大崎上島に向かって出発した安芸津フェリーの”第十五やえしま”(375トン)です。JR呉線の安芸津駅から歩いて5分の安芸津港と、大崎上島の大西港までを30分で結んでいます。大崎上島は、架橋されておらず、海上交通を利用するしかありません。同じ呉線の竹原港からも、大崎上島の白水港と垂水港を結ぶフェリーが運航されています。この日は、JR安芸津駅とその周辺を訪ねることにしました。
呉線は、軍港である呉と、軍の様々な施設が置かれた軍都広島を結ぶため、明治36(1903)年呉駅と海田市駅間を開通させたことに始まります。また、広島県東部の三原駅からは、三呉線として、昭和5(1930)年に三原駅と須波駅間を開通させました。その後も延伸を続け、昭和10(1935)年11月24日に呉駅までが全通し、呉線となりました。
JR山陽本線の三原駅から呉線の列車で、安芸津駅をめざしました。
三原駅の1番ホームで出発を待つ、JR広駅行の電車です。平成15(2003)年3月14日のダイヤ改正により運用が開始された227系車両、JR西日本広島支社管内の最新車両です。呉線では、ワンマン運転の2両編成で運行されています。
三原駅から50分ぐらいで、列車は大きく左にカーブをしながら安芸津駅の2番ホームに到着しました。2番ホームの上屋の柱に貼られていた「屋根スレート管理表」には、「施行年月日 平成8年8月6日」とありました。ホームの上屋の上に線路を跨ぐ横断陸橋 ”安芸津マリンアーチ” が見えました。また、反対側の1番ホームの上屋の中に見える建物は安芸津駅舎、その手前に見える白い建物はトイレです。安芸津マリンアーチの階段も見えました。
列車はすぐに次の風早(かざはや)駅に向かって出発して行きました。
2番ホームから見た三原駅方面です。2面2線の長いホームが見えます。背景の山の中腹には正福寺がありました。
2番ホームを広駅方面に向かって歩きます。ベンチの先に駅名標がありました。安芸津駅は、東広島市安芸津町三津にあります。三原駅側の一つ前にある吉名(よしな)駅(竹原市吉名町)から4.7km、次の風早(かざはや)駅(東広島市安芸津町風早)まで3.2kmのところにありました。その先には、駅舎に向かう地下道への入口が見えます。
さらに、広駅方面に進むと、隣の1番ホームの向こうに駅舎が、その手前にホームから駅舎に下る階段が見えました。
2番ホームの広駅側の端です。単線である呉線は、2本の線路がこの先で合流します。2番ホームの先に、広駅行の電車が走る線路から分岐する引き込み線がありました。
引き込み線です。横断陸橋、マリンアーチの下まで続いています。
2番ホームから地下道に下ります。全面に壁画が描かれていました。
地下道は駅舎まで続いていました。駅舎側は階段でなくスロープになっていました。改札口が見えました。
改札口です。ICOCAの精算機、自動改札機が、かつての雰囲気が残る改札付近に設置されています。通路の右の柱に白いラベルが見えました。
「建物財産標」でした。「駅の本屋」は「昭和10年2月」と記されています。安芸津駅は、昭和10(1935)年2月17日、三呉線が、竹原駅から三津内海駅(現・安浦駅)まで延伸開業した時に開業しました。開業時は、付近の地名から「安芸三津駅」と称していました。「安芸津駅」と改称したのは、昭和24(1949)年のことでした。これより以前、昭和18(1943)年に、賀茂郡三津町と早田原町、豊田郡木谷村が対等合併し、賀茂郡安芸津町となり、その後、昭和31年には、豊田郡に所属し、豊田郡安芸津町となりました。現在の東広島市に編入されたのは、平成17(2005)年のことでした。
改札口の前から1番ホームに上る階段です。
1番ホームから見た、広駅方面です。安芸津駅を出ると、短いトンネルを抜けるようです。2番ホームからは角度がよくなかったのか、トンネルは見えませんでした。
両側の窓ガラスから日射しが差し込む駅舎の待合いスペースです。広いスペースにベンチと自動販売機がありました。改札口付近にあった時刻表では、呉線の列車は、広駅行きが19本、三原駅行きが18本運行されていました。
安芸津駅は、窓口業務だけを委託する簡易委託駅になっています。受託しているのは東広島市だそうです。壁面の案内を見ると、6月は「月 火 木 金が営業日」になっていました。この日は土曜日でしたので、「非営業日」で、勤務するスタッフはおらず、窓口は閉まったままでした。窓口の脇に自動券売機が設置されており、近距離キップの購入には支障はないようでした。
駅舎の出口付近に掲示されていた安芸津フェリーの乗り場の案内図です。駅から出て、駅を跨ぐ横断陸橋(安芸津マリンアーチ)を渡って進めば、安芸津港にある「フェリーきっぷ売場」や桟橋に行くことができるようです。
駅前から見た駅舎です。入口の上の三角形の屋根のデザインが印象的です。駅前には庭園も設けられていました。ここから、安芸津マリンアーチを渡って安芸津フェリーの桟橋に向かうことにしました。
庭園前を進み、隣にある土蔵のようなトイレの前から階段を上ります。
安芸津マリンアーチから見た引き込み線です。安芸津町は、カキ、ジャガイモ、ビワなどの特産品で知られていました(東広島市に合併する以前の安芸津町の「町花」はジャガイモの花だったそうです)。線路の右側の白い部分から右側には盛り土がされていますが、かつては、貨物の積み降ろしをしていたところだったのでしょうか。
マリンアーチを下ります。駐車場の先の通りを過ぎると安芸津港になります。大崎上島へは竹原港からもフェリーの航路があると冒頭に書きましたが、竹原港はJR竹原駅から少し離れたところにあるため、JRの駅からの利便性は、安芸津港の方が優れているようです。
安芸津港です。次に、大崎上島の大西港に向かうフェリーが出発を待っていました。右側の建物が、乗船切符売場、安芸津港待合所です。
待合所の内部です。乗船切符のカウンターです。少し時間に余裕があるので、閑散としています。始発便の6時40分発から最終便の19時40分発の便まで、1日16往復運航されています。ただ、1月~3月は、始発便と最終便は運休になるのだそうです。
就航しているのは、”第十ニやえしま”(336トン 1998年竣工 旅客定員 280名)と ”第十五やえしま”(375トン 1990年竣工 旅客定員 250名)の2隻のフェリーです。
次に出発するのは、”第十五やえしま” でした。乗船が始まりました。10台程度の車と10名程度の旅客が乗船されました。
”第十五やえしま” が出発して行きました。フェリーの正面に見える大崎上島に向かってまっすぐに進んで行きました。
引き返します。港の周辺は宿泊施設や飲食店が点在しています。”旅館 木乃屋” の脇を進み、安芸津マリンアーチを渡ります。
マリンアーチ上から見た駅前ロータリーです。駅前には芸陽バスの停留所がありました。
安芸津町のある東広島市は、西条地区の酒造業がよく知られています。しかし、駅前にあった説明には「明治時代に、広島県の水質(軟水)に合った醸造法を生み出したのは、安芸津町出身の三浦仙三郎氏(1847年~1908年)でした。三浦氏の酒造りを継いだ杜氏たちは、”広島杜氏”として、全国で活躍しました。そのため、安芸津は ”広島杜氏のふるさと” と呼ばれるようになりました」と、書かれていました。
江戸時代、安芸津には船が入れる港があり、広島藩の米の集散地で蔵屋敷が並んでいたところであり、酒造りの条件がそろっていました。
写真は、榊山八幡神社につくられている三浦仙三郎氏像で、駅前の説明板に載せられていたものです。三浦氏の教えである「百試千改」は、今も”広島杜氏”の人たちに受け継がれているそうです。
現在、安芸津町では、2社が酒造業を営んでおられます。
JR安芸津駅前から見た駅前ロータリーです。町内にある2社の酒造会社を訪ねようと思いました。写真の右側に青い看板が見えます。”喫茶オアシス”のお店です。左側の和風の建物は、「素盞神社の御旅所」です。ここを左折して進みます。
左折してすぐ目の前にあった大邸宅が、柄(つか)酒造の建物です。嘉永元(1848)年、槌屋忠左衛門氏が創業。「於多福」や「関西一」のブランドで知られている酒造会社です。
酒造会社の看板である杉玉が軒下に吊されています。新しく青い杉玉が架け替えられたら、新酒ができた合図になるといわれています。
「御旅所」に戻り、”喫茶オアシス”のある通りをまっすぐ進みます。
5分ほど歩くと、正面に祠、その隣に進徳海運株式会社の建物があります。祠の脇をまっすぐ進むと山の中腹に曹洞宗福壽院の唐様の山門が見えて来ます。祠の前を左折して進みます。
やがて、右側に「清酒 富久長」と書かれたレンガ造りの煙突が見えて来ました。 今田酒造です。明治元(1868)年創業。ブランド名の「富久長」は、三浦仙三郎氏の命名だそうです。
現在は、女性杜氏の今田美穂さんが受け継いで、地元の米、八反草を使用して酒造りをしておられるそうです。
この日は、大崎上島へ向かうフェリーの発着場がある、東広島市安芸津町を訪ねて来ました。JR安芸津駅を訪ねるためにやって来ましたが、駅前の観光案内で知った「広島杜氏」の祖、三浦仙三郎氏の存在など、魅力あふれる町でした。