トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

世界遺産の町と”芋代官”

2011年08月23日 | 日記
旅行代理店のバスツアーで、石見銀山に行ってきました。
石見銀山は、平成19(2007)年、世界(文化)遺産に指定されました。日本では、14件目の世界遺産登録、文化遺産としては11件目、産業遺産としては初めての登録でした。山を崩したり森林を大伐採したりすることなく、狭い坑道を進んで採掘していたこと、精錬で使った材木分だけの植林をしたことなど、人と自然が共生しながら、銀の生産を続けてきたことが評価されての指定でした。
 
仙の山(標高537m)の近くには、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道や清水谷精錬所の跡が残っています。
 
龍源寺間歩。現在、通年で公開されている唯一の坑道です。銀山地区には、仙の山(標高537m)を中心に500を越える「間歩」(「まぶ」、坑道)が残っています。間歩には、仙の山の頂上付近にあるものを1番として、すべてに番号が付けられています。
ちなみに龍源寺間歩には500の番号がつけられていました。
 
龍源寺間歩の内部です。まさに人一人がやっと入れるぐらいの坑道を進んで採掘していたのです。

この絵は、龍源寺間歩の説明に描かれていたものですが、狭い坑道の中で採掘していた作業員の姿が描かれています。当時、作業員の寿命は30年ぐらいだったようです。世界遺産に指定されているのは、銀山地区だけではありません。
 
石見銀山公園から、代官所跡までの約800mの間には、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されている大森の町が続いています。

石見銀山は、鎌倉時代の後期から採掘が始まっていたと言われますが、本格的に行われたのは戦国時代からでした。江戸幕府を開いた徳川家康は、この地を天領として奉行を派遣して治めました。しかし、延宝3(1675)年、奉行の職務は代官の職務に格下げとなり、奉行所は代官所となりました。鉱山の町の、政治と経済を担っていたのが、この地域の人々でした。

代官所に勤めた役人(地役人)の邸宅の河島邸です。
 
代官所の御用商人で、町年寄りをつとめた熊谷家の住宅と西本寺です。この地域は、武家屋敷や商家、神社仏閣が混在して残っているところです。重伝建も「鉱山町」としての指定です。

私が、石見銀山を楽しみにしていたのは、代官に興味があったからです。享保17(1732)年のことです。前年末から始まった天候不順が年が明けても続き、この年も梅雨の長雨が2ヶ月にわたって続く冷夏と、イナゴやウンカの異常発生が重なり、稲作に大きな被害が出ました。この年の収穫は、平常年の27%弱という大飢饉となりました。餓死者12,000人、230万人が飢餓に苦しんだといわれます。世にいう「享保の大飢饉」でした。享保16(1731)年から、初代奉行の大久保長安から数えて19代目の大森代官として赴任していたのが、井戸平左衛門正明(まさあきら)でした。幕府の勘定所に長くつとめた、60歳の代官でした。領民を救うため、幕府の裁可を待たずに、年貢を減免したり年貢米を放出したり、代官所の公金や自身の私財も投入したといわれます。また、薩摩からの甘藷の種芋を手に入れ作付けを命じたともいわれます。甘藷は、これ以後、この地域の救荒作物として、さかんに栽培されるようになっていきました。青木昆陽が、将軍徳川吉宗に甘藷の栽培を進言する3年前のことでした。領民は、「芋代官」とか「芋殿様」と呼んで彼を慕ったといわれています。

井戸平左衛門は、大森代官所に着任した後、岡山県の笠岡代官所の代官も兼務していましたが、翌享保18(1733)年、笠岡代官所で亡くなってしまいます。領民救済の激務から過労で倒れたとも、幕府の裁可を得ずに独断で年貢米の放出をした責任を取って、
切腹したともいわれています。(彼の墓は笠岡市の威徳寺に残っています。)平左衛門がつとめた笠岡代官所は、現在の笠岡小学校の地にありました。

今回はバスツアーだったので、現地ガイドの方の説明を聞きながら、代官所から龍源寺間歩までを歩きました。おかげでいい勉強になりましたが、残念ながら、井戸平左右衛門を祀る井戸神社などゆかりの地を訪ねることはできませんでした。人や自然にやさしい銀の採掘や精錬をして世界遺産に登録された石見銀山は、人にやさしい代官をいただいた町だったのです。

次回は、一人で、ゆったりのんびり、散策しようと思っています。