トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧倉吉線の線路跡を歩く

2013年06月04日 | 日記

現在のJR山陰本線の倉吉駅。近代的な駅舎です。かつては上井(あげい)駅と呼ばれていましたが、昭和47(1972)年に倉吉駅と改名されました。かつて、この倉吉駅から、倉吉市の中心市街地を通り、さらに南の山守(やまもり)駅を結んでいた鉄道がありました。旧国鉄倉吉線です。残念ながら、昭和60(1985)年3月31日に廃止になってしまいましたが・・・。
かつての倉吉駅のようすです。以前、倉吉淀屋の邸宅を訪ねたとき(2013年5月13日の日記)、タクシードライバーから、旧倉吉線の跡地の話をお聞きしました。そのときから一度歩いてみようと思っていました。天気予報は雨。いつ降り出してもおかしくないような天候の中を、倉吉駅に向かいました。写真は、倉吉線鉄道記念館に展示されていた、かつての倉吉駅の写真です。

JR倉吉駅の鳥取方面寄りのホームです。この南側から、かつて倉吉線が出発していました。
昭和55(1980)年の倉吉駅発の倉吉線時刻表です。1日12本、通勤・通学時間帯を中心に運行されていたようです。
かつてのホーム跡は、現在はバスターミナルになっています。倉吉線は、明治45(1912)年、倉吉市街地の打吹(うつぶき)駅(開通当時は倉吉駅)と山陰本線倉吉駅(開通当時は上井駅)を連絡する目的で倉吉軽便線として開通しました。 ついに雨が降り始めました。

雨の中を、バスターミナルから山陰本線に沿って歩きます。駅の東にある倉吉アーバンホテルを過ぎると、右カーブが始まります。道なりに進んでいきます。倉吉線は、大正11(1922)年に公布された「改正鉄道敷設法別表」で「岡山県勝山ヨリ鳥取県倉吉ニ至ル鉄道」(南勝線)と規定されていました。姫新線の中国勝山駅から温泉地の湯原、中国山地の蒜山を経由して倉吉駅に至る路線とされていました。
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駅方面から来た対向二車線の道路を渡り、パン屋さんが入居されている建物の先を進みます。倉吉線は、太平洋戦争中、蒜山高原にあった陸軍演習場までの兵員輸送のために、昭和16(1941)年に関金(せきがね)駅まで延伸、さらに、昭和33(1958)年には山守駅まで延長されました。全長20kmの鉄道でした。

用水路の樋門の先にあった白い民家の左側にある、舗装されていない道が、倉吉線の線路跡です。線路も枕木もすでに撤去されており、路盤だけが残っています。
切石が積まれている小さな橋を渡りました。雨がひどくなって来ました。さらに進みます。線路跡は舗装されており道の両端は雑草が生い茂っていました。

線路跡を進み、4車線の道路を渡ります。右側にボーリング場がありました。

さらに進みます。やがて、線路跡は堤のように1段高くなります。
よく見ると、雑草の中にバラストが残っていました。

舗装が途切れ、線路跡は緩やかなに登っているように感じます。雨はますます激しくなり、下半身はびっしょり雨にぬれ靴の中もぐちゅぐちゅ音を立てているような不快感を感じるようになりました。線路跡を進むのを断念し、平行して走る堤の下の道を進みます。

鉄橋が見えてきました。切石が積み上げられた橋台は倉吉線の面影をしっかり残していました。

橋台には、先ほどの鉄橋と同じように切石が積んでありました。

線路跡は、この後、天神川にかかる竹田鉄橋に向かって登っていきます。隣の道から見上げると、線路跡に黒く見える物体が見えました。

かつての信号機器庫でした。平行する道を登りきると天神川の土手になります。

土手道から見た線路跡です。下を走る津山街道と立体交差していた架道橋の橋台が残っていました。

その先の天神川です。かつて、ここには竹田橋梁が架かっていました。

これは、旧打吹駅跡にある倉吉線鉄道記念館にあった、かつての竹田橋梁の写真です。しかし、今は、かつての面影を残すものは何も残っていませんでした。天神川の土手には激しく風が吹いています。傘が吹き飛ばされそうになる中を、上流の竹田橋を迂回して天神川を渡りました。

向かいの土手を歩いていたとき、「上灘」の名前のついた建物(上灘荘)を見つけました。倉吉駅を出た倉吉線の最初の駅「上灘(うわなだ)駅」が近いことを感じました。風と雨にいじめられていましたが、少し元気が出てきました。竹田橋梁の着地点と思われるところまで帰って、左方向に進みます。

これまでと同じ、舗装された線路跡を進みます。ちなみに、倉吉線には、倉吉(2.4km)上灘(1.8km)打吹(2.6km)西倉吉(2.0km)小鴨(1.8km)上小鴨(4.6km)関金(3.0km)泰久寺(1.8km)山守の9駅がありました。駅の間の数字は駅間の距離を示しています。

道路を渡ってすぐに玉川にかかる橋を渡ります。

橋の左側に倉吉線の新玉川橋梁の橋台が残っていました。護岸工事をしたときに残してくださったのでしょうね。

以前に訪れたとき、タクシードライバーから「天神川からはサイクリング道として整備されている」とお聞きしていたとおり、ここから先は、サイクリングロードになっています。雨は降り続いていましたが、風はほとんど感じません。少し、歩きやすくなりました。

道なりに進むと、白い塔が見えてきました。そして、左側には白い建物があります。上灘駅跡です。白い建物はトイレ兼休憩所でした。

前に回ると、「倉吉線上灘駅跡地」の碑が建っていました。後ろは、トイレのある建物です。

かつての上灘駅の駅舎です。鉄道記念館にあった写真です。

さらに道路を渡って、次の旧打吹駅に向けて進みます。雨は降り続いていましたが、このあたりから、雰囲気がずいぶん明るくなってきました。
線路跡は彫刻が並ぶ文化的な通りになっていました。「だんらん」と名づけられた彫刻です。

近代的な雰囲気のサイクリングロードです。しかし、私には、かつての倉吉線の雰囲気とは少し違うのかな?とも感じられました。倉吉線は「最も表定速度が遅い鉄道」として知られていました。また、昭和59(1985)年まで客車と貨車をともに牽引する混合列車も走っていました。印象としては、ひなびた、素朴な鉄道という雰囲気が漂っていたようですから・・・。
車道に近い部分がサイクリングロード。内側がウオーキングロードです。

サイクリングロードとウオーキングロードに分けて、タイルも異なるものが貼られていました。快適な線路跡になっています。
国道を別れて進みます。静かな道です。天候のせいかまったく人通りがありません。真ん中に大きな岩石が置いてあります。これも彫刻でした。

交差する南北の道が岩石の間を通っています。
その先で、線路跡は行き止まりになります。旧打吹駅の跡地に着きました。左側に建てられていたのが倉吉線鉄道記念館です。中には、かつてのディーゼル機関車(DL)や倉吉線の写真や記念の品が展示してありました。

正面から見た倉吉線鉄道記念館。中には管理されている方はおられませんでした。自分で灯をつけて見学し灯を消して出て行くシステム。内部はきちんと整理されていました。マナーのいい方ばかりが見学されているのでしょう。

倉吉線鉄道記念館に展示されていた旧打吹駅の写真です。駅前から通りがまっすぐ走っています。

これが現在の通りです。前回、訪ねたときタクシードライバーに教えていただいたのですが、この正面の、かつて倉吉線で活躍したSLのC1175が静態保存されているるあたりに旧駅舎があったようです。昭和49(1974)年まで、SLが牽引する列車が運行されていたようです。

今回、機会があれば、タクシードライバーとお話ししたいと考えていました。すぐ近くの営業所には、この日、タクシーが一台も客待ちをしていませんでした。雨なのでお忙しいのでしょう。また、予定では、この日、少なくとも西倉吉駅までは、線路跡を歩こうと思っていたのですが、雨のためしんどくなりました。残念ですが、旧打吹駅までで今回は止めることにしました。時間があったので、赤瓦・白壁土蔵地区を訪ねることにしました。

倉吉線は、国鉄民営化(1987年)より前に廃止されました。比較的地味な印象だった鉄道ですが、廃止後28年目の今も、多くの市民から大事にされています。それが、何よりうれしいことでした。

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
見ました (山田)
2013-06-08 19:10:03
 雨の中お疲れさまでした。タクシードライバーのちょっとした一言に反応するのが凄いです。線路の跡は何だか郷愁を感じます。とても楽しい旅行記でした。ありがとうございます。
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