トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”東海道第二の宿場町” 桑名宿を歩く

2015年02月23日 | 日記
江戸時代の東海道で最も多い284軒の旅籠があり賑わっていた宮宿(名古屋市)からは「海上七里(約28km)」の海の道でした。

「海上七里(約28km)」の船旅は3~4時間かかったといわれています。旅の終わりは、東海道42番目の宿場桑名宿でした。桑名宿、そして伊勢国の入り口であった「七里の渡し」の現在の姿です。ここは、江戸から96里(384km)、京から30里(120km)のところにあります。

海側から見た七里の渡しです。立派な常夜灯が見えます。かつては、天保4(1833)年建立の常夜灯が建っていましたが、昭和37(1962)年の伊勢湾台風で倒壊してしまったので、上部だけを、市内にある多度大社から移したといわれています。現在の常夜灯には、安政3(1856)年の銘がついているそうです。

「伊勢神宮一の鳥居」が見えます。ここは伊勢神宮の遙拝所でもあります。江戸時代の天明(1871~1879)年間に矢田甚右衛門と大塚与六郎が建立しました。明治以降は伊勢神宮の式年遷宮のたびに宇治橋外の鳥居を削って建て直されているそうです。奥の白いビルがあるところに、かつて脇本陣が置かれていました。右に見えるのは伊勢湾台風の後で設けられた防潮堤で、これによって七里の渡しの姿が、様変わりしてしまいました。

これは歌川広重の「東海道五十三次」の「桑名」の絵です。七里の渡しに面する蟠龍櫓が描かれています。七里の渡しを旅する人の誰しも目にした、桑名のシンボルです。建築年代ははっきりしていないようですが、正保年間(1644~1648)の絵図にも描かれているそうです。「久波奈名所絵図」(享和2=1802年)で、「蟠龍」の名が初めて文献に出たといわれており、それには単層、入母屋造りの櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれているそうです。

現在の蟠龍櫓です。「蟠龍」とは龍が天に上る前にうずくまった状態なのだそうです。

「蟠龍瓦」はこれなのでしょうね?七里の渡しに向かって、文字通りうずくまっています。

住吉神社です。正徳5(1715)年に摂津国の住吉大社から勧請したものです。七里の渡しは、中世以来、伊勢神宮などへの年貢米が輸送される「十楽の津」と呼ばれた港湾都市でした。江戸時代になってからも美濃の天領からの年貢米などが江戸に送られており、全国から廻船業者が集まっていました。神社の案内によれば、常夜灯や石鳥居は江戸の材木商が、奥にある狛犬は備前・備中の廻船業者が寄進したものだそうです。

七里の渡しの近くにあった案内図です。桑名宿は天保13(1843)年の調査(東海道宿村大概帳)で、人口8848人(男4390人・女4458人)、家数2544軒で、その内、本陣が2軒、脇本陣が4軒と旅籠が120軒ありました。宮宿に次いで、東海道で2番目の旅籠数でした。七里の渡しの近くに多くの旅籠や役所が集まっていました。しかし、残念ながら、今では往時の面影をしのぶことのできる場所は多くはありませんでした。

先に触れた脇本陣駿河屋跡(手前)です。現在は、高級料理旅館の「山月」が建っています。

その隣が大塚本陣船津屋跡。現在もそのままの名で、高級料亭「船津屋」になっています。

本陣跡から脇本陣跡に向かって戻ります。

七里の渡しの跡にあった「東海道」の案内標識です。ここから、この標識に従って、旧東海道に沿って桑名宿跡を歩くことにしました。

小さくて見えにくいのですが、案内図の中央右を上下(南北)に走るグレーの道が旧東海道です。七里の渡し付近には、船番所、高札場や丹波本陣など、桑名宿の中心となる施設が置かれていました。

旧東海道です。かつて、旅籠や料理屋が並んでいた川口町の通りを歩きます。

歩き始めてすぐ左側の更地になったところに、案内の石碑がありました。「左 船会所跡 右 問屋場跡」と書かれていました。船会所は旅人のために渡船の手配をした役所。旅人は乗船の申し込みをし料金を払い乗船していました。問屋場は人足や馬の継ぎ立てを行った役所。東海道は人足100人、馬100疋を常備していました。乗船場所も問屋場も所在地はわからないそうです。

街道に埋まっていた「井」のプレートです。「通り井」の跡だそうです。桑名は地下水に塩が混じるため、寛永3(1626)年、町屋川(外堀)から水を引いて水道をつくり主要道路の中央に正方形の升をつけて、町の人々が利用していたといわれています。その升があったところに、このプレートを埋めているそうです。

その先の交差点です。これは西(右)側のJR桑名駅に向かう道、「八間通り」を撮影しました。ここから、駅方面に向かって歩きます。

10分ぐらい歩いたところで、左側に寺町通り商店街を見つけました。

この日は「三」がつく日でしたので、三八市が開かれていました。江戸時代には、商店街の南魚町は市場になっていたそうです。

「時雨蛤(しぐれはまぐり)」の看板。駅前に総本店のある貝新のお店がありました。「東海道宿村大概帳」には「桑名宿は、蛤、時雨蛤、白魚、干白魚、名物なり」と書かれています。「桑名の焼き蛤」で知られていますが、桑名では蛤は「焼き蛤」か「煮蛤」にして食べられていました。「時雨蛤」はこの「煮蛤」のことで、江戸時代から土産物として知られていました。

これは、商店街にある桑名別院、本統寺の山門です。三重県内の真宗大谷派の中心道場で「御坊さん」と呼ばれています。

ここには商店街と並んで流れる水路がありました。ここは桑名城の外堀、惣構(そうがまえ)があったところです。大山田川と町屋川の流れを変えてつくったそうです。

八間通りに戻り、駅方面に向かって歩くとすぐ右側に海蔵寺がありました。「宝暦治水薩摩義士之碑」と書かれた石碑が建っています。輪中を取り囲み、入り組んで流れていた木曽川・長良川・揖斐川の分流治水工事を、幕府から命じられた薩摩藩は、宝暦4(1754)年から1年3ヶ月かけて工事を完成させました。しかし、難事業のため、薩摩藩の全収入の2年分以上を費やしたことなどの責任をとり、総奉行の家老平田靭負(ゆきえ)が切腹するなど、多くの犠牲者を出しました。犠牲になった薩摩藩士の墓所がここに設けられていました。

再度、八間通りを歩き、東海道に戻ります。先ほどの交差点から今度は東に向かって歩きます。堀の下は船溜になっていました。堀の左側の石垣は、桑名城の城壁の一部で、揖斐川の河口から南大手橋まで500mに渡って残っています。桑名城は揖斐川を利用した水城でした。

その先の舟入橋を渡って城跡の九華公園に入ります。入り口にあった本多忠勝像です。慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いの後に10万石で入封し、本格的な城郭の築城と城下町の町割りを行いました。

水が美しい城跡公園です。平日でしたが、散歩する方も多くおられました。享和3(1803)年の記録には、桑名城には、門が63ヶ所、櫓が95ヶ所あったと書かれています。

城内にあった辰巳櫓跡です。天守閣は元禄14(1701)年の大火で焼失してから再建されることはありませんでした。戊辰戦争(1868年)では、幕府方だった桑名藩主松平定敬(さだあき)たちは東北を転戦し五稜郭で降伏しました。桑名城は無血開城し市内が戦場となることはありませんでした。しかし、新政府軍は、天守閣の替わりに使われていた桑名城のシンボルである辰巳櫓を焼き払い落城のしるしにしたといわれています。

八間通りの交差点に戻って、さらに旧東海道を南に向かい江戸町を歩きます。

右側にあった桑名宗社の鳥居です。青銅製で高さ7m60cm。寛文7(1667)年桑名藩7代藩主松平定重が辻内善右衛門に命じてつくらせました。その後も辻内氏が修理に携わって今日にいたっているそうです。

鳥居の足もとにあった「しるべ石」です。左の側面に「たづぬるかた」、右の側面に「おしへるかた」と彫られています。それぞれの石面に尋ね人の名前と特徴、見つけた場所を書いて貼り付けていました。江戸時代から迷子の捜索に使われました。

桑名宗社は、三崎大明神を祀る桑名神社と春日大明神を祀る中臣神社の総称で、桑名の総鎮守社です。拝殿は、向かって右が桑名神社、左が中臣神社になっていました。

その先、片町の左側にあった「歴史を語る公園」です。堀の向こうは石積みの城壁の一部。石積みは
乱積みで、野面はぎと打ち込みはぎの2つの方法によっているとのことです。

「歴史を語る公園」にあった江戸日本橋の展示です。堀に沿って、日本橋、富士(吉原宿)、関、四日市、三条大橋と東海道の見どころが続きます。

「歴史を語る公園」は南大手橋で途切れます。旧東海道は、南大手橋とは反対に、ここで右折(西行)します。

右折してから、京町を西に進みます。

右側にあった石取会館です。金融機関によくある形の建物です。大正14(1925)年に鉄筋コンクリート造り2階建て。四日市銀行桑名支店として建築されました。その後、桑名信用組合(桑名信用金庫の前身)、桑名信用金庫京町支店として使用されました。平成3(1991)年内部が改修されました。現在は、石取祭に関する展示を行っています。国の登録有形文化財に登録されています。

その向かいにあった桑名市博物館です。

博物館の前にあった道標です。「右 京 いせ道  左 江戸道」と彫られています。江戸時代に建立されたようですが、設置されていた場所は特定されていません。移設されたもののようです。 

大通りを渡ります。東海道は渡ってすぐ左折します。この先に京町目付がありました。番所が置かれ、通行する旅人を取り締まっていました。

東海道の標識に沿って左折(南行)し、吉津屋(よつや)通りに入ります。

古い歴史をもつ商店街が続きます。創業、嘉永3(1850)年創業というふとん店もありました。

仏壇を扱うお店が並んでいます。最も目立っていた仏壇店、浅井屋本店です。

次の交差点の手前にあった道標です。「右 京 いせ道  左 江戸道」とあり、右に向かって手のマークがついています。京方面は右折と思っていましたが・・・。

交差点にあった「東海道」の案内では直進になっていました。誤った方向を示しているあの道標は、移設されて置かれたものなのでしょうか? 形は桑名市博物館のところにあった道標と同じものだったのですが・・。

これは、桑名市博物館の交差点にあった案内図です。東海道のルートが示されています。現在は、ベージュ色の2本の通りが交差する「吉津屋見付跡」の右下(北東)のあたりを歩いています。この先で、東海道は右折して左折、さらに左折して進むことになります。

ここが鈎形に曲がるところです。右折します。

この先で左折します。正面に吉津屋目付が置かれ、吉津屋門と番所がありました。

この先を再度左折します。

左折した後はしばらく直進します。正面の「おもちゃ プラモデル いもや本店」の前の通り(旧東海道)に右折して入り、南に向かって進みます。 

街道筋の雰囲気を残す静かな通りを、さらに南に進んでいきます。

やがて、寺社の建物が並ぶ伝馬町に入りました。教宗寺、泡州崎(あわすざき)八幡社、光徳寺と過ぎた先に、十念寺がありました。写真はその山門です。森陳明(つらあき)の墓がある寺です。かれは、文政9(1826)年に小河内殷秋(ただあき)の長男として生まれましたが、父殷秋の兄の森陳功(つらまさ)の養子となり、さらに、藩主松平定敬(さだあき)が京都所司代在職中に「公用人」として定敬の傍近くで仕えることになります。そして、戊辰戦争では定敬に従い新政府軍と戦った後、函館に向かい五稜郭で降伏しました。

十念寺の裏(西)にある墓地に、森陳明の墓があります。桑名藩は、降伏後に新政府軍から戦争責任者を出すよう求められたとき、陳明が全責任をとって、明治2(1869)年東京深川の桑名藩邸で切腹しました。かれの墓は、桑名藩主の菩提寺である霊厳寺にもあるといわれています。享年44歳でした。

十念寺の先にも、寿量寺、長圓寺、報恩寺と寺院が並んでいます。「蟠龍櫓」で出てきた「久波奈名所図絵」は、長圓寺の11代住職である魯縞庵義道(1834年没)が描いたといわれています。その先で旧東海道は広い通りに合流します。左側には日進小学校がありました。

この近くに七曲見附が置かれていました。番所で旅人の取り締りを行っていました。このあたりが桑名宿からの出口になります。しかし、この先に見ておきたいものがありましたので、さらに進みました。案内図からもわかるように、見附を過ぎると旧東海道は右折して西に向かっていました。

東海道のルートの案内に従って、次の通りを右折します。

その先、右側に豪壮な邸宅が見えました。道路の端に説明がありました。江戸初期、藩主の松平忠勝は鋳物師の広瀬氏を招きこの地に工場を与え、鍋屋町と名付けました。ここでは、城の建築用材だけでなく、梵鐘や日用品もつくり、その結果、鋳物は桑名の名産になりました。文政9(1826)年には、シーボルトもこの工場を見学しているそうです。

右側にあった天武天皇社。壬申の乱(672年)のとき、大海人皇子がこの地に滞在したことに因む神社。天和(1681~1684)年間にこの地に移ってきました。

一目連神社の前にあった、ガード付きの道標です。「左 東海道 渡船場道  西 西京 伊勢道」とありました。明治20年建立された道標です。

その先も、旧街道を思わせる道路が続いています。

梵鐘を扱うお店がありました。ドアのすぐ前に梵鐘が展示されていました。お店の名前にも「梵鐘店」と書かれており、梵鐘の専門店のようです。今も鋳物づくりをされているお店があるんですね。

これはJR桑名駅前にあった花壇です。花の上に「鋳物の街 くわな」とあります。そのとおり、今も鋳物づくりが盛んな街なのです。その先で国道1号線を渡ります。
 
国道1号線を渡って進むと火の見櫓が見えてきました。ぜひ見ておきたかったものです。ここは、矢田の立場(たてば)です。立場は宿の中間にあり、休憩する人のための茶店が並んでいたところです。「久波奈名所図絵」には「この立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜、無きことなし」と書かれているそうです。ちなみに、火の見櫓は平成3(1991)年に再建されました。

旧東海道は、ここで左折して、次の四日市宿に向かっていました。

「7里の渡し」の、桑名宿を歩いてきました。桑名宿は、旅籠の数では東海道五十三次で2番目の宿場町でした。江戸時代をしのばせるところは多くはありませんでしたが、様々な整備が行われていて、歩いて楽しい街でした。要所に設置されていた「東海道」のルート案内が力になりました。

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2 コメント

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たのしみました (宮脇)
2015-02-28 16:03:48
ジックリ街を歩くと、その街の表情がよく見えてきますね。川本三郎さんが書いた、ちょっとそこまで や 東京町歩き という本を思い出します。
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見ました (山田のクリ)
2015-03-07 17:36:59
今回は大作ですね。桑名がよく分かりました。食い意地が張っているので、見るより食べる方に行きそうです。
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