明治時代につくられた旧遷蕎(せんきょう)小学校。
国指定の重要文化財です。
「出目幽谷 遷于蕎木」(詩経)から山田方谷が命名したと言われています。
明治38年7月に着工し、明治40(1907)年に完成しました。
江川三郎八の設計によるもので、
木造2階建て中央を大きくつくり東西両翼の棟は左右対称。
当初は天然スレート瓦で葺いていた、
ルネサンス式の校舎として知られています。
また、校章は高瀬舟をイメージして「久世」の文字も織り込まれています。
これも江川三郎八の手によるものです。
また、懐かしの学校給食を味わうイベントをしているところとしても
人気を博しています。
真庭市久世町。この町に、真庭市役所は置かれています。
木を素材にしたユニークな市庁舎です。
ここ真庭市久世町は、
慶長8(1603)年、森忠政が18万6000石の領地で津山を領したときから、その支配下にありました。享保12(1755)年に、森家に嗣子がなく改易されてからは、幕府領となりました。途中、鳥取藩領(延享2=1745~)の時期もありましたが、宝暦5(1755)年から再び幕府領となりました。
この間、上町に置かれた代官所の支配を受けていました。
この日は、時折雪が舞う肌寒い日でした。
国道181(313)号線を渡ってさらに進むと、小さい路地の先に、代官の官舎だった旧久世陣屋跡があります。
久世代官の中で、最も知られているのが、20代目の早川八郎左衛門正紀(まさとし)です。天明7(1787)年に48歳で着任し、享和元(1801)年関東地廻役代官に転ずるまで、14年間、ここの代官として過ごしました。
この間、「年貢を徴収しやすくするため、定免法(一定期間年貢量を固定する)を検見法(毎年の実地検分をもとに年貢量を決定する)に改め、領民の税負担を軽減するようにしました。(幕府は収入を安定したものにするため、享保7=1722年に、検見法から定免法に転換していました。)
幕府の役人が、幕府の方針と違う触れを出すのは、かなり勇気のいることだったのではないでしょうか?
大森銀山で知られる大森代官の土手平左衛門や滋賀県の琵琶湖の湊町海津(かいづ)の代官、西与一左衛門など、気骨のある方が各地にいたのです!代官といえば、権力を笠に着て搾取する姿が時代劇の定番ですが、領民のために頑張った代官の方が、実は多かったのかもしれませんね。
このほか、「赤子間引き」の禁止、質素倹約の奨励、庶民のための学校である「典学館」を設けるなど領民のための施政を進め、領民から慕われたと、説明板には書かれていました。
隣の重願寺の山門は、旧陣屋から移されたものだと言われています。
久世は、また、津山藩主森忠政が整備し出雲藩やその支藩の広瀬藩の参勤交代の道であった、旧出雲街道の宿場町でもありました。本陣をつとめていたのは、慶長17(1612)年頃に移住してきた景山家で、宝暦6(1756)年からと言われています。残念ながら、本陣があった場所は、案内がなくよくわかりませんでした。
元禄(1688~1704)時代からは、備中の足守から来て山陰に向かう、大山道がここから分岐することになりました。そのため、春秋2回の牛馬市が立ち、町には13軒の博労(ばくろう)問屋もあったそうです。このように、久世の宿場町は博労宿でもあったのです。
旧陣屋跡から50メートルぐらいで、上町商店街のアーケードにぶつかります。この道が旧出雲街道です。
これは、アーケードから右方向(勝山方面)を見たものです。宿場町らしく、今も旅館が並んでいました。その先で、津山方面から出雲方面に向かう旅人は左側を流れる旭川の土手に、並んで歩くことになります。
旭川の土手はサクラが植えられていて、”再春さくら通り”といわれる通学路になっていました。
折り返して、勝山方面から久世宿に入ります。先ほど見た旅館を左側に見て、旧街道を津山方面に向かいます。
上町商店街のアーケード内は、廃業した店舗が多いのと、天候の影響もあって薄暗い印象でした。
アーケードを抜けると中町商店街。晴れ間がのぞくようになり、日射しが差し始めました。
中町を抜けると信号のある交差点です。津山信用金庫久世支店から先が、下町商店街。
アーケード街です。
抜けると、日本キリスト教団久世教会。
三坂川にかかる天神橋を渡って、左に華蔵庵(けぞうあん)の黒松。
高さ18m、目通り4.3m、樹齢360年という、岡山県下最大級の黒松とのこと。
そのそばに、「てんしんはし」の石標も残っていました。
続いて、白漆喰塗り込め、虫籠窓に出格子、なまこ壁の下板張りという出雲街道沿いに多い伝統的な民家が姿を現します、白漆喰の民家が、本当にきれいです。
上町から下町にかけての旭川沿いには、かつて高瀬舟の船着場があり、年貢米など様々な物資が積み出され運び込まれていました。天保9(1838)年には、家数398軒、1542人が居住し、たいそう繁栄していたと記録されています。
さらに、まっすぐ進みます。
壁一面に書かれた宣伝文句。左を見ると、国道181号線の向こうに遷喬小学校がみえました。
さらにまっすぐ行くと、右に向かう国道181を渡ります。写真の左のやや細い道をまっすぐ進みます。その先のJR姫新線の線路で、この道は行き止まりになっていました。
私は、この道こそ旧出雲街道だと思い込んでいました。
これは、「おかやま歴史発見の道・出雲街道歴史の道」にあった地図ですが、よく見ると、旧出雲街道は天神橋を渡ったところから、旭川寄りに曲がっているようです。また、北に向かう道にも旧出雲街道と記されています。
これはいけない!一度引き返して、天神橋から歩き直すことにしました。あの漆喰塗り込め民家から、再度スタートします。街道を右に曲がる道は2つありました。
1つは、白壁の村岡商店と苦田商店の間の道を右折して、旭川に向かって進み、苦田商店の敷地に沿って左折します。進むと、民家にぶつかりますが、そこで再度右折して、旭川の土手道に入ります。そこから、まっすぐ旭川の土手道を進みます。城下町に入る街道によくある、鍵形のカーブでした。
2つめの道は、苦田商店の先を、緩やかにカーブする道です。この道は、旭川の土手と平行する道を進んでいきます。
私には、最初の鍵形のカーブを通って旭川の土手道を通る方が、地図の道に近いと思われました。
この道を進むことにしました。
旭川の土手を15分ぐらい歩くと、久世高校に渡るいずみ橋の北詰に着きます。
そこを左折して、真庭市役所の入り口のところ(オレンジの看板)を右折して進みました。
ところところ、民家が途切れてはいましたが、国道181号線の南側を、津山方面に向かう道でした。
この道が、旧出雲街道なのでしょうか? もう一つ確信がもてません。
「岡山県の歴史散歩」(岡山県高等学校教育研究会)には、「国道181号線の北側は、北に向かう旧大山道に沿って、切妻の妻が水切り瓦やなまこ壁になった商家建築が残っている」と書かれています。その通り、この道沿いに歩いていくと、東町と西町の商家建築が見えてきます。
煙出しのついた豪壮な建物は村澤邸。かつて油屋を営んでおられたそうです。
旧街道にある伝統的な町並みを今に伝えてくれています。
この道が旧大山道なのでしょうか?
どれが、かつての出雲街道なのでしょうか?
悪天候のためか、ほとんど人に会うことがなかったので、正しいことがわかりませんが、私には、上町からまっすぐ東に向かう道が一番街道らしいと思いました。
でも、地図の道とは違っているのです。
江戸時代から、久世の町は、陣屋町、宿場町、そして、旭川の水運を利用した物資の集散地として繁栄しました。現在も合併してできた真庭市の政治・経済の中心地として、古い伝統を生かしながら新しい歩みを始めています。
国指定の重要文化財です。
「出目幽谷 遷于蕎木」(詩経)から山田方谷が命名したと言われています。
明治38年7月に着工し、明治40(1907)年に完成しました。
江川三郎八の設計によるもので、
木造2階建て中央を大きくつくり東西両翼の棟は左右対称。
当初は天然スレート瓦で葺いていた、
ルネサンス式の校舎として知られています。
また、校章は高瀬舟をイメージして「久世」の文字も織り込まれています。
これも江川三郎八の手によるものです。
また、懐かしの学校給食を味わうイベントをしているところとしても
人気を博しています。
真庭市久世町。この町に、真庭市役所は置かれています。
木を素材にしたユニークな市庁舎です。
ここ真庭市久世町は、
慶長8(1603)年、森忠政が18万6000石の領地で津山を領したときから、その支配下にありました。享保12(1755)年に、森家に嗣子がなく改易されてからは、幕府領となりました。途中、鳥取藩領(延享2=1745~)の時期もありましたが、宝暦5(1755)年から再び幕府領となりました。
この間、上町に置かれた代官所の支配を受けていました。
この日は、時折雪が舞う肌寒い日でした。
国道181(313)号線を渡ってさらに進むと、小さい路地の先に、代官の官舎だった旧久世陣屋跡があります。
久世代官の中で、最も知られているのが、20代目の早川八郎左衛門正紀(まさとし)です。天明7(1787)年に48歳で着任し、享和元(1801)年関東地廻役代官に転ずるまで、14年間、ここの代官として過ごしました。
この間、「年貢を徴収しやすくするため、定免法(一定期間年貢量を固定する)を検見法(毎年の実地検分をもとに年貢量を決定する)に改め、領民の税負担を軽減するようにしました。(幕府は収入を安定したものにするため、享保7=1722年に、検見法から定免法に転換していました。)
幕府の役人が、幕府の方針と違う触れを出すのは、かなり勇気のいることだったのではないでしょうか?
大森銀山で知られる大森代官の土手平左衛門や滋賀県の琵琶湖の湊町海津(かいづ)の代官、西与一左衛門など、気骨のある方が各地にいたのです!代官といえば、権力を笠に着て搾取する姿が時代劇の定番ですが、領民のために頑張った代官の方が、実は多かったのかもしれませんね。
このほか、「赤子間引き」の禁止、質素倹約の奨励、庶民のための学校である「典学館」を設けるなど領民のための施政を進め、領民から慕われたと、説明板には書かれていました。
隣の重願寺の山門は、旧陣屋から移されたものだと言われています。
久世は、また、津山藩主森忠政が整備し出雲藩やその支藩の広瀬藩の参勤交代の道であった、旧出雲街道の宿場町でもありました。本陣をつとめていたのは、慶長17(1612)年頃に移住してきた景山家で、宝暦6(1756)年からと言われています。残念ながら、本陣があった場所は、案内がなくよくわかりませんでした。
元禄(1688~1704)時代からは、備中の足守から来て山陰に向かう、大山道がここから分岐することになりました。そのため、春秋2回の牛馬市が立ち、町には13軒の博労(ばくろう)問屋もあったそうです。このように、久世の宿場町は博労宿でもあったのです。
旧陣屋跡から50メートルぐらいで、上町商店街のアーケードにぶつかります。この道が旧出雲街道です。
これは、アーケードから右方向(勝山方面)を見たものです。宿場町らしく、今も旅館が並んでいました。その先で、津山方面から出雲方面に向かう旅人は左側を流れる旭川の土手に、並んで歩くことになります。
旭川の土手はサクラが植えられていて、”再春さくら通り”といわれる通学路になっていました。
折り返して、勝山方面から久世宿に入ります。先ほど見た旅館を左側に見て、旧街道を津山方面に向かいます。
上町商店街のアーケード内は、廃業した店舗が多いのと、天候の影響もあって薄暗い印象でした。
アーケードを抜けると中町商店街。晴れ間がのぞくようになり、日射しが差し始めました。
中町を抜けると信号のある交差点です。津山信用金庫久世支店から先が、下町商店街。
アーケード街です。
抜けると、日本キリスト教団久世教会。
三坂川にかかる天神橋を渡って、左に華蔵庵(けぞうあん)の黒松。
高さ18m、目通り4.3m、樹齢360年という、岡山県下最大級の黒松とのこと。
そのそばに、「てんしんはし」の石標も残っていました。
続いて、白漆喰塗り込め、虫籠窓に出格子、なまこ壁の下板張りという出雲街道沿いに多い伝統的な民家が姿を現します、白漆喰の民家が、本当にきれいです。
上町から下町にかけての旭川沿いには、かつて高瀬舟の船着場があり、年貢米など様々な物資が積み出され運び込まれていました。天保9(1838)年には、家数398軒、1542人が居住し、たいそう繁栄していたと記録されています。
さらに、まっすぐ進みます。
壁一面に書かれた宣伝文句。左を見ると、国道181号線の向こうに遷喬小学校がみえました。
さらにまっすぐ行くと、右に向かう国道181を渡ります。写真の左のやや細い道をまっすぐ進みます。その先のJR姫新線の線路で、この道は行き止まりになっていました。
私は、この道こそ旧出雲街道だと思い込んでいました。
これは、「おかやま歴史発見の道・出雲街道歴史の道」にあった地図ですが、よく見ると、旧出雲街道は天神橋を渡ったところから、旭川寄りに曲がっているようです。また、北に向かう道にも旧出雲街道と記されています。
これはいけない!一度引き返して、天神橋から歩き直すことにしました。あの漆喰塗り込め民家から、再度スタートします。街道を右に曲がる道は2つありました。
1つは、白壁の村岡商店と苦田商店の間の道を右折して、旭川に向かって進み、苦田商店の敷地に沿って左折します。進むと、民家にぶつかりますが、そこで再度右折して、旭川の土手道に入ります。そこから、まっすぐ旭川の土手道を進みます。城下町に入る街道によくある、鍵形のカーブでした。
2つめの道は、苦田商店の先を、緩やかにカーブする道です。この道は、旭川の土手と平行する道を進んでいきます。
私には、最初の鍵形のカーブを通って旭川の土手道を通る方が、地図の道に近いと思われました。
この道を進むことにしました。
旭川の土手を15分ぐらい歩くと、久世高校に渡るいずみ橋の北詰に着きます。
そこを左折して、真庭市役所の入り口のところ(オレンジの看板)を右折して進みました。
ところところ、民家が途切れてはいましたが、国道181号線の南側を、津山方面に向かう道でした。
この道が、旧出雲街道なのでしょうか? もう一つ確信がもてません。
「岡山県の歴史散歩」(岡山県高等学校教育研究会)には、「国道181号線の北側は、北に向かう旧大山道に沿って、切妻の妻が水切り瓦やなまこ壁になった商家建築が残っている」と書かれています。その通り、この道沿いに歩いていくと、東町と西町の商家建築が見えてきます。
煙出しのついた豪壮な建物は村澤邸。かつて油屋を営んでおられたそうです。
旧街道にある伝統的な町並みを今に伝えてくれています。
この道が旧大山道なのでしょうか?
どれが、かつての出雲街道なのでしょうか?
悪天候のためか、ほとんど人に会うことがなかったので、正しいことがわかりませんが、私には、上町からまっすぐ東に向かう道が一番街道らしいと思いました。
でも、地図の道とは違っているのです。
江戸時代から、久世の町は、陣屋町、宿場町、そして、旭川の水運を利用した物資の集散地として繁栄しました。現在も合併してできた真庭市の政治・経済の中心地として、古い伝統を生かしながら新しい歩みを始めています。