
JR山陰本線の養父駅です。JR山陰本線は、京都駅と山口県下関市の幡生駅間を、日本海側を経由して結んでいます。昭和8(1933)年に、最後まで残っていた須佐駅と宇田郷駅間が延伸開業して、正明市駅(しょうみょういち駅・現在の長門市駅)と仙崎駅間の支線を含めて全線が「山陰本線」となりました。山陰本線には、その長い歴史を伝える開業当時からのレトロな駅舎が残っています。今回は、そんな駅の一つ、JR養父(やぶ)駅を訪ねて来ました。

JR姫路駅からJR播但線の列車で、山陰本線の和田山駅に着きました。そこで、福知山駅からやって来た豊岡駅行きの列車に乗り継ぎました。113系の2両編成、ワンマン運転の列車でした。

和田山駅から5分ぐらいで、次の駅である養父駅の1面2線のホームに着きました。下車しましたが、行き違いのため、列車は停車したままでした。養父駅は、兵庫県養父市堀畑にあります。和田山駅から5.2km、次の八鹿(ようか)駅まで7.0kmのところにありました。

到着してから4分ぐらいで、行き違い列車である、新大阪駅行きの”特急こうのとり14号”が通過して行きました。「養父」という駅名から、どうしても連想してしまうのは、「藪(やぶ)医者」ということばです。江戸時代の俳人、松尾芭蕉の門弟の森川許六(きょろく)が編纂した「風俗文選」の中には、次のような一節があるそうです。
「ある名医が養父に住み、土地の人々の治療を行っていたが、死にそうな病人を治すほどの名医だった。その評判を聞いて多くの医師の卵が養父の名医の弟子となったという。こうして、『養父の名医の弟子』といえば、病人もその家族も信頼し、薬の効果も大きかったという。『養父医者』は名医の代名詞となり、『自分は養父の名医の弟子』」と自称する医師が続出し、いつしか「藪医者」ということばが広がり、ヘタな医者を意味するようになった。」
「養父医者」ということばは、本来は、「養父の名医」を表すことばでしたが、それを悪用する人が出てきたため、「下手な医者」「藪医者」を意味するようになっていったようです。(「藪医者の語源は、養父の名医」養父市健康福祉部保健医療課)

ホームにあった木造の上屋が見えました。壁に掲示しているように、大阪方面行きが1番ホーム、豊岡駅方面行きが2番ホームを使用しています。特急列車の通過も多い駅ですが、1線スルーにはなっていないようです。

上屋の中に設けられていた待合室です。四面ともにガラス張りのつくりになっています。

写真は、待合室の内部です。つくりつけのベンチがあるだけのシンプルなつくりでした。ゴミ一つない清潔な待合室でした。

養父駅が開業したのは、明治41(1908)年7月1日、官設鉄道が和田山駅・八鹿駅間を延伸開業させたときでした。当時、福知山駅と和田山駅間はまだ開業していなかったので、和田山駅から姫路駅(現在の播但線)経由で大阪とつながっていたそうです。そのため、開業の翌年、線路名称が制定された時には播但線の駅になっていました(ちなみに、和田山駅・姫路駅間は、明治39(1906)年に開業しています)。 福知山駅・和田山駅間が開業したのは、明治44(1901)年。養父駅が播但線から山陰本線の駅になったのは、明治45(1912)年3月1日のことでした。養父駅は、開業から111年目を迎えています。待合室のある上屋の和田山駅側の柱に「建物財産標」がありました。「旅客上屋1号 昭和24年3月」と記されていました。上屋が設置されてからでも、すでに70年が経過しています。

長いホームを和田山駅方面の端に向かって歩きます。和田山方面に向かう列車が走る線路の左側に側線がありました。

豊岡駅方面に向かって引き返します。ふり返ると、先ほどの側線の車止めがありました。かつては、このスペースに2本の側線があったそうです。側線の外側のスペースの先には自転車の駐輪場がつくられていました。ここは、貨物の積み降ろしをしていたところで、駐輪場のあるところは、貨物の倉庫が建っていたところだったそうです。

養父駅は駅舎からホームの移動には、跨線橋を利用するようになっています。ここは跨線橋への出入口です。

跨線橋の出入口からさらに豊岡駅方面に進むと、ホームの端になります。そこから、駅舎と駅舎前の跨線橋を撮影しました。柵の上の跨線橋にプレートがありました。「養父駅こ線橋 設計 福知山鉄道管理局 着工 昭和55年11月20日 しゅん功 昭和56年3月19日」と、プレートに刻まれていました。昭和56(1981)年の竣工以前は、構内踏切で線路を横断していたようです。

跨線橋を渡って駅舎前に降りました。駅舎には、開業時からのつくりつけの長い木製のベンチが残っています。中央の改札口から、緑にペイントされた駅舎内に入ります。

駅舎に入った右側に、木製の棚や窓口の木の枠が懐かしい出札窓口がありました。木枠の中にあるガラスを上下させて、出札業務が行われていました。駅舎内の風景も、開業時のままの姿を残しています。傍らに「JR西日本乗車券発売所 営業時間 6:30~14:30」という掲示がありました。養父駅は昭和59(1984)年から、窓口業務だけを委託する「簡易委託駅」になり、養父市が受託しているそうです。この日は、高齢の男性が業務に就いておられました。

窓口の棚を支える金属製の装飾です。2つの窓口のうち片側だけに残っていました。これも、開業時からのものだそうです。

待合いのスペースです。木製の2脚のベンチが設置されていました。駅舎内の写真を撮っていたら、業務に就いておられた駅スタッフの方が、声をかけてくださいました。JRにお勤めだったといわれるスタッフの方から、養父駅に関するお話をお聞きすることができました。

駅舎から線路方向の光景です。今は進入禁止で柵が設置されていましたが、ホームに向かう構内踏切がありました。かつて、昭和天皇がこの駅においでになったとき、ここを歩いて駅舎に入られたそうです。

駅舎から跨線橋の付近に出ました。ホームの豊岡方面の端です。駅名標示や構内踏切に降りていくスロープも見えました。「もともとのホームは石垣の部分。乗客の安全のために嵩上げされた」とのことでした。

跨線橋の出口から見た豊岡方面です。右側の白い建物はトイレです。トイレの前のコンクリートのたたきのところで、「ポイントの切り替えを手動で行っていた」そうです。

トイレの向こうの駅舎前の庇も「開業当初からあった」とのことでした。

駅舎から駅前広場に出ました。明治41(1908)年に開業したときにつくられた駅舎です。寄棟造りの瓦葺きの駅舎です。雪国の駅らしく、屋根に雪止めがつくられていました。2機の自動販売機の間が出入口です。駅舎の外には庇がつくられており、自動販売機やベンチが設置されていました。

白い自動販売機の脇の出入口の柱に、「建物財産標」がありました。「建物財産標 本屋1号(駅本屋)明治41年3月」と記されていました。養父駅のある養父市は、平成16(2004)年、養父郡内の4町(八鹿町・養父町・大屋町・関宮町)が合併して成立しました。養父駅のあるあたりは、合併前の養父郡養父町で、町の中心は、養父駅から豊岡駅方面に向かって2kmぐらい離れた養父市場付近にありました。計画では、養父市場に駅を設置することになっていましたが、用地の確保が難しく、現在地に設置されたそうです。鉄道が通ると蒸気機関車の煙で洗濯物が汚れる、騒音でうるさいなど、安穏な生活に支障が出ることを恐れたのではないかといわれています。堀畑地区では、地元にあった御所森神社を移設して駅を建設したといわれています。駅名の中に「養父市場」が残っています。

窓には、たくさんのガラスが使用されています。開業当時、ガラスは大変な貴重品だったそうです。駅舎の前には庭園が整備されていました。手入れも行き届いていてきれいでした。山陰本線は、円山川に沿って敷設されています。そのため、洪水対策として水田から3m高く土を盛り上げて線路を敷設していったそうです。そのための土砂は、堀畑地区の2ヶ所からトロッコで運ばれたと伝えられています。

駅舎の外側にあった毛筆の駅名標です。長い歴史を感じます。

駅舎の瓦にあった文様です。どんないわれがあるのでしょうか。

駅舎に向かって左側(和田山側)にあった自転車駐輪場と駐車場です。養父駅はかつて貨物の取扱いが盛んでした。旧養父町の中心、養父市場では、但馬牛の牛市が開かれていました。「その牛市で買われた子牛が一度に貨車50台に積み込まれていた」ということです。また、「日曹鉱業株式会社は、加保鉱山の鉱石を運搬する専用貨物ホームを、昭和15(1940)年に建設した」そうです。鉱石の輸送では、山中鉱山、明延(あけのべ)鉱山、十二所鉱山なども養父駅から積み出していたそうです。また、地元産の木炭の出荷基地にもなっていたといわれています(養父市教育委員会「まちの文化財(46)養父駅開業100周年」)。隆盛を誇った貨物輸送も、モータリゼーションの発達により、昭和45(1970)年、廃止となりました。

駅前広場の先に、旧街道の面影が残る通りがありました。線路の敷設のとき、3mの盛り土をしたため「表側から見ると2階建てですが、裏側から見ると3階建てになっていますよ」と、駅のスタッフの方はおっしゃっていました。

家並みの裏側のようすです。右の石垣の上に旧街道や駅前広場があります。石垣の手前に1階部分がつくられていて3階建ての建物になっています。

駅から養父市場方面に向かって下り坂の旧街道を10分ほど歩いたあたりの山陰線です。3mの盛り土をしたことがよくわかります。
開業当時の面影が残るJR山陰線養父駅を訪ねてきました。
駅スタッフの方のお話しと養父市教育委員会が制作された「まちの文化財(46)養父駅開業100周年」が大変参考になりました。
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