トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

神戸市五色塚古墳を初めて見ました!

2011年01月10日 | 日記
兵庫県最大の巨大前方後円墳、五色塚古墳。この古墳は、築成当時の姿に復元していることで知られています。歴史の教科書にも載っていて、名前はよく知ってはいたのですが、実際に見るのは初めてでした。

山陽電鉄の霞ヶ丘駅の北側の道を、線路に沿って垂水方面に歩いて15分、前方部の西側に着きました。前方部の葺石と高い後円部が目に入ってきます。事務所で、見学を申し込み、パンフレットをもらってから入りました。

三段に築成された前方部から上がっていきました。その階段の両側で、葺石の葺き方が違っていました。右の写真の手前(後円部側)の様子が下の左の写真、向こう側が下の右の写真です。
 
手前側は、写真の左側のように葺石が並んでいました。通常、「復元」というとこのような形になりますね。崩れないようにコンクリートで固めて整然とした並べ方です。一方、階段の向こう側(前方部の前側)、やや黒っぽく見える部分は、葺石が残っているところをそのまま残し、残っていないところには落ちていた石を葺き直して、築造当時に戻しているようです。
もとは、三段築成の中段と上段には大きな石を葺き、下段には、5~10cmぐらいの小さな石を葺いていたそうです。そのまま復元すると、「下段は石が小さくて崩れやすいので、石を葺いた後を土で覆い、その上から芝を植えて復元した」と、説明には書かれていました。

階段を上りきると広いテラスになっています。墳丘の全長は194m、後円部の高さ18mという広さを実感できます

左側には、後円部に登っていく階段がまっすぐつくられていました。かなりの高さに感じました。振り返ると、前方部の先端がずいぶん先に見えます。またまた、広さを実感しました。

学生時代に考古学のサークルに入っていた家人も、うきうきしていました。考えてみれば、築成当時が実感できる古墳はほとんどありませんから。


後円部の頭頂部に上がってみると、三段築成と葺石の状況がよくわかります。右手(西)の方には、円墳の小壺古墳(陪塚?不明です)が見下ろせます。直径67m、高さ9m、立派な円墳ですが、この古墳の広さに比べたら、やはり見劣りしてしまいます。

後円部に上がってすぐ目に入るのが、埴輪列です。ひれ付きの円筒埴輪と朝顔形埴輪が10メートルに18本の割で並べられ、頭頂部を囲むように立てられています。埴輪は、陶器ではなく合成樹脂だそうですが、古墳全体で2200本使用したということです。後円部は、死者(権力者)を埋葬したところ、前方部は、祭祀(埋葬儀礼)をしたところだといわれています。また、一般的に、支配していた地域を見下ろすところに、古墳を造営したともいわれています。

後円部の頭頂部から前方部を見るとき、圧倒的な広さはさらに迫力を増します。そして、そのさらに先に広がる瀬戸内海の沖まで見渡せます。

古墳がつくられたのは、4世紀の末から5世紀の初頭だそうです。大和朝廷の日本統一が4世紀の後半ということですから、後円部に埋葬された支配者は、この海と深い関わりをもつ、そして、大和朝廷とも関係のある地方の有力者だったのでしょう。

この地は、そういう支配者の威厳を示すのに最適の場所だったのだと感じました。



この古墳には、空堀がついていました。そして、空堀の中には方形のマウンドがいくつか残っていました。写真の右は、前方部と後円部の付け根あたりに残っているマウンドです。一辺20m、高さ2mですが、盛り土でつくられていて、埴輪も立てられていたようです。
埋葬施設はないようですが、なんらかの意図をもってつくられたもののようです。

文化庁と神戸市は、この古墳を10年かけて復元保存したそうです。この古墳をつくった人たちは、いったい何年かかってつくりあげたのでしょうか。

人間のもつ、はかりしれない可能性について考えさせられました。