トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

惣門のある出雲街道の宿場町

2012年02月05日 | 日記
出雲国松江城下から、出雲、伯耆、美作の国を経由して、播磨の国姫路とつながる旧出雲街道。
その旧出雲街道の中に、宿場町の入り口と出口に惣門を設けていた宿場がありました。現在は、復元された惣門が、訪ねる人を迎えています。
そこは、旧出雲街道土居宿、今の美作市作東町土居にあります。城下町の入り口や出口の総門はめずらしくありませんが、宿場町の惣門は、当時、貴重な存在でした。
JR津山駅からキハ120系のディーゼルカーで約40分。旧土居宿の玄関口、JR美作土居駅に着きました
出雲街道土居宿は、岡山城主宇喜多氏と小早川氏の支配を受けた後、関ヶ原の戦いの後の慶長8(1603)年から津山藩領になっていました。その後、元禄10(1697)年から幕府領、延享2(1746)年から三日月藩領、寛政6(1794)年から龍野藩領と替わっていきました。

元禄年間(1688~1704年)には戸数113戸だったのが、文化12(1815)年には216戸になったといわれ、江戸時代中期に最も繁栄した宿場だったようです。
駅前広場に「出雲街道土居宿を後世に残す会」の作成した、「出雲街道土居宿跡案内図」がありました。

それを見ると、再建された西惣門は、駅から比較的近いところにあることがわかりました。
駅からまっすぐに進むと、正面に東西に延びている旧出雲街道にぶつかります。
めざす西惣門は、旧出雲街道に出る直前の右側にありました!

慶長年間(1596~1614年)、江戸幕府が出雲街道と美作7駅(土居・勝間田・津山・坪井・久世・勝山・美甘・新庄宿がありますが、津山は城下町でしたので)を定めたとき、宿場町の東西の両端に関門を設けることにしたのです。
それからは、毎朝夕、門番によって開閉されていたそうです。(門の大きさ)高さ 6m50cm、幅7m88cm。(門扉の大きさ)高さ 3m40cm、 幅3m60cm。現在地(平成13=2001年に再建された)から南に10mずれた、旧出雲街道上にあったようです。

播磨の国との国境にある土居宿だけに、主に国境警備のためにつくられたのでしょう。
この惣門は、高麗門の形式になっています。高麗門は、皇居の桜田門や蛤門がその代表的な例です。鏡柱2本と内側(手前側)の控柱2本で構成され、2本の鏡柱の上に冠木(かぶき)を渡して、小さな切り妻屋根を乗せ、鏡柱と内側(手前)の控柱の間にも小さな切妻屋根を乗せています。宿場町に西の勝間田宿方面からやってくる旅人は、裏側からこの門をくぐることになっていました。
西惣門で旧出雲街道を右に折れて進み、宿場町の入り口から折り返して、土居宿を歩いてみることにしました。
「出雲街道土居宿」の碑から進むと、すぐに一里塚跡があります。慶長9(1604)年津山藩主森忠政のとき、街道の両側に、36町ごとにつくられたもので、左手(北側)に黒松、右手(南側)に榎が植えられていました。案内板によれば、「黒松は戦時中に献木のため切られ榎も戦後切られたのを、昭和47(1972)年に松と榎を植えて復元したそうです。
榎の木の下につくられた、「土居一里塚 南塚跡」の石碑が残っていましたが、下の方はがれきに埋もれていました。石碑を読んでいる間中、すぐ前の民家に住む飼い犬が、ずっと吠え続けていました。
  
一里塚を過ぎ、山家川にかかる門尻橋の手前左側に、「勤王四士元埋葬の地  川下約10m河原内」という案内がありました。
勤王四士とは、岡元太郎、井原応輔、島浪 間、千屋金策の4人で、勤王派の同士を募るため美作の国を遊説中、盗賊に間違えられてここ土居宿まで逃れてきましたが、惣門が閉まっていて宿場に入れず追い詰められて、元太郎は切腹し、応輔、浪間は惣門の外で刺し違えて自害したといわれます。また、金策は宿場内の泉屋という宿で自刃したといわれています。この埋葬の地は、西の惣門の外のすぐ近くでした。

江戸時代は、西惣門の下をくぐって、土居の宿場に入ります。
ほとんどの民家が建て直されて、当時を伝えるものは残っていませんでしたが、案内は丁寧で、駅前にあった案内板とあわせると、当時の様子がよくわかりました。
街道の左手(南側)に「本陣跡」。ブロック塀の上に張られた「本陣跡」の案内板は、片方が外れて垂れ下がっていました。「間口55m」とあるように、偉容を誇る建物だったようです。資料によれば、はじめ妹尾氏、後になって安東氏がつとめていたようです。

その先の左側に「土居駅跡」。人馬の継立てをしていた問屋場の跡のようです。
 
明治になって、交番があったのでしょうか?「巡査屯所」跡です。現在は、土居駐在所になっていました。
その並びに、大きな楠の木がありました。幕末期からある楠の木のようです。
その奥に「土居老人共同作業所」の建物。その建物を右奥に入ると、「宿場資料館」の入り口がありました。閉館のようでした。
高札場の跡でした。

その先に右に折れる道があり、
「土居子安八幡神社」と「御旅所」の碑がありました。八幡神社の御輿の出発地点なのでしょうか?歩いている間、ほとんど人に会いませんでしたので、お尋ねすることができません。案内板によると、この並びに脇本陣があったと書かれていました。

脇本陣は、東の出口付近にもう一つあったようです。資料によれば、亀井家や和田家がつとめたとありますが、よく分かりませんでした。
現在の道案内は、ここを左に曲がって姫新線の踏切をわたり、佐用方面に行くようになっていますが、江戸時代の出雲街道は、この道を右に向かっていました。
街道を曲がったところに、もう一つの脇本陣跡。振り返って撮影しました。
その先に「東惣門跡」がありました。これも振り返って撮影したもので、土居宿の光景です。
旧出雲街道を行く旅人は東惣門を抜け、この先で、万の乢(たわ)を越えて、播磨国佐用宿へと旅を続けました。

宿場の東の端、東惣門まで行ってから、JR土居駅に引き返しました。
昭和11(1936)年12月に竣工した美作土居駅に戻ってきました。
その8ヶ月前の昭和11(1936)年4月、当時の姫津東線が佐用駅・美作江見駅間を延伸開業させ、姫津西線を編入して、姫津線と改称しました。そして、10月には、津山駅・東津山駅間を姫津線に編入、姫路駅と新見駅間が全通し、「姫新線」と改称されました。

開業からすでに75年が経過している駅舎です。木造平屋建て切妻造りで、外壁は下見板張り、正面に三角形のポーチがついた懐かしい姿です。正面右にトイレ部分を増築していますが、他は開業当時のままで、建設当時の面影を今に伝えてくれています。
駅を出た右側に、板塀に囲まれた2軒続きの長屋風の建物1棟と一戸建ての建物2棟が残っていました。鉄道官舎として使われていた建物です。
長屋風の官舎は、草におおわれ放置されているようでした。

復元された立派な西惣門。
この町に住む人々の町への誇りを感じることができた旅でした。