しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

長墓遺跡の今

2021-02-16 17:59:10 | 宮古史

この島のコロナパニックもようやく落ち着きを見せ、昨日まで5日連続で感染無、この1週間で2人と落ち着いています。

コロナワクチン保管用の超低温冷凍庫も県立病院に配置され、来月に3台と合わせて4台が設置されるとのこと。

それでも不要不急の外出自粛は続いておりまして、まだまだ安心はできません。

そんな中、不要不急ではありますが、気分転換にNO蜜な一人探索を初めまして、絶対他人と接しない場所訪問シリーズをはじめたところであります。

第1弾が先日の排水トンネル探しでしたが、第2弾はいまだにアクセスがある「長墓発掘現場」の今です。

ただし、これも単なる思い付きですのでいつ自然消滅するかわかりませんのであしからず。

これは2010年から始まった西日本大学ハドソン教授指導の「長墓遺跡」発掘事業のお手伝いをしたことに始まります。

詳細は2010年7月5日からのシーズン1から2013年まで(最終年は不参加)のシーズン4まで各年7月頭を中心とした記事を参照してくださいませ。

さて、風葬の地の現場の記憶は残っているのか。

        

確かこの嶺の牛小屋の横だったはずですが

        

ありました。目印の慰霊の碑。

未だに供物を用意して下さっているようでしっかりと残っていました。

ところが

        

入口が見当たりません。左下の碑の脇を昇っていくはずでしたが、すっかり雑草に覆われて立ち入るすべもありません。

あれから7年もたちますので致し方ないところです。

遠い過去に葬られた人たちに合掌しつつ現場から去りました。


中休みの先

2021-02-09 17:41:49 | 宮古史

1月26日突然発表された宮古島新型コロナ感染者34名。

以来、全国ニュースにもなり、陸自派遣要請にもなり結構ざわついたこの離島ですが、昨日ようやく28日ぶりに感染者がゼロとなり小中学校の授業再開や公共施設の利用が可能となりました。

多くの方からご心配の声をいただき、なんとありがたかったことか。「離島は隔離施設みたいなもので爆発的な感染はないだろう」とうそぶいておりましたが、アルカトラズ内の感染には無力であったと思い知らされた次第です。やっぱり島流しだったのか。

公共施設利用禁止が公園や公園内の運動施設利用まで拡大されることとなり、散歩・ジョギング・軽運動を路上でやるしかなくなるのは「???」でしたがこれを機会に週末島内歴史探索一人旅を再開してみました。

新型コロナ感染のつかの間の中休みに因んで、この島にある中休みの先の土木施設をご紹介します。

宮古島市の中心平良地区から南東に約20キロのところに城辺(ぐすくべ)という地区があり、そのちょうど中間に中休みというところがあります。昔、城辺の人が徒歩や馬で平良への往復時にちょうど中間となるところでちょっと一休みした場所ということらしいです。

その先の城辺地区の北側は、四方を丘陵に囲まれ大雨のたびに浸水し梅雨時には2~3ヶ月も水が引かないという土地でございました。その対策として地元の有志が組合を組織し、4年の歳月をかけて約1キロのトンネルを東側の海へ向けて貫き排水することとなったのでございます。

そのトンネルがこちら。画像は宮古島市HPから転載しました。

           

断面は高さ2.45m中央部の幅2.7mでしたが、1933年完成から50年たった1983年には老朽化が激しくなったためその横に半径5ⅿの新たなトンネルを新設、2000年に完成しました。

その画像は..........撮れませんでした。

現在はトンネル手前の水路の補修工事中で立ち入り禁止の上、降りたとしても一人ではとても上がれません。

       

この先に坑口があると思われるのですが。

       

その手前には珍しくも水路を跨ぐ橋もあります。伊良部大橋に及ぶべくもありませんが、宮古島内の水路橋では3番目くらいに長い橋です。

というわけで中休みの先にはトンネルがあり、そのトンネルを抜けなければ元の世界には戻れない、まだ先は長いぞというお話でした。   チャンチャン


麻姑山書房の引越し先

2015-07-27 17:53:35 | 宮古史

もうこれは宮古史に名を連ねるべきです。貴重な文化の損失です。

3月16日の記事にアップした宮古島「麻姑山書房」の解体。面妖なツタの絡まる怪談話の建物ではありました。

現在は、更地になって都市計画道路として拡幅工事が始まるまで、駐車場として供されています。

       

奥のプレハブには売り物の古書がいまだに備蓄されております。

さて、この書房今はどこにあるかというと       さすが朝7時、野球部朝練には出くわさなかったのですが。

      

今年の夏の甲子園出場を一番早く決めた高校「興南高校」5年ぶり10回目だったかな?宮古高校も準決勝まで勝ち進み、よもや、の期待を持たせましたが残念でした。

この興南高校から徒歩で2分。閑静な住宅街の一角に突然現れる、普通の家。

       

と思いきや、

       

やはり面妖感はぬぐえない看板と店主。

の看板はまさしく宮古島にあったもの。

店主田中さんはシャイな方でこちらを向いてくださいという注文に、「いやいや」と水遣りの手は休めてもらえませんでしたが。

文庫本と郷土本一部、全体の5分の1ほどを那覇に持ち込んで開店したとのこと。

先ほどの駐車場の奥のプレハブに20万冊といわれている書籍の8割がまだ眠っているわけです。

開店時間と爺のスケジュールが合わなくて店内には入れなかったのですが、会話中に「ああ、あなた多良間島の......」

今度はこちらが「いやいや」と「多良間には1度いったきりです」

次回はぜひ店内で歴史本漁りを。


しょう爺の宮古島史 2.人頭税とサトウキビ栽培

2014-02-17 18:06:43 | 宮古史

しばらく続いた雨でサトウキビの収穫ができず製糖工場が操業停止となっていましたが、ようやく再稼働したようです。

その原因は、生産者の高齢化で最近増加した機械によるキビ刈り(ハーベスタといいます―ザリガニみたいです)が雨で稼働できなくなったからです。

         

こちらは手刈で刈り取られたキビの束。

         

一束が500㎏から600㎏。10束ほどありますから、今年の価格ではこれ全部で11万から13万円ぐらいでしょうか。

1トン当たり21,800円のうち国の交付金が16,320円。砂糖輸入の関税が財源です。

TPP協定に敏感になるはずです。

このあたりは前にも書いたかなぁ。

このサトウキビ、宮古島で栽培され始めるのは明治に入ってから。それまで栽培が禁止されていたのです。

それは、琉球王府が宮古島に課した税制と無縁ではないのです。

 

「人頭税」正しくは「定額人頭配賦税」は、宮古島において1659年から1902年まで課せられた税制です。

「人頭税」は、ヨーロッパやインド、中国などで導入されてきた税制で、その多くは、すべての統治される人に一定額の税金を課するもので、支払い能力に関係なく支払う義務が生じるものだといわれています。

それに対して、宮古島をはじめとする先島で導入された「定額人頭配賦税」は、島から琉球王府への年貢高を人口の増減にかかわらず、定額(粟換算で3,367石、内訳は粟納で1,150石、反布納で4,998反)で治めるものでした。

この粟と布の物納の時代には、島の中での通貨も粟が使用され、いわゆる換金作物ではなかったのですね。

また、年貢として粟を収めていたために、ほかの作物を作りたくても粟の栽培をやめるわけにはいかず、効率の悪い畑作を続けなければならなかったのです。

そこで、換金できる作物としてサトウキビの栽培を進め、金銭で納税したいと考えるようになったのですね。もちろんこれには寄留商人と呼ばれる他府県の実業家が、宮古島に金儲けの道を見つけ後押ししたことはいうまでもありませんが。

すなわち、サトウキビに代表される換金作物の導入には納税制度を変える必要があった、定額人頭配賦税制を廃止する必要があったということですね。

この人頭税廃止運動にかかわった農民リーダーの多くは、後に大土地所有者に成長し、寄留商人は宮古島の商業の中心となり、島の近代化が進んだといわれております。

めでたしめでたし。


宮古島の森をどーする

2013-11-25 18:12:22 | 宮古史

昨日、宮古島の神を畏敬し、神の鎮まる森を守ろうと20年前に、「宮古島の神と森を考える会」を立ち上げた民俗学者 故谷川健一氏を見送る会に出席してきました。

氏は、今年8月、92歳で逝去されました。

個人的にもお付き合いはなく、氏の著書を読んだこともない爺ですが、スケッチオブミャークの中に歌われた神歌と伝統祭祀の復活に奮闘してこられた方と聞き、あふれる好奇心で顔を出してきました。

          

氏の宮古島に関する代表的な著書のひとつに「神に追われて」と題する著署があります。

この著書は、宮古島のシャーマン「カンカカリャ(神懸り)・ユタ」の成り立ちについて書かれたもので、本人によるとユタになる過程において

「平凡な一介の主婦または娘が、ある日突然神の声を聴く、しかし彼女の世俗的な夢や希望はその声に逆らう、まだ自分は世俗的に色々な夢を見ており、神の命から遠ざかろうとする。しかし、それを神は許さない。それが神に追われるということだ」

すなわちなりたくてなりたいわけではなく、神の道に入るための試練を受け続ける、最後には神に許されるか自らの命を絶つかまで追い込まれるということらしい。

その間は、狂気の沙汰で、肌足でボロボロの着物をまといながら宮古島中をさ迷い歩き、塞がれた井戸があれば開けろと叫び声をあげ、宮古の根を掘り起こせとわめき歩く等いわゆる気違い扱いされるわけですね。

最後には、ある御嶽の前に行くと頭のてっぺんにビビッと響く音を感じ、自分の神を発見するということです。

そのようなカンカカリャの一人である根間忠彦さんという方が出席され、魂の弔いで見送りました。

           

見かけは普通のおじさんですが、宮古島では有名なユタの弟で、自らも学生時代にカンダーリと呼ばれる神による体験を経験しています。

           

宮古島の森林率は全国の7割に対して2割を切っています。大きな森を住まいとしている神々にとって居場所を失っていくということを意味する開発は伝統的な祭祀の危機にもつながっている現状を変えようとしているのがこの会の趣旨です。

今、島ではこの会をはじめとして植林、育林行動が芽生えています。

公共では、防潮・防風・防災林造成事業という名を冠して。