トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

岡山市の地名由来碑を歩く(5) 旧万町 勘解由橋跡

2011年01月19日 | 日記
これまで、西川に沿って、
旧岡山城下町の十二ノ橋から五ノ橋まで歩いて来ました。
五ノ橋は、桃太郎大通りの西にかかる野殿橋でした。
今回は、桃太郎大通りから北の、
「四ノ橋」から「一ノ橋」まで歩きました。

次の絵図の右が北になります。
そこには、4本の橋が描かれています。

岡山城下町の「四ノ橋」は、
岡山駅前商店街(中筋)のアーケードを出たところにある、
「駅前橋」のところに架かっていました。

写真の白いビルは「岡ビル」です。
その北に続くのが、野田屋町公園。

「岡ビル」と野田屋町公園の間の通りが西川を渡るところにあるのが、
上西川橋です。岡山城下町の「三ノ橋」はここに架かっていました。
現在の岡ビル百貨店のあるところには、
岡山藩の家老の下屋敷がありました。
「文久城下町絵図」には、西川の東と西の両側に、
「池田隼人下屋敷」と記されています。
ここは、通称「刑部屋敷」とよばれていました。
「三ノ橋」は、この東西の下屋敷をむすんでいました。

また、この池田隼人下屋敷の北の並び、
現在の野田屋町公園のあたりには、
「池田出羽下屋敷」があったことが、「城下町絵図」に描かれています。
この家老は天城(あまき。現在の倉敷市藤戸町天城)を領有していたため、
「天城屋敷」(あまきやしき)と呼ばれていました。

明治になってからは、「天城屋敷納涼園」(明治43年)がつくられたり、
岡山県初の常設映画館である「世界館」(明治44年)がつくられたり、
大正2年(1913年)には、劇場の「天城座」がつくられたりして、
歓楽街としてにぎわったところでした。

さて、
池田出羽下屋敷(天城様)の北側には町人町がありました。
西川の東側には富田町、西側には岩田町がありました。


いずれも、城下町の広がりに伴って、できあがった町人町です。
それを結んでいるたが「二ノ橋」でした。
現在は、青柳橋が架かっています。
ここは、後楽園に向かう道であるため、
「後楽園通り」という愛称で呼ばれています。
この通りは、江戸時代の前半からは西国往来(山陽道)が通っていました。
岡山から西に向かう旅人は、この橋を渡って進んでいきました。

上の写真は、「二ノ橋」から西の方向を写したものです。

正面に左右に広がる新幹線の高架下の少し左に、
「旧万町」の地名由来碑が立っています。
岩田町に続く町人町でした。
万町の西には総門と常夜灯があったといわれ、
岡山城下町の西の出口でした。

旧万町は、現在、町の東半分が鉄道の線路に変わっています。

再び、「二ノ橋」に戻り、北に進んで行きますと、
すぐに国道53号線の跨線橋のたもとに出ます。
その跨線橋の下に、かつての「一ノ橋」が眠っているといわれています。

岡山城下町の「一ノ橋」は「勘解由橋」と呼ばれていました。
「岡山市の地名」は、「江戸中期以降、西川の東岸に、
池田勘解由の下屋敷があったためついた名前」だと説明しています。

地名由来碑は、跨線橋を北に越えた東側にある、
現在の南方公園に立っています。

江戸時代の西川は、岡山城下町の西を画する施設であったため、
壊れたり埋まったりしないように、
ゴミを投げ捨てたり、洗濯したり石を投げ込んだりすることは、
固く禁じられていたようです。

岡山城下町時代の西川に架かっていた「十二ノ橋」から
「一ノ橋」までを、南から北に向かって歩いてみました。
距離的には2.5kmぐらいのようですが、江戸時代には、
みんな、こうして歩いて往来していたのでしょうね。