トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

伝馬通りから、二十七曲がりを歩く

2012年11月04日 | 日記
旧岡崎宿に入り、二十七曲がりの碑から旧街道沿いに歩いています。

両町公民館に保存されている秋葉灯篭を見ながら進み、ガソリンスタンドの手前を左折して、岡崎宿の中心であった伝馬通りに入ります。

「これより 伝馬通1丁目角まで 660m に」
左折すると、すぐ二十七曲がりの道標がありました。

岡崎宿は、天保14(1843)年には、東西36町51間、約4kmありました。 若宮通り、伝馬町通り、連尺通り、木まち通り、松葉通りを通って、矢作橋から次の池鯉鮒宿に向かっていました。中でも、伝馬町の街並みは東海道五十三次の中でも一番長かったといわれてい
ます。

しばらく進むと、中央部分が緑地帯になっている通りを横切りました。太陽緑道です。
右(北)側の緑地帯の先に、浄土真宗大谷派三河別院の本堂が見えました。この通り(旧街道の1つ北側の通り)には、多くの寺院が並んでいました。

車の往来も多い賑やかな伝馬通りは、岡崎市きっての商業の中心地です。

通りには商店街の方がつくった旗がたなびいていました。、「東海道岡崎宿伝馬通りにようこそ」!

反対側の通りには、”伝馬通り”の標識が。

通りには、”伝馬通り”のモニュメント。

うなぎの乙川屋。 乙川(おとかわ)は、岡崎城の北を区切り、守りを固める外堀の役割を担っています。うなぎもたくさんいたのでしょうね!

眼科医院の看板に隠れるように立っていた常夜灯です。岡崎市内に残る最も大きな常夜灯だそうです。

「伝馬」の交差点の向こう側に、”備前屋藤右衛門”の白い大きなビルが見えました。天明2年創業という老舗の菓子店です。銘菓「あわ雪」。岡崎宿の東の地域に多くあった茶屋で売られていた、豆腐にあんをかけて食べるあんかけ豆腐に由来しています。

この交差点を左折して行くと、乙川を越えて名鉄東岡崎駅の正面に行くことができます。

”備前屋藤右衛門”の周囲に、たくさんの歴史の資料がありました。

備前屋の東側に立っている道標です。「左 信州道」「右 江戸道」「左 京みち」と刻まれていました。この道標は、脇本陣の杉山家にあったものの複製だと説明には書かれています。もともとは、さらに北にある、東海道から足助(あすけ)街道に向かう道を示しているのだそうです。みかげ石で造られていました。

「駒牽朱印」の複製です。備前屋の壁に記されていました。幕府の公用で旅をするものはこの「朱印状証文」によって、各宿場での人足や馬の継立て、本陣の宿泊が優先的に行われたということです。

備前屋の壁面に、文政9(1826)年の「伝馬町家順間口書」が描かれていました。文字通り、町家の配置と間口の広さが書かれていました。白い部分に備前屋藤右衛門、その右5軒目に本陣中根甚太郎の名前が書かれています。

岡崎宿は、天保14(1843)年には、3本陣と3脇本陣、旅籠が112軒あり、6494人(男3081人 女3413人)が居住していました。本陣は、正徳3(1713年)頃には中根甚太郎本陣と浜島久右衛門本陣の2軒でしたが、後に、中根甚太郎本陣、服部小八郎本陣、大津屋勘助本陣の3軒になりました。脇本陣は、鍵屋定七、山本丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒であったといわれています。

備前屋の北の斜め向かいに花屋を営むお宅がありますが、そこには、かつて岡崎東本陣がありました。備前屋の道路をはさんだ東隣には脇本陣桔梗屋がありました。

備前屋からさらに西に向かって進みます。

そこからは、”岡崎伝馬歴史プロムナード”になります。
伝馬通りの両側に石彫りの石造物が20基ほど並んでいて、観光案内や歴史案内をしてくれています。

私が気に入ったのは朝鮮通信使のこの石像でしたが、説明が興味深かったのは「お茶壺道中」でした。私たち岡山県人には、まったく縁のないできごとだったので・・・。

お茶壷道中は、宝永9(1632)年から、宇治茶を将軍に献上するために、毎年江戸・京都間を往復しました。宿場では100人の人足を出す規定になっていました。しかし、多いときには、お茶壷奉行など100人以上の行列となり、宿場の大きな負担になったようです。岡崎藩では一行がご馳走屋敷で休憩した際、家老が出向いて丁重にもてなしていたということです。

伝馬通りでは、多くの建物が建て替えられており、かつての雰囲気を伝えるものはほとんどありませんでした。しかし、ここでほっとするような、心なごむ一画に出会いました。

店の看板に「紙」という文字が残る商家(廃業?)と永田精肉店が並んでいます。永田精肉店の正面には「岡崎市都市景観環境賞」(1990年)のプレートが貼られていました。伝馬通りでは唯一の雰囲気のある一画でした。

永田精肉店の通りをはさんだ向かいにあった大黒屋。大きな白い看板にはなつかしさいっぱいでした。

さらに進みます。

伝馬通1丁目の交差点の手前に、二十七曲がりの道標が建っています。

「これより次の六地蔵下り口まで 60m ほ」の道標がありました。
この信号を左折し始めると、もう一つ石碑を見つけました。「西本陣跡地」。コンビニになっているところに岡崎宿西本陣があったそうです。

また、この道標のある一画には大津屋本陣があったようです。
ここで、旧街道は伝馬通りから別れて左に折れます。南に60m進むと、総門通り(伝馬通りの一つ南寄りの通り)にぶつかります。そこを右折して西へ向かいます。すぐ道標が見えました。

「次の籠田総門碑まで 170m へ」と書かれていました。

旧岡崎宿の伝馬の中心地、伝馬通りをゆっくりと歩きました。岡崎宿二十七曲がりを歩く旅は、まだ緒についたばかりです。この先の東総門跡から、本格的に、二十七曲がりに挑戦することになります。