トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

甚兵衛の渡しから千歳の渡しへ

2016年11月25日 | 日記
”水の都”大阪では、今も渡船が活躍しています。市民の身近な生活の足として、自転車と共に利用する人がたくさんおられます。

天保山渡船の桜島側の渡船場です。此花区桜島三丁目にあり、対岸の港区築港三丁目との間に就航しています。天保山渡船で対岸の天保山に渡った日(「大阪市営天保山渡船に乗りました」2016年11月11日の日記)、二つ目の甚兵衛の渡しに乗るため、甚兵衛渡船場に向かいました。

天保山公園を出て、大観覧車の前を左折して進みます。

大阪市営地下鉄中央線の高架が見えてきました。地下鉄で行く方が早いのでしょうが、この日は歩いて行くつもりでした。そのまま直進しその先を左折して、築港中学校の脇を通ってから橋を渡り、港晴二丁目に入ります。港晴二丁目の交差点からみなと通を、地下鉄に沿って歩きます。

地下鉄と分かれて、500mぐらいで、「三先一丁目」の交差点に着きます。そこで、右折します。その先を、まっすぐに進んだ突き当たりに、甚兵衛渡船場があるはずです。

左側に港南中学校がありました。

港南中学校を過ぎると、600mぐらいで、道路が行き止まりになりました。正面に「甚兵衛渡船場」の看板がありました。ここは、港区福崎一丁目です。

左折して、緩やかな坂を上って行きます。

上った後、180度カーブして下ると待合いのスペースになります。渡船場の隣に着岸している貨物船の舳先が見えました。

福興丸だそうです。

甚兵衛の渡しの時刻表です。日中は、1年を通して15分毎に運行されています。通勤や通学のために利用している人が多いからでしょう、平日の朝夕には、増便されています。ちなみに、渡船場に掲示されていた資料によれば、平成27年度には、1日平均1,288人が利用されたそうです。

正面に対岸が見えました。資料によれば、対岸までは94m。乗ってきた天保山渡船(対岸まで400m)に比べ、ずいぶん近くに感じます。3隻の渡船が並んでいます。先頭(上流側・北東方向)が「きよかぜ」、真ん中が「海桜」、後ろが「すずかぜ」のようです。甚兵衛渡船に就航しているのは、小型船の「きよかぜ」と「すずかぜ」で、朝夕は2隻とも運行されているそうです。「海桜」は80人乗りの大型船で、天保山渡船に就航しています。一番後ろの「すずかぜ」は桟橋に停船しており、この時間に就航していました。

「すずかぜ」に利用者が乗船を始めました。対岸は大正区泉尾七丁目。そこに渡船事務所と乗務員の待機所も置かれています。出発しました。

上流側に向かって出発し左にカーブしたと思ったら、下流側に進路を向けます。次には再度上流側に向かってカーブします。対岸からS字を描いて、こちら側の桟橋に着きました。こちらでも上流側に向かって停船しました。下船が始まりました。

待合いのスペースにおられた9人が乗船しました。自転車と共に乗船された方が7名おられました。天保山渡船と同じく、椅子席はありません。船内には「最大48人(旅客46人)」と書かれていました。2名の乗務員が勤務されていました。

待っていた人たちの乗船が終わるとしぐに出発しました。船は来たときと同じように、上流に向かって出発し、大きく右カーブして下流側に向かって進み、対岸が近くなると、再度左カーブして上流に向かって着岸しました。帰りもS字を描いて進んで行きました。尻無川の上流側に見えた尻無川水門です。さて、尻無川の堤は、かつて、桜の名所で知られていました。掲示されていた説明によれば、「摂津国名所図会大成」には「紅葉の時節にいたりては、河の両岸一団の紅にして川の面に映じて風景斜ならず、騒人墨客うち群れて風流をたのしみ、酒宴に興じて常にあらざる賑わいなり」と書かれているそうです。

1分も経たないうちに、対岸の大正区泉尾七丁目に着きました。かつて、川下には、「甚兵衛の小屋」という茶店があり、「年を久しき茅屋にして世に名高し」ものだったそうです。甚兵衛によって設けられた茶店は「蛤小屋」と呼ばれて、「名物のはまぐりを賞味する人が絶えなかった」そうです。下船された人たちは、すぐに桟橋から離れ、それぞれの目的地をめざして出発して行きました。

桟橋から渡船場の事務所の前に来ました。右側が事務所。乗務員の方もこの中に入って行かれました。10分後には、運行が再開されるはずです。甚兵衛渡船のように、大阪の人々の通行のための渡船は、江戸時代から代々家業として受け継がれていました。明治24(1891)年に、大阪府が「渡船営業規則」を定めてから、公共交通としての性格を整えてきました。そして、大正9(1920)年には無料に、昭和7(1932)年にはほとんどの渡船が市の直営方式に改められたといわれています。8つの渡船の一つ、船町渡船場に掲示されていた資料によれば、「平成25(2013)年には、8ヶ所ある渡船を年間185万人の人が利用した」そうです。

この後は、尻無川の下流部分に近い大正内港で運行している千歳の渡しに乗るつもりでした。甚兵衛渡船の事務所からまっすぐ進み、泉尾工高西の交差点で右折し、大浪通を南西方向に向かって進みました。

大正区北村三丁目の交差点付近にあった「千歳渡船場」の案内標識。標識に従ってさらに進みます。

やがて、大浪通はその先で大正内港に架かる千歳橋を渡ります。めざす千歳の渡しはその下にありました。高架下を右に向かいます。こちら側は大正区北恩加島二丁目になります。文政12(1829)年に開発された北恩加島新田に由来する歴史ある地名です。

やがて、千歳渡船場の渡船事務所の前に着きました。この千歳の渡しは、昭和39(1964)年に新設された渡しとして知られています。

渡船場にあった説明によれば、大正内港の入口にあるこの地域は、「弘化2(1845)年に開発された千歳新田があったところで、向かいの鶴島町を結ぶ木造の千歳橋で」交流していました。「千歳橋には大阪市電も運行されて」おり、千歳橋は「昭和15(1940)年には鉄の桁橋に架け替えられた」そうです。

事務所から桟橋に向かいます。千歳橋は昭和32(1957)年に行われた大正内港の拡張工事で撤去されてしまい、両岸の住民の便宜を図るため、渡船場が設けられたそうです。

桟橋の待合いスペースから見た対岸です。371m離れています。渡ってきた天保山渡船は両岸間は400mでしたが、周囲の環境のせいか、千歳の渡しの方が広々としていた印象でした。

高架の下にある対岸の渡船場です。大正区鶴町四丁目にあります。

そのとき、対岸から渡船がやってきました。上流に向かって走ってきて、大きく右にカーブして下流に向かって停船しました。船名は「ちづる」。この1隻で運行しているそうです。

時刻表です。日中は、20分毎に運行されています。11人の方が乗船されました。自転車で乗船された方はそのうち7名でした。千歳の渡しは、平成27(2015)年度、1日平均636人が利用したそうです。

出発しました。平成15(2003)年に架けられた千歳橋に沿って進みます。海面からの高さ28m、全長1,064mだそうです。渡船がふいにスピードを緩めました。見れば前方を貨物船が横断していました。交通量もかなりあるようですね。

対岸に着きました。甚兵衛の渡しに比べると、時間がかなりかかりました。桟橋近くなって、大きく右カーブして桟橋に着きました。

下船しました。鶴町四丁目です。鶴町も万葉集の歌から採られた由緒ある地名だそうです。乗船される人が乗船してから出発しました。桟橋で渡船に手を振っていた女性がいらっしゃいました。「観光できたの?」と聞かれ、「はい」と答えると、「最近は団体で乗りに来る人がいるよ。20人や30人で・・」と、教えてくださいました。

桟橋から外へ出ました。この日は、6ヶ所の渡船に乗る予定でした。次の船町渡船場に向かうことにしました。







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