トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

ふるさとの光景 ・・・ 早島町

2010年10月25日 | 日記
岡山市に隣接する都窪郡早島町、
平成の大合併の時にも、自主独立を貫いた誇り高い町。

四国街道沿いに白壁の商家が並ぶ、「陣屋町」でした。
最近、JR早島駅前に、早島の古民家を再建した、
「白壁つくり」の「早島町観光センター」がつくられています。

また、役場の向かいには、生涯教育施設「ゆるびの舎」があります。

早島近辺は、いわるゆる古代の「吉備の穴海」にあたり、
室町時代までは、早島という名前のとおり、島だったところです。
干拓によって陸続きになって行きました。


庭瀬藩主の戸川達安の子、
戸川安尤(やすとも)が3400石を与えられたことに始まる、
陣屋町でした。

2安明の子、安通が、
元禄15(1702)年、備中の国中島村(現倉敷市)に400石を分けられて、
3000石となり、13代安宅のとき明治維新を迎えました。

陣屋は、安明のときに建築が始まり、
17年の歳月をかけて、宝永6(1709)年に完成しました。

明治になって取り壊され、
現在は、陣屋の入り口にあった石橋がそのまま残されています
  
旗本の戸川氏は普段は江戸におりましたが、
その陣屋跡が、早島小学校に隣接したところにありました。
今は、陣屋跡の書物蔵を改修した「戸川氏記念館」がつくられています。


江戸時代に中期以降、町の中心を金比羅往来がとおり、
その街道沿いに、たくさんの商家が建てられました。

明治になって、国家老2名も東京に移り、
陣屋町の為政者は、大地主や豪商のもとに移りました。

駅前に立つ「畳表の早島」の大きな看板のとおり、
水島のコンビナートができるまでは、
近隣の産地からのい草を使った畳表の産地として有名でした。

畳表、経糸(たていと)などの問屋であった、
豪商寺山家は、早島町の文化活動の拠点に改装され、
「いかしの舎」と名づけられました。
「いかしの舎」は「盛りに足りて厳か」という意味だそうです。


私にとっての早島は、桜の名所の早島公園でした。
幼い頃からよく花見に行ったものでした。
また、習字の会で小学校にも毎年行っていました。
今は、昔と全然異なるすばらしい校舎です。

山陽自動車道のインターチェンジができて、
ずいぶん様相が変わりましたが、
今も昔のとおりの、「都窪郡早島町」です。

「いかしの舎」や「ゆるびの舎」、「早島町観光センター」などの、
施設を活用して、
伝統的なよさを生かしながら、
新しい発展を図っていってほしいと思っています。