年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

上野戦争(彰義隊)を語るとその人の歴史観が現れる

2024年06月25日 | 宅老のグチ
荒川区の中央図書館の郷土資料室で荒川区史とか地域の歴史書を読んでいた。多くの明治維新物の本と違って荒川区民の郷土資料の維新史は幕府方の逸話が多く書かれていて、いかにも寛永寺の恩恵を受けていたことを知る。荒川区の主要な地域は寛永寺の寺領地だった。たった半日の戦闘で敗北し、逃走した彰義隊の人達の逃亡支援の様子がが今でも言い伝えとして残る。同時に朝廷方の天才的軍略家だった大村益次郎を讃える書き方していて、それなりの戦前の史観に合わせる工夫がある。それから敗戦後の一応明治の歴史観・幕府は悪、薩長政権は正義という歴史観で戦前は統一されていて、その中で評価の一番難しいのが上野寛永寺に立てこもった彰義隊の名目上の旗頭だった寛永寺の輪王寺宮の評価で、通常は静岡での西軍と交渉した当事者の名前で覚王院義観が中心となる歴史記述となる。この時の様子は後々の歴史のため、隠されていてはっきりしない印象がある。ひたすら恭順という姿勢で征東の有栖川宮と交渉に臨んだが無視され、江戸に戻ることになった。一応幕末史や小説ではこのようになっている。
 上野での彰義隊の敗北後に、輪王寺宮と覚王院義観は東北に逃れ、宮は投降し、京都で蟄居となる。覚王院義観は捉えられ、西軍の食料を拒み餓死したという。・
そんな関係で荒川区の郷土歴史の所へ行く。
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