トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

湖都古都・おおつ1day きっぷで行く(2)

2015年01月08日 | 日記

京阪電鉄大津線(京津線・石山坂本線)の1日乗り放題きっぷの「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」を使って京阪電鉄石山坂本線の沿線を歩いています。前回、膳所本町駅まで乗ってきました。

膳所城ゆかりの地を訪ねた後、再び京阪電鉄膳所本町駅に戻り、石山坂本線を坂本方面に向かって進みました。ここから浜大津駅までは大正2(1912)年3月1日に開業しました。石山坂本線で最も早く開業した区間です。

膳所本町駅を発車したと思ったら、すぐに次の錦駅に着きました。2面2線、対面式のホームです。駅間0.4km。膳所本町駅と錦町駅間は、粟津駅と瓦ヶ浜駅間と並ぶ、駅間最短距離の区間です。

錦駅から乗車してきた”機関車トーマス”が描かれた701号車と702号車のワンマン運転の電車で、京阪膳所駅に到着しました。錦駅から0.5kmです。「1day きっぷ」を駅スタッフに見せて構内から出ました。

左側がJR琵琶湖線(東海道線)の膳所駅、右側が石山坂本線の京阪膳所駅です。JRとの乗換駅になっています。近くに訪ねてみたいところがありました。

京阪膳所駅から踏み切りを渡って進みます。左に滋賀県立大津高校を見ながら進むとその先で道が二つに分かれます。

大津市立平野小学校の近くで分岐します。中央の分岐点に道標がありました。

分岐点にあった道標です。片面は読めませんでしたが、「右 義仲寺」は読めました。訪ねたいと思っていた義仲寺です。分岐点の右の道を進みます。義仲寺は源義仲(木曾義仲)の墓所があるところです。義仲は、治承4(1180)年木曽で平氏の打倒をめざして挙兵し、寿永2(1183)年倶利伽羅峠で平氏の大軍を討って、京に入りました。しかし、翌年の寿永3(4月に改元されて元暦元=1184)年、源頼朝の命で京にやってきた源範頼、義経の軍に討たれて死亡しました。

前方の交差点の手前右側にあった「八真道(やまと)」というラーメン屋さんのところで左折します。かつて東海道だった通りに入りました。写真は、振り返って撮影した江戸方面です。旧街道時代の雰囲気を残しています。

左側に義仲寺があります。さぞかし大きなお寺と期待していたのですが、意外に小さな寺でした。境内に入ります。

事務所で説明をお聞きしてから境内を歩きます。源義仲の供養塔です。

義仲の供養塔の隣にあった、俳聖、松尾芭蕉の墓です。芭蕉は元禄7(1694)年大坂で亡くなりましたが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」の遺言によって、義仲寺に墓をつくったといわれています。

巴塚です。源義仲の死亡後、尼僧が義仲の墓所のほとりに庵を結び義仲の供養をしていました。この尼僧が源義仲の妻の巴御前でした。写真は、境内にあった巴塚、巴御前の供養塔です。巴御前は義仲が死亡した後、和田義盛の妻になり、義盛が戦死してからは尼僧になって各地を回りこの地で亡き義仲の菩提を弔っていました。その後、京から離れ、信濃国木曽谷で90歳の生涯を閉じたといわれています。

京阪膳所駅に引き返し、次の石場駅に向かいます。駅間0.8km。駅名表示には「石場駅・びわ湖ホール前」と書かれています。琵琶湖ホールは滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールです。ここから横断歩道を渡って180mのところにあります。

石山寺行きのホームで見つけたキロポストです。坂本方面行きのホームの下にありました。「5K500M」と書かれています。石山寺駅から5.5kmの距離にあることを表しています。ここまでずっと坂本方面行きの電車に乗ってきましたので、初めて見つけることができました。

石場駅から0.5km、島ノ関駅に着きました。

島ノ関駅を過ぎると、右側に、船を連想させる丸い窓のびわ湖ホテルが見えます。0.7kmで浜大津駅に着きます。

浜大津駅です。ビルの谷間にありました。

1面2線の浜大津駅。左側が石山坂本線の近江神宮・坂本方面行きと京津線の御陵(みささぎ)方面行きのホームです。右は石山寺駅行きと京津線の終点になるホームです。浜大津駅の改札口へは階段を上がって行くことになります。

ここは、京津線の終起点です。京都市営地下鉄にも乗り入れている京津線の電車です。太秦天神川駅に向かう800形4両編成の電車がカーブしながら駅から出ていきます。ここは、大津線の撮影スポットだそうです。

おでん電車が入ってきました。毎年冬に運行されています。平成27年の運行予定が電車に書かれています。1月16日から3月15日まで、経費3,500円で、琵琶湖汽船とタイアップして「おでんde電車」&「汽船deおでん」で、予約の受付をしていました。語呂がなかなかいいですね。電車の全面におでんが描かれています。703号車と704号車です。

琵琶湖には観光船が並んでいます。大津港もすぐ前にあります。

「三井寺力餅」のお店です。”近江富士”こと三上山を七巻半する大百足を退治したお礼としてたくさんの米俵をもらった俵藤太(たわらのとうた・藤原秀郷)は、そのとき鐘もお礼にもらっていました。かれはこの鐘を三井寺に寄進しました。その後、武蔵坊弁慶がこれを奪い比叡山まで引き摺って行ったという「弁慶の引摺鐘」の伝説があります。この伝説に因み、近江米の餅米を杵でついて串ざしにした小さい餅に、独特の蜜をからめてきなこを添えた「三井寺力餅」で知られています。明治2(1869)年創業の老舗です。

浜大津駅を出る石山坂本線の車両です。

次の三井寺駅までは併用軌道になります。道路の中央に石山坂本線、その脇に道路部分が設置されています。電線が多く見にくいのですが、写真は併用軌道を浜大津駅に向かう石山寺駅行きの電車です。

三井寺駅です。浜大津駅から0.5km。ここは、三井寺の最寄り駅です。

三井寺駅の前にあった案内板です。はっきりとは見えませんが、中央左が三井寺駅。中央を上下に走る青い部分が琵琶湖疎水、琵琶湖疎水がくぐる山に三井寺があります。疎水の右の通りが三井寺の大門に続く大門通りです。三井寺の手前にあるのが皇子山陸上競技場と皇子山球場です。石山坂本線の次の別所駅は、皇子山陸上競技場の近くにあります。

琵琶湖疎水です。京都の蹴上(けあげ)までつづく人口の水路で、京都の飲料水や発電、物資輸送の水路、農業用水など多目的に利用されています。明治45(1912)年に全線が開通しました。

大門通りを通って三井寺大門前に着きました。大門は両脇に金剛力士が置いてあるため仁王門とも呼ばれています。国指定の重要文化財です。宝徳4(1452)年滋賀県石部町の常楽寺に建てられ、伏見城に移されました。その後、慶長6(1601)年徳川家康の寄進によって三井寺に移されたものです。

三井寺の金堂です。入母屋造り、檜皮葺の大建築。現在の建物は、慶長4(1599)年に建てられたものです。金堂前には堂前燈籠が建っています。大化改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇はその贖罪のため、自分の薬指(無名指)を切り燈籠の台座の下に納めたと伝えられています。

近江八景の一つ「三井の晩鐘」です。初代の鐘は「弁慶の引摺鐘」でしたが、現在の鐘は慶長7(1602)年に鋳造されたもので、重さは600貫(約2250kg)あります。

鐘の上の部分には煩悩に因む突起が、108個つくられていました。

三井寺駅から0.8km、別所駅に着きました。社内放送では別所駅の後に「市役所前」をつけて案内されています。

案内されていた大津市役所の建物です。坂本方面に向かって左側にありました。

別所駅の琵琶湖寄りには大津市皇子山総合運動公園陸上競技場。その北側にあった皇子山球場です。照明灯よりはるかに高い背景のマンションは、別所駅の次の皇子山駅の前にあります。

別所駅から0.5km。次の皇子山駅に着きました。皇子山駅は湖西線の高架下にあります。駅からJR湖西線の高架に沿って歩くとJR大津京駅に着きます。JRへの乗換駅の一つです。

5分ぐらいでJR大津京駅です。右手に皇子山球場の背景にあった高層マンションがありました。

JR大津京駅です。駅名の文字の上にはたくさんの鳩が停まっていました。

これは皇子山駅のホームにあった時刻表です。昼間は1時間8本の電車が運行されていました。よく見ると、坂本行きが1時間に4本、その間に近江神宮駅行きが各1本ずつ運行されています。時間を気にしないで乗ることができます。

電車を待っていたら、「鉄道むすめ巡り」のラッピング電車が入ってきました。619号車と620号車の2両編成でした。ラッシュ間の運行ではありませんでしたが、車掌さんが乗務されていました。「ありがとうございました!」の威勢のいい声を聞こえていました。

「鉄道むすめ巡り」の電車で1分ちょっと、近江神宮駅に到着しました。皇子山駅から0.6kmのところにありました。

今回は、「湖都古都・おおつ1day きっぷ」を使って、石山坂本線の膳所本町駅から近江神宮前駅までの5.3kmを移動しました。その間のすべての駅で下車しながらの電車の旅でした。この区間は、日中は近江神宮前駅止めと坂本駅行きの電車をあわせて1時間に8本運行されています。京津線を分岐する浜大津駅、「三井の晩鐘」の最寄り駅三井寺駅など沿線の見どころも多い区間でした。終点の坂本駅をめざす石山坂本線の旅はさらに続きます。