の一人らしく、池間島のウハルズ御嶽や平良のアツママ御嶽等といろいろな役割分担でこの島を掌っているそうな。

建て替えられる前の赤名宮の画像があったので参考までに。

          

この時の鳥居は赤くないのね。


お墓めぐりの続き

2013-01-21 18:00:51 | 宮古史

今朝はびっくりしました。

いつもは、記事をアップすると90人前後の訪問者。怠けていると50~60人程度。

それが昨日の訪問者はなんと260人。

いつもの訪問者以外は、18時から22時の間に「オトーリ」を検索して、2010年4月12日の「オトーリの歴史的意味」という記事にアクセスしてきたようです。

きっとどこかで「オトーリ」が話題に上り、クリック、クリックしたんでしょうなぁ。

さて久しぶりのお墓ネタ。

復習すると、宮古島在来のお墓は、ミャーカと呼ばれる巨石墓(石を積み上げて1枚岩で蓋をした風葬墓地)から沖縄本島の影響を受けた横穴式のお墓になり、やがて屋形墓に変化したのでしたね。

この墓は、巨石墓時代の墓といわれているが、築造技術としては未熟なもので、石を四角くカットし積み上げた壁によって支えるのではなく、4隅の柱石で蓋を支え、その壁は小さな石を積み上げたもののようです。

       

石蓋の下に、いかにも支えてますという風情のガジュマルが人の字型に見えていますが、これは芽を出してから上に伸びられず、横に逃げ場を求めたもののようで、面白い雰囲気になっています、

中は、空洞で柱の間を埋めていた石は今はありません。

       

ここにもガジュマルが絡み付いています。

このお墓は、宮古島統一戦で目黒盛に敗れた与那覇原一族の共同墓地といわれていますが、築造された年代は不明です。

今日は久しぶりに24℃まで気温が上がり、春の陽気でしたなぁ。寒いヤマトの皆様お体に気を付けて。


宮古島の湧水その4

2012-09-04 18:18:02 | 宮古史

台風15号の接近で中止となった「湧水巡りツアー」

11月に再度開催することとなりました。お近くにおいでの際にはぜひご参加ください。

そこで、4つ目の湧水。

ここで初めて文化財として指定されている史跡が登場します。

「山川ウプカー」  通称「長間大川」(ナガマウプカー)  とすると「山川ウプカー」は「山川大川」と記されることになるのですね。

島の東海岸一帯には、「ジャーガル」と呼ばれる新第3系泥岩(クチャ)を材料とする風化土壌が分布していて、保水性が高くミネラルなどの栄養豊富なことで有名です。

クチャとは古代の海泥が地盤の隆起によって地表に現れた泥のことで、世界的にも本島と宮古島にしか存在しない土なのですね。

最近はその粘土鉱物粒子が肌の汚れを吸着するとして顔パックにも利用されているみたいですよ。肌の汚れが気になるそこのあなた。

この土の有用性に目を付けた土地改良担当がどんどん土を持ち出して圃場整備の表土として使った結果、大きな穴ができてしまったが、これ幸いと廃棄物処理場に転用。

その結果このそばを通る県道では海側の歩道が崩落し、現在も片側通行が続いているのでございます。

崩落の原因は、地下水脈がこのあたりに集中し、廃棄物処理場の沈砂池工事でさらに掘削した結果、地盤が緩んだとされておりますが、このあたりの湧水と歴史を甘く見た結果だと関係者(小生のことだけど)は見ているそうです。

話がそれてしまいましたが、この湧水の下流には、かつて、このジャーガルで構成される長間田(ナガマダー)と呼ばれる水田が開かれて、島内でも有数の米どころだったということです。

その水源がこの湧水というわけです。

      

水量は豊富で、今でも生活用水に使えるのではないかというほどです。

      

下のナガマダーは、琉球王朝の尚真王が、宮古島統一の祖、仲宗根豊見親に与えた土地として知られていますが、豊見親が、与えられる際にどれくらいほしいか聞かれ、縄状のものだったかなんだったかを出して「これで結構です」と言ったとか。

「これはこれは欲のないお人よのう」と尚真王いたく感心しておりましたが、仲宗根さん、やおら縄をほどき始めそれを長くつなげて広大な土地を囲い、「これだけでございます」と要求。

宮古島の一休さんみたいな豊見親の一説でございました。

(話の細かい部分はかなりいい加減でございますので取扱いにご注意ください)    かしこ