トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

矢作橋まで、二十七曲がりを歩きました!

2012年11月11日 | 日記
旧東海道岡崎宿を歩いています。ここまで、大平一里塚から伝馬通りを経て、板屋町まで歩いてきました。今日は、板屋町から矢作橋までをまとめます。

板屋町を南に進んでいると左側に「板屋町角」の石標を見つけました。旧街道はここを右折して西に向かっていました。

南北に走る国道248号線の先に、愛知縦貫鉄道の高架が見えています。この道をさらに進みます。

国道248号線を横断します。先に「これより八帖町突き当たり角まで 400m た」の道標がありました。

その隣に、もう一つ、「松葉総門跡」の石碑がありました。松葉総門は、城下町の西の出入口に建てられていました。東の籠田総門とともに、藩主水野忠善によって、承応3(1654)年に建てられました。道標にしたがって、このまま直進します。

歩き終わった後、岡崎公園駅まで帰って気がついたのですが、「松葉総門跡」の碑は、愛知縦貫鉄道中岡崎駅の前に建てられていました。

松葉通りの道路標識が見えました。松葉通りに沿って、さらに西に向かいます。

愛知縦貫鉄道の高架下をくぐります。くぐったとき、ちょうど、すぐ近くの中岡崎駅から出た列車が通過して行きました。

「二十七曲り れ」の道標です。その下に「八帖村」の石標がありました。ここから、「松葉通り」は「八帖往還通り」に名前が変わります。

八帖往還通りをさらに西に進みます。

岡崎城から八丁(八町)のところにあるから名付けられたという「八丁味噌」の醸造場がある通りに入ります。大豆そのものを麹化して、塩と水だけを加えて熟成する豆味噌で、三河から尾張地方に独特のものです。三河武士が兵糧として持ち歩いたり、江戸時代には、矢作川の水運により江戸にも運ばれていたといわれています。

左に、まるや(太田家)。 太田家は、元禄9(1696)年創業と言われていましたが、平成10(1998)年に、「創業660年」と認定されたそうです。1337年に、開祖弥治右衛門が味噌づくりを始めたということです。

右に、カクキュウ(早川家)の醸造場です。こちらも、正保2(1645)年創業という老舗です。

カクキュウの醸造場の脇を右折(北行)すると「八丁蔵通り」に入ります。国道1号線まで続いています。
旧街道は、さらに西に進みます。突き当りを右折(東行)するのが、旧東海道です。

突き当りにあった道標です。昭和61(1986)年に再建されたもののようです。「左 江戸 右 西京」とありました。

右折(東行)して進むと、右側のカクキュウの醸造場の手前に、光圓寺の本堂と鐘楼が見えました。

さらに、「八帖往還通り」の石標を左に見ながら進み、ゆるやかな坂を登りきると国道1号線に合流します。左(西)に向かうと矢作橋です。「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」といわれたように、下を流れる矢作川の水運は、岡崎藩に大きな恩恵をもたらしました。

矢作橋は旧東海道で最も長い橋でした。天保8(1837)年には長さが160間(約288m)あるといわれていました。天保13(1842)年には長さ108間(約194m)という記録もあるそうです。 当時は、現在の橋より下流に架かっていたようです。

また、矢作橋は、蜂須賀小六と日吉丸(豊臣秀吉)が出会った橋として知られています。
日吉丸は矢作橋の上に寝ていたとき、野武士の首領蜂須賀小六に、頭を踏みつけられました。日吉丸が「謝れ!」と小六をにらみつけたのを見て、小六は日吉丸を家来にしたといいます。彼の肝力を高く買ったからだといわれています。(「太閤記」)

しかし、この話はいくつかの点で史実と異なっています。矢作川に最初に橋が架かったのは慶長6(1601)年頃のことだそうで、すでに、秀吉は亡くなった後でした。また、実際には、蜂須賀小六の方が豊臣秀吉の家来になっています。話を面白くするためにこういう筋書きにしたのでしょうか。 
矢作橋の西詰に、蜂須賀小六と日吉丸との「出会いの像」があったということでしたが、現在の橋には見つけることができませんでした。古い方の橋を撤去する工事が進行中でしたので、支障のないように撤去されていたのでしょうか。

「東海道五十三次」の岡崎宿です。矢作橋の上を大名行列が岡崎宿に向かっています。遠くに岡崎城の天守閣が描かれています。

現在でも城は見えるのでしょうか? そう思って、振り返ってみると、ビルの間から、今も岡崎城天守閣を見ることができました。

旧東海道は矢作川を渡った後、右折(北行)し、その先を左折(西行)して、次の池鯉鮒宿に向かっていました。

やっと、矢作橋まで歩き終わりました。私が歩いたコースでは、二十七も曲がっていません。少し足りようです。それに、途中で道を間違えたのではないかと思うところもあって、達成感は今一つです。しかし、早朝から10時間かかって歩き続けたということには、ある程度満足しています。ただ、歩いてみて「二十七曲がり」は、名の通り二十七曲がっているのか、「二十七曲がり」の起点と終点はどこなのか、正しいルートはどうなのか、
疑問点がいくつか出て来ました。
「二十七曲がり」の正しいルートや数え方をご存知の方に、ご教授をお願いしたいものです。