トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧下津井電鉄の線路跡をたどる(2) 藤戸駅から大正橋へ

2011年08月02日 | 日記
JR瀬戸大橋線の茶屋町駅と下津井駅を結んでいた下津井電鉄は、昭和47(1972)年、新幹線の岡山延伸と同時に茶屋町・児島間を廃業し、瀬戸大橋の開通から程なくして、平成3(1992)年、残る児島・下津井間も廃業しました。下津井電鉄の線路跡は、廃業後、倉敷市の手によって、自転車歩行者専用道路に生まれ変わり、当時の面影を残しながら、今も生き続けています。

2週間前に、茶屋町駅から藤戸駅までの約2.5kmを歩きました。今回は、藤戸駅と児島駅の直前にある大正橋までマウンテンバイクで走りました。前回は文字どおり歩いたため、タイトルを「歩く」としましたが、今回は、「たどる」と表現することにしました。下津井電鉄は、大正2(1913)年、下津井軽便鉄道として、茶屋町駅~味野町駅間が開業したことに始まります。開業の翌年の大正3(1914)年には下津井駅まで延伸し、全線が開業しました。昭和24(1949)年には全線電化(直流600ボルト)が完成し下津井電鉄に変更しています。

ホームの上を草が生えないように舗装した以外は、かつてと同じ姿で保存されている藤戸駅からスタートしました。藤戸駅の次は林駅でした。この間1.9kmだったそうです。やがて、ゆるやかな右カーブになりました。

通りの両側にコンクリートの構造物が見えました。

蔦や雑草に覆われていましたが、高架橋の橋台のようです。下津井電鉄はこの下をくぐっていたようです。

するやかにカーブしながら、県道(児島駅と倉敷駅を結ぶ下津井電鉄のバスが児島地区と倉敷地区をつないでいます)を横切ります。ここからは県道の右側を進みます。
 <追記>

その先の踏切跡に、新しい碑と石碑が見えました。新しい碑には「金毘羅、下津井往来」と「平成30年5月」と書かれています。地元の「郷内歴史保存会」の方々が、今年の5月に設置されたものでした。石碑には「距岡山六四(以下、埋もれています)」左面に「距下津井管轄地四里一町」と刻まれています。道路元標でした。  (平成30年10月3日)


その先で、郷内川にかかる串田西橋を渡りました。              

右側の建物は犬渕公民館です。林駅跡に近づいてきました。少年の頃、林駅に近い郷内川にしじみを取りに来たことがあります。しじみ取りに飽きたら、林駅の方に歩いて行っていた覚えがあるのですが、今、林駅があった場所を見つけることができませんでした。近くにいた人にもお聞きしてみましたが、若い人が多いこともあって「よくわからない」とのことでした。
<追記>
 このときは林駅跡の場所を特定することができませんでしたが、今回はよくわかりました。郷内歴史保存会の方々が駅跡に碑を設置してくださっていたからです。林駅跡に向かって歩きます。

串田西橋を渡って5分程で、右側の犬をモチーフにした公園の脇を歩くようになりました。犬渕公園です。

犬渕公民館の前です。左側に柵で囲まれた広場がありました。ここが、林駅があったところだそうです。

広場の左側にゴミステーションがあります。その脇に、郷内歴史保存会の人々によって、平成30年5月に設置された碑がありました。「下津井電鉄旧林駅跡」「大正2(1913)年 ~ 昭和47(1972)年3月」と書かれています。(平成30年10月3日)

林駅は、下津井電鉄が茶屋町駅~味野町駅間で開業した、大正2(1913)年に開業しました。2面2線のホームがあったそうです。

林駅を過ぎると、水島に向かう県道と並走する区間です。現在の自転車歩行者専用道はそのまま線路跡とは言えないようです。

その先の瀬戸中央自動車道水島インターで、再び、線路跡が現れてきます。この道は、この先で左にカーブしながら、相引池南の信号を越えます。その先に福田駅跡がありました。福田駅は、大正2(1913)年に開業した、1面1線のホームの駅でしたが、蒸気機関車の時代にはこの駅で給水をして、この先にある福南山峠を越えていたそうです。

写真の民家の前に張り出した部分がかつてのホームの跡です。林駅から2.5kmのところにありました。

福田駅を過ぎると、線路跡地は20パーミル(1000mで20mの勾配)とも言われる登りになります。戦時中の木炭で走っていた時代には、乗客が降りて電車を押していたとか、そんな話が不思議でないほどの登りです。瀬戸中央道に近づくとまた線路跡がわからなくなります。

そのまま道なりに進むと、やがて福南山の池の近くで県道に並びます。

江戸時代、岡山藩池田家の崇敬を受けた「木華佐久耶姫神社」への入り口を左に見て、さらに南下します。南倉敷リサイクルセンターを過ぎたところで、県道から離れ右折すると、また、線路跡に入ります。

この写真は振り返って藤戸駅方面に向かって撮影しました。文字通り大きな大池が、進行方向の左側に見えて来ました。線路跡の下の石垣は下津井電鉄が走っていた頃の遺産です。

この先、線路跡は小さな左カーブとなり、ピンク色の建物、「お好み焼き&カフェ」の”anan”で、三たび途切れます。稗田南の十字路から続く広い道路で遮られて、わからなくなっているのです。その道路の手前で小さな橋を渡りますが、「茶屋町・児島間で最大の遺構」といわれる石を積んだ橋脚が残っているところです。しかし、この季節のすごい草のため、橋の上から石垣を確認するのがやっとでした。ピンク色をした”anan”から稗田南の十字路に下って左折すると、三たび線路跡に入ります。そして、稗田(ひえだ)駅跡に着きました。福田駅から3.9km。相対式ホーム、2面2線をもつ駅で、列車交換も行われていました。
 
稗田駅は、大正2(1913)年の開業時には「琴浦駅」でしたが、大正9(1920)年に稗田駅と改称されました。ここは交換設備のある比較的大きい駅だったそうですが、ホームが、やや縮小されて復元されていました。道路の左側、かつて駅舎があった所は「稗田さくら公園」に整備されていました。トイレが設けられていたのに感謝。さらに、1.4kmで柳田(やないだ)駅です。
 
駅の表示板のとなりにあった掲示板。1面1線の駅でした。この駅の開業は比較的新しく、昭和27(1952)年に開業しました。

児島小学校区の方々がつくったもののようです。
   
ここからは、桜並木と、手入れの行き届いた植木類にベンチ、楽しい散歩道になっていました。部活動から帰る中学生とすれ違いながら進んでいくと、やがて永井釦工場の脇を過ぎて、小田川にかかる橋を渡ります。

横断陸橋のように登って行きます。

橋を渡って右に曲がったら、児島小川駅跡です。柳田駅から0.9km。大正2(1913)年に開業したときは「小田駅」でした。「小田村駅」を経て、「児島小川駅」となったのは、昭和6(1931)年のことでした。2面2線のホームがあったはずですが、実は、駅跡がどこにあるのか、さっぱりわかりませんでした。かなり行き過ぎたところでお会いした自転車に乗った女性に、案内をしていただきやっとわかりました。
  
80歳代とおっしゃったこの女性のお話では、民家のある所に駅舎があり、斜め向かいの3本ある桜の木があるあたりにホームがあったということです。下側の写真は同じ所を振り返って撮りましたが、右の植木のところに駅舎があったようです。戦時中は、ここで出征兵士を送ったこともお話ししてくださいました。

裏の道路や近くにある西原(にしばら)被服の工場も、当時のままの位置に残っているということでした。「当時のまま」と聞いて、何かかつての名残があるのではないかと思い、周囲を捜してみました。すぐに見つかりました。旧駅舎の裏の道路に沿って、「小川駅前集会所」の建物がありました!やっぱりここだったんだ、「小川駅」は!

線路跡は、ここから民家の間をまっすぐ南に向かって延びています。すれちがった多くの中学生が通う児島中学校は、線路跡のすぐ脇にありました。自転車通学の生徒にとって、安全で便利な通学路になっていたのです。

児島中学校のある四つ角から、3分ほどで、線路跡は、右にゆるやかにカーブして大正橋に近い、旅館「こふじ」のところで再び小田川にぶつかります。正面に交番が見えました。

昔の写真を見ると、下津井電鉄はここから鉄橋で小田川を渡り交番の南を通って、児島駅に向かっていたようです。しかし、今では鉄橋はすでになく、線路跡はまた途切れていました。
道や駅跡を捜したり、地元の方に話しをお聞きしたりして、大正橋まで3時間近くかかってしまいました。暑い暑い一日でした。