旧東海道岡崎宿を歩いています。
大平一里塚から岡崎宿に入り、宿場の中心である伝馬通りから総門通りまで歩いて来ました。
これは、旧街道沿いに置かれていた二十七曲がりの案内板ですが、図の右にある「伝馬町界隈」と書かれたあたりから再スタートしました。昭和20年(1945)年の空襲で災禍を受けて復活した都市であるため、見所といってもそれほどあるわけではなく、道標や石標をもとに二十七曲がりをたどる旅になりました。
総門通りにあった道標です。「次の 籠田総門碑まで 170m へ」と書かれています。「へ」の道標の先に「きらみち」と書かれた道標がみえます。「西 京いせ道 東 京みち」と書かれており、明治2(1869)年の建立でした。「吉良道」は、岡崎宿の一つ江戸寄りの藤川宿から、東北方向に別れて、西尾・吉良方面に出る街道です。伝馬通りから総門通りに向かう道の先の六地蔵坂を南に向かっていました。
総門通りを、西に向かって歩きます。
旧岡崎銀行本店の建物が右側に見えてきました。大正6(1917)年にルネサンス式、赤れんがと花崗岩で建てられました。色鮮やかで気品があり、しばし見とれてしまいました。昭和25(1950)年に岡崎商工会議所として使用されるため改造されたそうです。現在は、岡崎信用金庫資料館として使われています。
資料館の向かい(総門通りの南側の歩道)は、「御馳走屋敷」があったところです。伝馬通りにあった「岡崎伝馬歴史プロムナード」の「お茶壷道中」で、家老が一行をもてなしていたと書かれていたところです。
岡崎康生郵便局の先で交差する南北道路の中央に緑地帯があります。進路の右側に東総門跡の碑がみえました。「籠田総門跡」と書かれています。緑地帯を右折(北行)して次の通り(伝馬通りの延長部分にあたる道)の脇に「田中吉政」の像がつくられていました。
天正18(1590)年、豊臣秀次が尾張に移った後、田中吉政が5万7千石を与えられ岡崎城に入り城下町づくりを始めます。かれは、関ヶ原の戦いでの軍功を認められ、筑後1国を与えられ32万5千石で柳川に移りました。その後、本多氏の支配を経て、正保2(1645)年、水野忠善が5万石で岡崎城に入りました。この「籠田総門」を置いたのは、承応3(17654)年で、西の総門である「松葉総門」も同じ年に作られました。東総門は万治元(1658)年と寛文10(1670)年の二度、大火で焼失しましたが、その都度建て替えられたそうです。東から岡崎城下に来る旅人を取り締まっていました。
その先は籠田公園。昼下がりに小学生が先生と一緒にお弁当を食べていました。
公園の東にあるトイレの前にあった「籠田総門角常夜灯」です。寛政10(1798)年、石工の七左衛門がつくったもので、総門付近にあったものです。
籠田公園を抜けて、その北の連尺通りへの入口にある路面に道案内がありました。
「籠田町より連尺町角」の碑も見つけました。連尺は物を背負う道具のことでそこから宿場で物を運ぶ人のことも指すようになりました。宿場町に多い地名です。
左折(西行)して、連尺通りを西に向かって進みます。
本町通りの交差点を過ぎたところで、右側に「これより 次の材木町口角まで 80m と」の道標がありました。向かい側(連尺通りの南側)の歩道に「藩学校跡」の碑がありました。
「と」の道標の先に、「対面所前角」の碑が立っています。対面所は、岡山藩にもありましたが、岡崎藩主の客と会うための施設があったところなのでしょう。
その手前を右折(北行)して80m歩きます。
正面の民家の前に「材木町木戸前」の碑が見えました。そして、その左手前に道標がありました。「これより 次の材木町角まで100m ち」と書かれています。ここから左に折れて進みます。
左折した後、西に向かって進みます。
すぐ目に入る「町なかジャズスペース」の手前の交差点に、「これより 次の材木町角まで 150m り」と書かれた道標がありました。右側にあるTOWAマンションの先の交差点を右折(北行)します。
150m先の右側にあるファミリーマートを左折します。木まち通りに入ります。「これより 次の柿田橋角まで 350m ぬ」の道標を見ながら西に進みます。
柿田橋に近くなると、右側に伝統的な民家が並ぶ地域に入ります。ずっとビルが立ち並ぶ中を歩いてきましたので、とても新鮮でした。
その中で、ひときわ目立つ商家がありました。連子格子の重厚な商家で、江戸時代の面影を残す看板がありました。
看板には「唐弓弦」とかかれていました。「唐弓弦」は「とうゆみづる」と読み、江戸時代に綿を打つために使われた道具でした。江戸中期から、矢作川沿いの農村で綿作がさかんになり、三河木綿はこの地域の特産品として知られていました。
「唐弓弦」の民家を過ぎるとすぐ柿田橋になります。
橋の手前の左側に「これより 次の三清橋角まで 190m る」の道標がありました。左折して伊賀川沿いを南に進みます。
二十七曲がりの案内図によると、旧東海道は、伊賀川の対岸まで行って左折して南下しながら、もう一度伊賀川のこちら側まで戻ってくるルートだったようです。
川沿いの桜の木の下に、「材木町より下肴町角」の石標も見えました。
この通りは、桜並木になっていました。春には桜吹雪の中を歩くことになりそうです。
交差点の向こう側に、広々とした敷地をもつ”Libra”(図書館交流プラザ)がありました。見えませんでしたが、その向こう(後ろ)に岡崎城があるはずです。
その手前に、「下肴町より田町角」の石碑がありました。石碑を右手に見ながら正面の通りを渡ってから右折(西行)し伊賀川を渡ります。
「これより 次の田町北角まで 45m を」の道標がありました。
45m先にあった「わ 二十七曲り」の道案内です。案内通りに左折(南行)します。
静かな住宅地です。田町という名前ですので、もとは田が広がっていた所なのでしょう。
その先に、「ゆ」という文字を見つけました。近くに行くとドアに「男」と「女」と書かれているのに気がつきました。銭湯の跡でした。でも、ずいぶん前に廃業されたような印象でした。
その向かいには、小児科医院と書かれたお宅がありました。まだ、診療されているのでしょうか。
通りの突きあたりは国道1号線。手前に「田町角」の石碑がありました。
歩いている時には、何とも思わなかったのですが、まとめていて気になったことがあります。「わ 二十七曲がり」の道標があった所からここまでのルートは、自分が歩いた道で正しかったのかということです。案内図には、国道1号線まで斜めの道でつながっています(田町と書かれた部分です)が、私が歩いたのは1号線とまっすぐつながる道だったからです。今は大変気になっています。今後、もう一度歩く機会があれば、確認してみたいと思っています。
緑地帯があるため、1号線をまっすぐ横断することはできません。右(西)方向にある横断陸橋で1号線を渡った後、左(東)側に降りました。
国道1号線を戻って最初の右(南)に行く通りに「板屋町入口」という石標がありました。
右折して南に進みます。商店の前に「東海道」と「二十七曲り か」の道標が見えました。さらに南下します。
少し行った左側に、新田白山神社の裏参道があります。
新田白山神社の本殿です。旧東海道からの参道は、本殿の裏側に続いていました。
板屋町は、理容室から先は道幅が狭くなります。板屋町は、以前遊郭があったところともお聞きしました。木造のお宅が続く、旧街道らしい落ち着いた雰囲気の町でした。
旧街道の左側の電柱のところに「板屋町角」と書かれた石標がありました。旧東海道は、ここで、右に曲がっていたようです。
総門通りから、連尺通り、木まち通りを経て田町から板屋町通りまで、旧東海道二十七曲がりをたどって来ました。この日は、早朝から歩き続けていたため、板屋町に来た時にはもうかなり疲れていました。こうし、て二十七曲がりをまとめている今も、かなり疲れています。 まとめの作業も、今日はここまでにします。この後のルート、松葉町から八帖町、そして矢作橋にいたる道は、後日にまたということにします。
大平一里塚から岡崎宿に入り、宿場の中心である伝馬通りから総門通りまで歩いて来ました。
これは、旧街道沿いに置かれていた二十七曲がりの案内板ですが、図の右にある「伝馬町界隈」と書かれたあたりから再スタートしました。昭和20年(1945)年の空襲で災禍を受けて復活した都市であるため、見所といってもそれほどあるわけではなく、道標や石標をもとに二十七曲がりをたどる旅になりました。
総門通りにあった道標です。「次の 籠田総門碑まで 170m へ」と書かれています。「へ」の道標の先に「きらみち」と書かれた道標がみえます。「西 京いせ道 東 京みち」と書かれており、明治2(1869)年の建立でした。「吉良道」は、岡崎宿の一つ江戸寄りの藤川宿から、東北方向に別れて、西尾・吉良方面に出る街道です。伝馬通りから総門通りに向かう道の先の六地蔵坂を南に向かっていました。
総門通りを、西に向かって歩きます。
旧岡崎銀行本店の建物が右側に見えてきました。大正6(1917)年にルネサンス式、赤れんがと花崗岩で建てられました。色鮮やかで気品があり、しばし見とれてしまいました。昭和25(1950)年に岡崎商工会議所として使用されるため改造されたそうです。現在は、岡崎信用金庫資料館として使われています。
資料館の向かい(総門通りの南側の歩道)は、「御馳走屋敷」があったところです。伝馬通りにあった「岡崎伝馬歴史プロムナード」の「お茶壷道中」で、家老が一行をもてなしていたと書かれていたところです。
岡崎康生郵便局の先で交差する南北道路の中央に緑地帯があります。進路の右側に東総門跡の碑がみえました。「籠田総門跡」と書かれています。緑地帯を右折(北行)して次の通り(伝馬通りの延長部分にあたる道)の脇に「田中吉政」の像がつくられていました。
天正18(1590)年、豊臣秀次が尾張に移った後、田中吉政が5万7千石を与えられ岡崎城に入り城下町づくりを始めます。かれは、関ヶ原の戦いでの軍功を認められ、筑後1国を与えられ32万5千石で柳川に移りました。その後、本多氏の支配を経て、正保2(1645)年、水野忠善が5万石で岡崎城に入りました。この「籠田総門」を置いたのは、承応3(17654)年で、西の総門である「松葉総門」も同じ年に作られました。東総門は万治元(1658)年と寛文10(1670)年の二度、大火で焼失しましたが、その都度建て替えられたそうです。東から岡崎城下に来る旅人を取り締まっていました。
その先は籠田公園。昼下がりに小学生が先生と一緒にお弁当を食べていました。
公園の東にあるトイレの前にあった「籠田総門角常夜灯」です。寛政10(1798)年、石工の七左衛門がつくったもので、総門付近にあったものです。
籠田公園を抜けて、その北の連尺通りへの入口にある路面に道案内がありました。
「籠田町より連尺町角」の碑も見つけました。連尺は物を背負う道具のことでそこから宿場で物を運ぶ人のことも指すようになりました。宿場町に多い地名です。
左折(西行)して、連尺通りを西に向かって進みます。
本町通りの交差点を過ぎたところで、右側に「これより 次の材木町口角まで 80m と」の道標がありました。向かい側(連尺通りの南側)の歩道に「藩学校跡」の碑がありました。
「と」の道標の先に、「対面所前角」の碑が立っています。対面所は、岡山藩にもありましたが、岡崎藩主の客と会うための施設があったところなのでしょう。
その手前を右折(北行)して80m歩きます。
正面の民家の前に「材木町木戸前」の碑が見えました。そして、その左手前に道標がありました。「これより 次の材木町角まで100m ち」と書かれています。ここから左に折れて進みます。
左折した後、西に向かって進みます。
すぐ目に入る「町なかジャズスペース」の手前の交差点に、「これより 次の材木町角まで 150m り」と書かれた道標がありました。右側にあるTOWAマンションの先の交差点を右折(北行)します。
150m先の右側にあるファミリーマートを左折します。木まち通りに入ります。「これより 次の柿田橋角まで 350m ぬ」の道標を見ながら西に進みます。
柿田橋に近くなると、右側に伝統的な民家が並ぶ地域に入ります。ずっとビルが立ち並ぶ中を歩いてきましたので、とても新鮮でした。
その中で、ひときわ目立つ商家がありました。連子格子の重厚な商家で、江戸時代の面影を残す看板がありました。
看板には「唐弓弦」とかかれていました。「唐弓弦」は「とうゆみづる」と読み、江戸時代に綿を打つために使われた道具でした。江戸中期から、矢作川沿いの農村で綿作がさかんになり、三河木綿はこの地域の特産品として知られていました。
「唐弓弦」の民家を過ぎるとすぐ柿田橋になります。
橋の手前の左側に「これより 次の三清橋角まで 190m る」の道標がありました。左折して伊賀川沿いを南に進みます。
二十七曲がりの案内図によると、旧東海道は、伊賀川の対岸まで行って左折して南下しながら、もう一度伊賀川のこちら側まで戻ってくるルートだったようです。
川沿いの桜の木の下に、「材木町より下肴町角」の石標も見えました。
この通りは、桜並木になっていました。春には桜吹雪の中を歩くことになりそうです。
交差点の向こう側に、広々とした敷地をもつ”Libra”(図書館交流プラザ)がありました。見えませんでしたが、その向こう(後ろ)に岡崎城があるはずです。
その手前に、「下肴町より田町角」の石碑がありました。石碑を右手に見ながら正面の通りを渡ってから右折(西行)し伊賀川を渡ります。
「これより 次の田町北角まで 45m を」の道標がありました。
45m先にあった「わ 二十七曲り」の道案内です。案内通りに左折(南行)します。
静かな住宅地です。田町という名前ですので、もとは田が広がっていた所なのでしょう。
その先に、「ゆ」という文字を見つけました。近くに行くとドアに「男」と「女」と書かれているのに気がつきました。銭湯の跡でした。でも、ずいぶん前に廃業されたような印象でした。
その向かいには、小児科医院と書かれたお宅がありました。まだ、診療されているのでしょうか。
通りの突きあたりは国道1号線。手前に「田町角」の石碑がありました。
歩いている時には、何とも思わなかったのですが、まとめていて気になったことがあります。「わ 二十七曲がり」の道標があった所からここまでのルートは、自分が歩いた道で正しかったのかということです。案内図には、国道1号線まで斜めの道でつながっています(田町と書かれた部分です)が、私が歩いたのは1号線とまっすぐつながる道だったからです。今は大変気になっています。今後、もう一度歩く機会があれば、確認してみたいと思っています。
緑地帯があるため、1号線をまっすぐ横断することはできません。右(西)方向にある横断陸橋で1号線を渡った後、左(東)側に降りました。
国道1号線を戻って最初の右(南)に行く通りに「板屋町入口」という石標がありました。
右折して南に進みます。商店の前に「東海道」と「二十七曲り か」の道標が見えました。さらに南下します。
少し行った左側に、新田白山神社の裏参道があります。
新田白山神社の本殿です。旧東海道からの参道は、本殿の裏側に続いていました。
板屋町は、理容室から先は道幅が狭くなります。板屋町は、以前遊郭があったところともお聞きしました。木造のお宅が続く、旧街道らしい落ち着いた雰囲気の町でした。
旧街道の左側の電柱のところに「板屋町角」と書かれた石標がありました。旧東海道は、ここで、右に曲がっていたようです。
総門通りから、連尺通り、木まち通りを経て田町から板屋町通りまで、旧東海道二十七曲がりをたどって来ました。この日は、早朝から歩き続けていたため、板屋町に来た時にはもうかなり疲れていました。こうし、て二十七曲がりをまとめている今も、かなり疲れています。 まとめの作業も、今日はここまでにします。この後のルート、松葉町から八帖町、そして矢作橋にいたる道は、後日にまたということにします。