江戸時代、江戸と京を結ぶ大動脈であった東海道と中山道。海岸に近いところを移動する(海路を移動するところもあった)東海道に対し、「すべて山の中である」と言われた木曽路に代表される中山道。一見、出会うはずがないと思うのですが、その2つの街道が出会う宿場がありました。東海道の52番目、中山道の88番目の宿場である草津宿です。現在の滋賀県草津市にあります。
その合流点に、追分道標が立っています。
「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」。文化13(1816)年につくられた灯籠にこのように刻まれており、ここで、2つの街道が出会ったことを教えてくれています。基壇には、この道標を寄進した、京、大坂、岐阜などの飛脚問屋らの名が刻まれています。この道標の近くが、東海道伊勢道(江戸)方面への出口です。旧東海道は、おおむね、現在のJR草津線とJR関西本線に沿って、江戸につながっていました。
民家はほとんどが建て替えられていましたが、当時の雰囲気を残す一角もありました。
この先のゆるやかなカーブを曲がると、草津川の土手に上がっていきます。
右側に、また灯籠(道標)が見えてきました。
左 東海道いせ道 右 金勝寺しがらき道
文化13(1816)年丙子三月建之
奉 京都中井正治右衛門 橘武成
この道標は、かつては、現在地の反対の左側にあったと言われています。
現在の道筋には、東海道を歩く人のために、「←東海道→」の案内板が要所に設置されています。それに従って、草津川にかかる橋を渡ります。かつて、東海道、中山道を行く旅人は、現在の橋より少し手前を、徒歩で渡っていたといわれています。
川底が民家の屋根よりも高い天井川で、もともと「砂川」と呼ばれていたように、通常は、流れは多くなかったようです。
現在では、草津川の付け替え工事が終わっていたので、水はまったく流れていませんでした。
東海道を進む旅人は、ここから草津川の対岸を下り、国道1号線の上をわたり、東海道新幹線の下をくぐり、JR草津線の千原駅の前をとおって、次の石部宿へ向かっていました。
もう一度、追分道標に戻ります。
ここは、草津川をくぐるトンネルです。草津川は天井川のため、出水期になると通行に悩んでいたため、大路村戸長、長谷庄五郎が当時の中井弘県令に願いを出し、明治19(1886)年に完成させたものです。
このトンネルが中山道美濃路(江戸)方面への出口です。旧中山道は、JR東海道本線に沿って名古屋に向かっていました。右側に追分道標、左側に復元された高札場がありました。
トンネルの中には、「大名行列」の絵など、6つの壁画が描かれていました。
駅前商店街(旧大路村内)を抜けて、次の守山宿へ向かっていきます。そして、トンネルの反対側が、草津宿本陣前を通って、次の大津宿(京都)方面へ向かう東海道・中山道です。
「天保14(1843)年には、人口2351人、家数が586軒あり、2つの本陣、2つの脇本陣に、旅籠が72軒あった」という記録が残っているそうで、にぎやかな宿場だったようです。
少し進むと、右側に旧草津宿の本陣跡、田中七左衛門邸があります。当時の姿をとどめる貴重な遺構として、国指定の史跡になっています。全国の本陣の中でも、最大級の規模を誇っていました。平成8(1996)年に改修され一般公開されました。
門前に掲げられた「細川越中守宿」の札は、関札(宿札)といわれています。ここには、2000枚以上の紙製の関札と、460枚の木製の関札が残っているそうです。また、浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三などの、歴史上よく知られている人も宿泊しているようです。
天保10(1839)年4月7日、薩摩藩の支藩の佐土原藩主、 島津忠徹(ただゆき)はここで死亡しました。 藩の跡目相続は、生存中に決めないといけないため、 その事実を隠し70日ほど亡骸(なきがら)をここで保管したそうです。 「4月7日より6月25日朝まで滞在した」と、記録に残っているようです。 ちなみに、公式には、忠徹の死は5月26日となっています。残念ながら、本陣内は「撮影禁止」になっていました。
脇本陣跡です。
「そばや」さんになっていました。家の隅に石碑が残っています。
もう一つの脇本陣跡、藤屋与左衛門邸跡です。
こちらは、吉川芳樹園という茶舗になっていました。文化庁の登録有形文化財に指定されています。
次は、太田酒造の建物です。
太田道灌を祖とするそうで、「道灌」という大きな看板が目に着きました。
ここは、宿場の中心である「問屋(場)」の跡です。輸送に必要な馬や人足を手配したり宿の管理にあたったところです。また、東海道に3カ所しかなかった、荷物の重量検査を担当する「貫目改所」も置かれていました。
そのため、「草津の政所(まんどころ)」と呼ばれていました。
これは何年か前に訪れたときの写真ですが、当時はアーケードがついていました。今は、それも撤去され青空に白壁が映えていました。
これは、以前訪ねたときの草津宿の町並みです。今回は、電線が整理されていたせいか、すっきりとした印象を受けました。
立木神社の門前をとおり、矢倉橋を越えると、東海道は旧矢倉村に入ります。
さらに歩くと、三差路の右側に矢橋道標があります。
ここは、「矢倉立場」があったところです。「立場」とは、宿場と宿場の間に茶店などが設置され、旅人が杖を立てて休憩することからつけられたようです。歌川広重の浮世絵にも描かれた「乳母餅(うばがもち)」を出す店もここにありました。
その隅に、矢橋道標が立っています。
右 やばせ道 これより二五丁 大津へ 船わたし
この三差路は、海路(琵琶湖を船)で大津へ向かう、矢橋の渡しに向かう分岐点でした。
「急がば回れ」! 海路は速いけれど、天候に左右されます。陸路は確かですが、時間がかかります。堅実に進めようという「急がば回れ」は、ここから生まれたといわれています。
最後になりましたが、草津宿の玄関口、JR草津駅。
駅前には、追分道標を模した道標がつくられていて、宿場町の玄関口らしい雰囲気をかもし出していました。
草津本陣が一般公開された平成8年頃、草津から来られるお客様は、本陣の写真のついたテレホンカードを持ってきてくださっていました。
本陣や宿場を中心にした町づくりや町並みの整備が一層進んでいることがわかりました。
その合流点に、追分道標が立っています。
「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」。文化13(1816)年につくられた灯籠にこのように刻まれており、ここで、2つの街道が出会ったことを教えてくれています。基壇には、この道標を寄進した、京、大坂、岐阜などの飛脚問屋らの名が刻まれています。この道標の近くが、東海道伊勢道(江戸)方面への出口です。旧東海道は、おおむね、現在のJR草津線とJR関西本線に沿って、江戸につながっていました。
民家はほとんどが建て替えられていましたが、当時の雰囲気を残す一角もありました。
この先のゆるやかなカーブを曲がると、草津川の土手に上がっていきます。
右側に、また灯籠(道標)が見えてきました。
左 東海道いせ道 右 金勝寺しがらき道
文化13(1816)年丙子三月建之
奉 京都中井正治右衛門 橘武成
この道標は、かつては、現在地の反対の左側にあったと言われています。
現在の道筋には、東海道を歩く人のために、「←東海道→」の案内板が要所に設置されています。それに従って、草津川にかかる橋を渡ります。かつて、東海道、中山道を行く旅人は、現在の橋より少し手前を、徒歩で渡っていたといわれています。
川底が民家の屋根よりも高い天井川で、もともと「砂川」と呼ばれていたように、通常は、流れは多くなかったようです。
現在では、草津川の付け替え工事が終わっていたので、水はまったく流れていませんでした。
東海道を進む旅人は、ここから草津川の対岸を下り、国道1号線の上をわたり、東海道新幹線の下をくぐり、JR草津線の千原駅の前をとおって、次の石部宿へ向かっていました。
もう一度、追分道標に戻ります。
ここは、草津川をくぐるトンネルです。草津川は天井川のため、出水期になると通行に悩んでいたため、大路村戸長、長谷庄五郎が当時の中井弘県令に願いを出し、明治19(1886)年に完成させたものです。
このトンネルが中山道美濃路(江戸)方面への出口です。旧中山道は、JR東海道本線に沿って名古屋に向かっていました。右側に追分道標、左側に復元された高札場がありました。
トンネルの中には、「大名行列」の絵など、6つの壁画が描かれていました。
駅前商店街(旧大路村内)を抜けて、次の守山宿へ向かっていきます。そして、トンネルの反対側が、草津宿本陣前を通って、次の大津宿(京都)方面へ向かう東海道・中山道です。
「天保14(1843)年には、人口2351人、家数が586軒あり、2つの本陣、2つの脇本陣に、旅籠が72軒あった」という記録が残っているそうで、にぎやかな宿場だったようです。
少し進むと、右側に旧草津宿の本陣跡、田中七左衛門邸があります。当時の姿をとどめる貴重な遺構として、国指定の史跡になっています。全国の本陣の中でも、最大級の規模を誇っていました。平成8(1996)年に改修され一般公開されました。
門前に掲げられた「細川越中守宿」の札は、関札(宿札)といわれています。ここには、2000枚以上の紙製の関札と、460枚の木製の関札が残っているそうです。また、浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三などの、歴史上よく知られている人も宿泊しているようです。
天保10(1839)年4月7日、薩摩藩の支藩の佐土原藩主、 島津忠徹(ただゆき)はここで死亡しました。 藩の跡目相続は、生存中に決めないといけないため、 その事実を隠し70日ほど亡骸(なきがら)をここで保管したそうです。 「4月7日より6月25日朝まで滞在した」と、記録に残っているようです。 ちなみに、公式には、忠徹の死は5月26日となっています。残念ながら、本陣内は「撮影禁止」になっていました。
脇本陣跡です。
「そばや」さんになっていました。家の隅に石碑が残っています。
もう一つの脇本陣跡、藤屋与左衛門邸跡です。
こちらは、吉川芳樹園という茶舗になっていました。文化庁の登録有形文化財に指定されています。
次は、太田酒造の建物です。
太田道灌を祖とするそうで、「道灌」という大きな看板が目に着きました。
ここは、宿場の中心である「問屋(場)」の跡です。輸送に必要な馬や人足を手配したり宿の管理にあたったところです。また、東海道に3カ所しかなかった、荷物の重量検査を担当する「貫目改所」も置かれていました。
そのため、「草津の政所(まんどころ)」と呼ばれていました。
これは何年か前に訪れたときの写真ですが、当時はアーケードがついていました。今は、それも撤去され青空に白壁が映えていました。
これは、以前訪ねたときの草津宿の町並みです。今回は、電線が整理されていたせいか、すっきりとした印象を受けました。
立木神社の門前をとおり、矢倉橋を越えると、東海道は旧矢倉村に入ります。
さらに歩くと、三差路の右側に矢橋道標があります。
ここは、「矢倉立場」があったところです。「立場」とは、宿場と宿場の間に茶店などが設置され、旅人が杖を立てて休憩することからつけられたようです。歌川広重の浮世絵にも描かれた「乳母餅(うばがもち)」を出す店もここにありました。
その隅に、矢橋道標が立っています。
右 やばせ道 これより二五丁 大津へ 船わたし
この三差路は、海路(琵琶湖を船)で大津へ向かう、矢橋の渡しに向かう分岐点でした。
「急がば回れ」! 海路は速いけれど、天候に左右されます。陸路は確かですが、時間がかかります。堅実に進めようという「急がば回れ」は、ここから生まれたといわれています。
最後になりましたが、草津宿の玄関口、JR草津駅。
駅前には、追分道標を模した道標がつくられていて、宿場町の玄関口らしい雰囲気をかもし出していました。
草津本陣が一般公開された平成8年頃、草津から来られるお客様は、本陣の写真のついたテレホンカードを持ってきてくださっていました。
本陣や宿場を中心にした町づくりや町並みの整備が一層進んでいることがわかりました。