トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

中山道、二番目に大きい宿場町、高宮宿

2015年01月16日 | 日記
このところ、近江国(滋賀県)の中山道(近江路)を歩いています。これまで、柏原(かしわばら)宿(2014年7月15日の日記)、醒井(さめがい)宿(2014年10月21日の日記)、鳥居本(とりいもと)宿(「”赤玉神教丸”と”合羽”で知られた宿場町、中山道鳥居本宿」 2014年11月29日の日記)を歩いてきました。京都駅からJR琵琶湖線(東海道線)で東に向かいましたが、近江八幡駅を過ぎる頃から雪になりました。

彦根駅でJR琵琶湖線から下車し、同じ駅舎にある近江鉄道の電車に乗り換えます。近江鉄道は明治31(1898)年に彦根駅・八日市駅が開通しました。彦根駅から10分ぐらいで、高宮(たかみや)駅に着きました。

改築された近江鉄道高宮駅です。近江鉄道の彦根駅・八日市駅間が開通したときに設置されました。開通当時の名は「高宮停車場」でした。老朽化により、平成14(2002)年に改修されてからは、コミュニティセンターの機能もあわせてもつ駅になりました。この日訪ねたのは旧中山道、64番目の宿場町、高宮宿です。滋賀県彦根市高宮町、かつての犬上(いぬがみ)郡高宮町にあります。犬上郡は古代豪族犬上氏の本貫地で、初代遣唐使として(第5次遣隋使としても)知られる犬上御田鍬(みたすき)もその子孫でした。この日は、かつての高宮宿を旧中山道に沿って歩きました。

雪が降り続く中を、高宮宿の江戸側の入り口に向かって進みました。近江鉄道の踏切付近からスタートしました。天保14(1843)年、宿場内には民家が835軒あり、2,560人が居住していました。これは中山道69次の内、本庄宿(埼玉県)に次ぐ、中山道で2番目の規模の宿場町でした。

旧街道の右側にあった大きな常夜灯。見上げるほどの高さです。

常夜灯の左にあった「中山道 高宮宿」のモニュメントです。高宮宿を通る中山道は、ここからほぼまっすぐ出口まで続いています。

踏切を渡って進むと交差点。渡った右側にあった、大北地蔵こと木之本分身地蔵尊の地蔵堂です。北国街道木之本宿の浄信寺にある、眼病に御利益のある地蔵菩薩の分身で、めずらしい木彫りのお地蔵様です。

宿場内のお店の案内です。7町16間(約800m)にわたる高宮宿のお店に掲げられていました。

駅への分岐点です。左に進むと、近江鉄道高宮駅へ向かいます。

その先には旧街道の面影を残す家並みが見えました。もちろん建物はすべて建て替えられていますが、白漆喰、うだつのついた格子造りの商家です。

緩やかな左カーブが終わると、右手に鳥居と常夜灯が見えました。左側には豪壮な商家がありました。高宮宿は、江戸時代、周辺の愛知(えち)、犬上、神崎地方から産出される麻布である、高宮上布の集散地として栄えた経済力のある宿場町でした。ちなみに、高宮上布は室町時代から貴族などの贈答品として珍重されていました。

左の商家が、高宮上布を扱っていた近江商人、”布惣(ぬのそう)”の邸宅です。「案内」によれば、布惣では、「7つの蔵いっぱいに集荷された高宮上布が全部出荷され、それが年に12回繰り返されていた」ほど栄えていたようです。現在でも、5つの蔵と「高宮嶋」の看板が残っているそうです。邸宅は、国の登録有形文化財に登録されています。

布惣の邸宅は、「宿駅 座 楽庵」として、宿場の交流館になっているようです。この日は雪のため、訪ねる人もほとんどいなかったようです。

布惣の向かいに高宮神社の鳥居と常夜灯がありました。参道にもたくさんの常夜灯が並んでいました。

高宮神社の拝殿です。雪で見えにくくなっていました。

旧街道に戻り、さらに南に向かって歩きます。前方の左側にあった大きな石の鳥居です。重量感あふれる堂々たる鳥居です。中山道と多賀道の分岐点に建っていました。

提灯屋さんと酒屋さんの建物。雰囲気のある商家です。鳥居の手前にありました。

この写真のアングルは、高宮宿の観光ガイドによく使われているおなじみの光景です。

この鳥居は、多賀大社一の鳥居です。多賀大社は伊邪那岐(いざなぎ)大神と伊邪那美(いざなみ)大神を祀る、延命長寿と縁結びの神として、年間200万人の参詣者で賑わっています。「お伊勢七度(たび) 熊野へ三度(たび) お多賀様へは月参り」と歌われた神社です。一の鳥居は江戸時代前期の寛永12(1635)年の建立されました。扁額には「多賀大社」と書かれています。

これは反対の東側から撮影した多賀大社一の鳥居です。柱間8m、高さ11mあります。多賀町の花こう岩を使って建立しました。明神鳥居という形式の、神社の鳥居の典型的な形式の鳥居です。左に見える常夜灯は高さ6m。底辺は1辺3.3mの正方形で、燈明を照らす小窓まで13段の石段がつくられています。

参詣する人々はこの一の鳥居をくぐって、多賀大社に向かっていました。鳥居の柱の脇に道標が建っています。

道標には「是より 多賀みち 三十丁」と書かれています。ここから多賀大社まで、約3.5kmであることを示しています。

道標にも書かれているように、この道が多賀大社への参詣道です。一の鳥居から多賀大社まで、小さな常夜灯が1丁間隔で並んでいましたが、現在は数基が残るだけなのだそうです。

さらに、中山道を進みます。旧街道の時代を彷彿とさせる町並みが続いています。さて、貞享元(1684)年、松尾芭蕉が門人だった李由(彦根市内にあった明照寺の住職)を訪ねてこの地に来たとき、この先の中山道沿いにある円照寺に滞在しました。しかし、寺に来客があったため、住職の慈雲は近くの小林猪兵衛忠淳(小林次郎左衛門)宅に芭蕉を案内しました。小林家では、汚れた神子(着物)を着た僧形の芭蕉を、ただの僧としか思わなかったようです。

さて、翌日、円照寺の住職慈雲が訪ねてきて芭蕉だと知った小林家では、新しい着物を芭蕉に贈るとともに、着ていた紙子をもらったそうです。そして、それを壺に入れて庭園に埋め、「神子塚」と彫って大事に守ってきたそうです。一般開放はされていませんが、庭園の奥に今も保存されているそうです。このお宅は小林猪兵衛の邸宅があったところで、「神子塚」で知られています。

天保14(1843)年、高宮宿には本陣が1軒、脇本陣が2軒、旅籠が23軒あったそうです。ここは、その脇本陣の跡。神子塚の先の旧街道の右側にありました。玄関がついた、間口約14m、建坪244㎡の脇本陣でした。明治時代には郵便局になっていたそうです。

高宮宿の脇本陣は、人馬の継立てを行う問屋を兼ねていました。また、門前には、各種の命令を掲示する高札場があったそうです。

脇本陣の斜め前、旧街道の左側にあった高宮宿本陣跡です。武家風の構造で玄関や式台を構えた、間口27m、建坪396㎡の建物でしたが、現在は表門だけが残っています。

本陣跡の向かいにあった円照寺です。神子塚の話に出てきた松尾芭蕉が、貞享元年に滞在したところです。山門の奥に見える、姿の美しい「止鑾松(しらんまつ)」で知られています。しかし、現在の松は2代目だそうです。

円照寺の先の左側にもう一つの脇本陣があったようです。残念ながら、どこにあったのかよくわかりませんでした。旧街道らしい通りを歩くと、犬上川にかかる無賃橋(むちんばし)が見えました。

現在の無賃橋です。犬上川は増水すると渡れなくなっていたため、天保3(1832)年、彦根藩はこの地の富豪、藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに命じて、費用を募り橋を架けるように命じました。当時、川渡しや仮橋は渡り賃を徴収していましたが、この橋はそれを取らなかったので、「無賃橋」と呼ばれるようになりました。昭和7(1932)年にコンクリート造りに替わったそうです。

無賃橋の脇にある地蔵堂、「むちん地蔵尊」です。昭和53(1977)年の改修のときに、無賃橋の橋脚から2体のお地蔵さんが発掘されました。これを、最初に架橋された天保3年に橋の安全を祈願して埋めたものと考え、お堂を建立してお祀りしたといわれています。右は地蔵尊の前にあった「むちんばし」の石碑です。

無賃橋を渡った対岸にあった「中山道 高宮宿」のモニュメントです。ここが高宮宿の出口にあたります。中山道を行く旅人は、ここから2里(約7.8km)先の愛知川(えちがわ)宿に向けて旅を続けていきました。

中山道69次の64番目高宮宿は、中山道で2番目の規模の宿場町でした。高宮上布の集散地として栄えた商業町でもありました。また、多賀大社一の鳥居から30丁のところにある、多賀大社への参詣の人たちも歩いた町でした。雪が降り続くあいにくの天気でしたが、高宮宿の魅力を体感することができました。

当初は、この先にある、伊藤忠商事(現、双日)の基礎をつくった近江商人、伊藤忠兵衛の旧宅まで歩こうと思っていましたが、雪のために挫折し、ここから近江鉄道高宮駅に戻ることにしました。