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「宇高連絡船」や「宇高フェリー」など四国との玄関口で知られた岡山県玉野市は、また、”造船業(三井造船)の町”としても知られていました。写真は玉野市の奥玉地区にあるすこやかセンター(玉野市総合保健福祉センター)の建物です。
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すこやかセンターの南側にある駐車場の一画に、1両の電車が静態保存されています。この車両は、宇高連絡線の玄関口宇野駅と三井造船の事業所がある玉地区を結んでいた、玉野市電気鉄道(以下「玉野市電」と書きます。)のモハ103号機です。その後、高松琴平電鉄に委譲され760号機となり、平成18(2006)年に里帰りしてきました。
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玉野市電の宇野駅は、国鉄の宇野線の終点、宇野駅に置かれていました。写真はJR宇野駅です。この駅舎は以前の国鉄宇野駅より、少し北(陸)側に移動したところに設置されています。写真のほぼ中央に赤いポストが見えますが、当時の玉野市電のホームはポストの左にある電話ボックスのあたりに置かれていました。そこから、JRの線路と平行して写真の向こう側に向かい、その後、緩やかに左に向かってカーブして進んでいました。
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現在、宇野駅付近の線路跡は駐車場になっていて線路跡をたどることはできません。写真は、宇野駅の西を北に向かう県道22号(旧国道30号)を渡る横断陸橋です。陸橋の左側に、宇野駅の次の広潟(ひろかた)駅跡がありました。この日は、玉野市電の線路跡を、終点の玉遊園地前駅跡まで歩くことにしていました。
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JR宇野駅から西に向かって郵便ポストの前を通り、その次のオレンジ色の屋根をした交番の先を右折(北行)します。
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駐車場に沿って進みます。前方にあるJR宇野線の跨線橋をくぐり、両備バスの車庫の間をさらに北に向かいます。
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その後、緩やかな左カーブになり、県道22号の横断陸橋の手前に出ます。駐車場になっているところが、かつての玉野市電の線路跡でした。玉野市電は軌間1067ミリ、全長4.67kmでした。その間に起終点と信号所を入れて、廃止時には14の駅がありました。駅間は最短0.11kmから最長0.73km。地方鉄道法に拠る鉄道路線でありながら、路面電車のようにこまめに停車しながら走り、終点までを14分で結んでいました。
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横断陸橋を渡って西側に降りました。この陸橋の降り口付近に、最初の駅、広潟(ひろかた)駅がありました。開業から7年後の昭和35(1960)年に設置されました。宇野駅から広潟駅間は、路線中で2番目に長い区間で、0.71kmありました。この広潟駅跡から先の線路跡は歩行者自転車専用道路になっています。
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赤く舗装された歩行者自転車専用道路を、左側の玉野市立宇野中学校に沿って歩きます。。さて、資材や社員の輸送を目的に、昭和19(1944)年に国鉄宇野駅と三井造船まで敷かれた引き込み線の路盤を使って、鉄道を走らせようという計画を立て、昭和25(1950)年に備南電気鉄道が設立されました。資金難で何回も中断されましたが、昭和28(1953)年に宇野駅と玉駅(後の三井造船前駅)間が開業しました。すこやかセンターに保存されていたモハ103など3両(他にモハ101、モハ102)が運行にあたっていました。
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宇野中学校を過ぎると小さな川を渡ります。その先にいかにも駅のホームという地形の道路が残っていました。通りかかった地元の方にお聞きすると「玉野高校前駅の跡。一段高いところがホームの跡だよ」とのこと。また、ホームから写真の手前に向かって降りていたと教えてくださいました。玉野高校は写真の右側奥にあります。広潟駅から0.21kmでした。
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線路跡は玉野市築港の静かな住宅地の中を左カーブしながら続いています。その後も、備南電気鉄道は赤字経営に苦しみ、旅客の取り込みをねらって、昭和30(1955)年に当時の繁華街だった玉橋駅(たまはしえき、その後、玉駅)まで0.17kmを延伸させました。しかし、経営は好転せず、翌昭和31(1956)年には玉野市に事業が移管され、玉野市電となりました。
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線路跡はこの先で、天狗山トンネルをくぐります。トンネルの長さは179m。玉野市電に3つあったトンネルの中で最長でした。内部には蛍光灯が点っていて、歩くのに不便はありませんでした。
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トンネルを抜けたところが、昭和34(1959)年に設置された西小浦駅の跡です。藤棚がつくられベンチが置いてありました。玉野高校前駅からトンネルを含めて0.44kmのところにありました。
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その先、線路跡は銀杏並木になります。その外側は道路、そのまた両側に住宅が続いています。広々とした通りです。
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北に向かってスタートした玉野市電が、南に向かって進むようになりました。正面右前に玉野市民病院の船形をした建物が見えます。市民病院の前を左右に走る道路の手前に市役所前駅跡がありました。写真の左側、永野菓子店のビルがあるあたりでした。当時の市役所は市民病院のあたりにあったようです。西小浦駅から0.39kmのところでした。
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この写真は市民病院の前の交差点から左方向を撮影したものです。この道路の先に宇野駅があります。線路跡はここまで半円を描いて進んで来ました。この先さらに南に向かって進んでいきます。
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市民病院の建物の並びに、線路跡に対して斜めに建てられたお宅が見えてきました。ここは古塩浜信号所跡です。信号所は列車の行き違いのために、昭和31(1956)年に設置されました。このお宅はその敷地に沿って建てられたとのこと。玉方面行きの列車が対向車とすれ違うため左側の線路に入っていたのでしょう。ここでタブレットの交換が行われていたそうです。市役所前駅から0.11km離れていました。
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市民病院を出ると、線路跡は正面の山に向かって緩やかに登っていきます。右側に宇野保育園と宇野小学校を見ながら中山トンネルに入ります。出口まで157m、二番目の長さです。
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中山トンネルを抜けて、藤井海岸駅跡をめざします。名前から海の近くにある駅と思っていました。近くにおられた方にお聞きすると「あそこの畑のところで乗り降りされていましたよ」のご返事。
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お話しにあった畑は左側の樹木が生えているところにあったそうです。藤井海岸駅跡。海岸からは少し離れていました。古塩浜信号所から0.73kmだそうです。
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藤井海岸駅跡からしばらく行くと正面に三井造船玉野事業所の巨大なクレーンが見えてきました。海に近くなったことを感じました。
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その先には伝統的な民家が残っていました。住宅地の落ち着いた雰囲気の中を歩いていきます。
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前方に線路跡を斜めに横断する道路が見えました。その手前、右側の白い壁のアパートの下に、かつて玉野保健所前駅がありました。藤井海岸駅から0.46kmでした。
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これはアパートに残っていた階段の一部です。かつては、この階段はホームまであり、それを使ってホームに降りていました。残っていたことに感動しました。現在では必要とは思えない階段ですから・・・。
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斜めに横断していた道路の向こうに大仙山トンネルが見えました。3つのトンネルで一番短く全長60mでした。
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大仙山トンネルの中は、老朽化による不具合の点検や補修のため通行止めになっています。手前を迂回します。
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大仙山トンネルの出口です。すでに補修が終わっていて、出口の形が方形に変わっていました。
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線路跡の前方に要塞のような大聖寺が見えました。この先で道路を横断します。
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線路跡は三井造船の敷地に向かって延びています。
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大聖寺駅跡です。大聖寺に登っていく参道の入り口にあった石標です。ホームは石柱のすぐ左にあり、こちら側から石段を登ってホームに上がっていました。玉野保健所前駅から大仙山トンネルを含めて0.26kmありました。
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大聖寺駅を出た列車は白砂川橋梁で白砂川を渡ります。
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橋脚は列車が走っていた当時のまま残っていました。
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玉野市電の線路は三井造船の敷地内を三井造船前駅に向かっていました。
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写真は三井造船玉野事業所の正面入り口です。近くのカフェのご主人から「あそこに3つ看板が並んでいる建物があるだろ?その前に駅と車庫があったんだ。」と教えていただきました。三井造船前駅跡です。昭和30(1955)年に玉の繁華街まで延伸する前の終点、玉駅の跡でした。
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ここで、大聖寺前駅へ行くとき渡った道を再度渡ります。繁華街まで延伸した時の列車は、正面の三井不動産ビルの左側と、バスの前部との間を繁華街に向けて進んでいました。
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玉の繁華街にあるイベント広場です。ここにかつての終点、玉橋駅(後に玉駅)がありました。三井造船前駅から0.17kmでした。昭和31(1956)年事業が玉野市に委譲され、昭和35(1960)年さらに玉遊園地前駅まで延伸します。また、昭和39(1964)年には会社名はそのままで、ディーゼルカーによる運行に変わりました。
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玉遊園地前駅まで延伸されてからは、イベント広場の脇を流れる白砂川の中に橋脚を設けてその上を列車が走ることになりました。
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現在、駐車場になっているところが、かつての線路跡です。
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玉比咩(たまひめ)神社です。この前に玉比咩神社前駅が設置されていました。玉駅から0.43kmありました。
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犬の散歩中だった女性にお聞きすると、玉比咩神社前駅は神社前に架かる横断陸橋の手前にあったそうです。
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横断陸橋を渡ってさらに進みます。線路跡には駐車場が続いています。
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次の玉小学校前駅跡です。玉比神咩社前駅から0.30km。玉小学校前駅から先は、歩行者自転車専用道路に変わっています。前方にある変電所を見ながら進みます。
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変電所前のカーブで線路を支えた橋脚が見えました。こんなに小さい橋脚で大丈夫かと思いましたが・・。終点が近づいてきました。
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変電所を過ぎると前方に公園が見えました。玉遊園地です。いよいよ終点です。
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玉遊園地前駅は、すれ違った男性のお話では「『すこやかセンター』の看板の手前だった」とのこと。このあたりが駅跡になります。右側の柵のあたりからホームになっていました。玉小学校前駅から0.24kmのところでした。
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玉遊園地前駅跡からさらに10分ほど行ったところにあるすこやかセンターにあった、余生を送る玉野市電のキハ103(車体は高松琴平電鉄760)です。玉野市電を愛する「玉野市電保存会」の人々のご尽力で里帰りした、玉野市電の生き証人です。
昭和28(1953)年、宇野・玉間で開業した備南電気鉄道は、さらに、海水浴場で知られる渋川を経て児島(倉敷市)につなげるという壮大な計画をもっていました。しかし、開業以来赤字が続き、事業の継続は玉野市に委ねられました。玉野市は路線の延長を行い、ディーゼルカーによる運行に転換もしましたが、結局黒字になることは一度もなかったそうです。時代は鉄道から車へ、モータリゼーションの発達により、鉄道事業の継続は不可能となりました。こうして、玉野市電は、昭和46(1971)年3月末日をもって運行を停止しました。「事業の開始が戦時中だったら・・」という地元の声もありましたが、玉野市電はたった19年間の短い生涯を閉じたのでした。”悲劇の鉄道”という言葉が頭をよぎります。
この日、歩行者自転車専用道路になった線路跡には、ご夫婦で散歩をされているたくさんの高齢者の姿がありました。