トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

金毘羅街道の上陸地、丸亀の新堀湛甫

2013年12月24日 | 日記
JR丸亀駅に降り立ち、人通りの少ない北口に出ました。

さほど広くない駅前広場に、常夜灯が立っています。駅の入り口から見えるところに、「金毘羅街道」と刻まれていました。江戸時代から、伊勢参りと並ぶ多くの参詣者で賑わった金毘羅参り。旅人を運ぶ金毘羅船から降りて上陸するのが、丸亀の港でした。四国の各地から金毘羅大権現をめざして、たくさんの人が旅を続けましたが、その中でも丸亀に上陸する旅人が最も多かったといわれています。丸亀は「門前みなと」として栄えました。なお、こんぴらさんは、現在では「金刀比羅宮」と呼ばれていますが、江戸時代には「金毘羅大権現」と呼ばれていました。ここでは「金毘羅大権現」と記します。

丸亀駅北口の広場から、東に向かってJR予讃線に沿って歩きます。100mぐらい歩くと、右側に、予讃線の高架の下から通町(とおりちょう)の商店街が見えました。ここを、左折して海の方(手前)に向かって歩きます。

10分ぐらいで、丸亀港に着きました。右側の三吉旅館を過ぎると視野が広がります。讃岐浜街道に架かる青い京極大橋の手前に、大きな青銅製の灯籠が見えました。

道路の左側、三吉旅館の向かいにあったのが、みなと公園。そこに、「こんぴら丸」がありました。江戸時代、大坂から参詣者を運んだ定期船でした。

でも、これは、復元された展示品ではなく、子供のための遊具でした。船に滑り台がついていました。

こんぴら丸の向こうにあった、一対の常夜灯です。天明8(1788)年、「岡山古手屋中」が寄進した常夜灯で、もともと3基あったそうです。明治24(1891)年に、丸亀から金毘羅大権現に向かう丸亀街道の中府(なかぶ)に移されていましたが、平成元(1989)年にみなと公園に帰ってきました。残る1基は、善通寺市の金倉寺に移されているそうです。

みなと公園の中のオブジェ。金毘羅船が描かれています。江戸時代中期から盛んになった金毘羅参り、一定のお金を出し合い「くじ」に当たった人から金毘羅参りに行く「金毘羅講」が各地につくられました。延享元(1744)年、江戸・京・大坂からの参詣者を運ぶため、定期便、「こんぴら丸」が就航しました。大坂、淀川河口から神戸(魚津)、室津、牛窓、下津井を経由して丸亀に向かう4泊5日の船旅でした。

丸亀港の船溜まりです。新堀湛甫(しんぼりたんぽ)です。天保3(1832)年、丸亀藩は、金毘羅参詣の人を増やすため、幕府の許可を得て、東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫を完成させました。この地の金毘羅宿の柏屋団次らが江戸に向かい、江戸や周辺の国で「金毘羅千人講」を募り、1357人が出し合った資金で建設しました。時の丸亀藩主は丸亀藩の京極家、5代目藩主京極高朗(たかあきら)、40年にわたり藩主として君臨し、丸亀藩発展の基礎をつくったことで知られています。

ちなみに京極家は播磨国竜野から転封し、明治維新まで7代、210年余り丸亀を治めました。7人の藩主のうち、唯一、高朗だけが丸亀市内に墓所が置かれています。南条町の玄要寺にある高朗の墓所です。

新堀湛甫にあった「太助灯籠」です。高さ5,3m、青銅製の灯籠です。天保5(1834)年につくられました。台座に「江戸講中」と彫られていますが、常夜灯千人講を募り、4000人近い人々が浄財を寄付してつくられました。 胴体部分に「奉納 金八拾両 江戸本所相生町二丁目 塩原太助」と刻まれています。寄進した1381名の名が彫られていますが、一番多くの金額を寄付した塩原太助の名を取って「太助灯籠」と呼ばれています。また、「石工 當所 中村屋半左衛門 藤原清品」と刻まれていました。

太助灯籠のところが、金毘羅街道の起点です。丸亀からの金毘羅街道の途中、中府の大鳥居のところに、「従是金毘羅町口江百五拾丁」と彫られた案内石(「起点石」と呼ばれています)が立っていますが、もともとは、起点であるこの太助灯籠の付近にあったものだといわれています。

この新堀湛甫と灯籠の事業は20年もかかった大工事でしたが、莫大な資金は、江戸幕府の老中や豪商などを動かして確保し、藩の財政にはまったく影響を与えなかったといわれています。そのために尽力したのが、丸亀藩江戸留守居役、瀬山登でした。かれは、天明4(1789)年に丸亀藩主の家に生まれ、小姓、大目付、勘定奉行、物頭を経て江戸留守居役になりました。幕府や豪商らとの折衝にあたりました。当時、丸亀藩には江戸屋敷には酒が飲める家臣がいなかったため、接待はもっぱら彼の仕事だったそうです。

現在、太助灯籠のそばに瀬山登の像が建てられています。大事業の功労者でした。かれは、また、江戸藩邸の隣にあった中津藩から団扇(うちわ)の作り方を学んでいます。それを丸亀藩の名産に育て上げました。金毘羅参詣の旅人がそれを土産として持ち帰り、その名声は全国に広がっていきました。丸亀では、丸亀藩の繁栄の立役者として、瀬山登の功績は高く評価されています。

江戸時代を通じて、丸亀港は早朝から夜まで、荷揚げ人足や金毘羅参りの一行で賑わっていました。ここから、金毘羅大権現まで150丁(3里=約12km)ありました。金毘羅大権現をめざす人々は、距離を示す「丁石」や灯籠(常夜灯)を頼りに、旅を続けていきました。








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2 コメント

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楽しませてもらいました (イデイ)
2013-12-25 21:13:08
 今年はもうないかと思いながら、なのに毎日このブログを開いていた。24日の夜、更新を見つけた。
 歴史・地理は特に苦手な私で、”こんぴら丸”からは石松の「鮨食いねえ」が頭に浮かび、”京極”からは大河ドラマの”江の姉の初”が浮かぶレベル。(ああ!素直に恥じを書いている。)今年4月には丸亀城に行き、11月には龍野にも行ったのに、見るところ(深み)が全然違う。だから楽しいのか?? 私が生まれ育った”牛窓”が出てくるとやっぱり嬉しい。そういえば、牛窓にも”金比羅・・・”があったような気がした。25日にさがしに行ってみた。見つけた!!”金比羅宮荒神社”。おかげで、この日の一万歩は楽しく悠々とクリヤー。 トシさんの日記に感謝。
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見ました (山田の)
2014-01-02 21:22:07
 明けましておめでとうございます。今年も楽しませてください。質問です。「常夜灯」がどの地区でも出てきます。今の街路灯の役をしていたのですか?夜中つけていたら、油代がすごくかかると思うのですが、誰が負担していたのでしょう。今度お会いできる時に教えてください。
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