goo blog サービス終了のお知らせ 

トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

朝鮮通信使の寄港地、牛窓の町並み(2)

2019年03月19日 | 日記

岡山県瀬戸内市牛窓町は、”日本のエーゲ海”と称し観光業によって町の活性化を図っている岡山県東部にある町です。この町は古くから内海航路の風待ち、潮待ちの港として知られており、江戸時代には将軍の代替わりに来日し、江戸に向かった朝鮮通信使の寄港地としても知られていました。写真は、朝鮮通信使の資料を展示している海遊文化館と、朝鮮通信使が4度宿泊した本蓮寺です。前回は、海遊文化館でいただいた「しおまち唐琴通り散策まっぷ(以下「マップ」)」を手に、岡山藩が整備した、岡山城下町と牛窓をつなぐ牛窓往来(唐琴通り)を、本蓮寺から関町まで歩いて来ました。

マップの左上から町並みの間を抜ける、緑で示された通りが唐琴通りです。前回は、4つ目のオレンジ印の右(東)のミニ広場のあたりまで歩き、石段を上って菅原道真を祀る「天神社」まで行ってきました。

マップに「関町ミニ公園」と書かれている広場です。道端に、牛窓往来の往来の説明板が白く見えています。

その手前にあった「フードショップ ナカニワヤ」のお店の脇を右折して進みます。

港の手前に乗車してきた東備バスの終点、牛窓バス停がありました。右側には、「仕出し料理寿司 寿司勝」のお店がありました。通りがかった人は「ここは以前3階建てだったよ」と、相手の方に話しておられました。

海岸沿いの道を右折して、海遊文化館方面に向かって引き返します。前島フェリーの”第七からこと”が入港するところでした。フェリーは、目の前にある前島と牛窓とを結び、1日20便が運行されています。

フェリー乗り場にあった観光センター「せとうちキラリ館」です。観光案内とおみやげの販売も行っています。

唐琴通りに戻ります。「関町だんじり」の収納庫の向こうに「写真のマサモト」のお店。その先に和風の建物が見えました。丘の上の白い建物は「あいの光病院・牛窓」ですが、以前はここに牛窓東小学校があったそうです。

和風の豪壮なお宅は”牛窓・備中屋・高祖の酒「千寿」”のブランドで知られる高祖酒造の発祥の地です。天保元年(1830)年創業。木造2階建て本瓦葺きの主屋は、正面1階は出格子で、2階はなまこ壁と黒漆喰でつくられており、明治25(1892)年頃に改装されたそうです。裏には赤煉瓦の煙突と白壁の土蔵が残っています。高祖酒造は、現在は瀬戸内市牛窓支所の前に移転して、醸造を続けておられます。

裏に回りました。かつては板塀で敷地を囲んでいたそうですが、現在は取り壊されていました。赤レンガで、長い面と短い面を交互に積んでいくイギリス積みの煙突は、昭和7(1932)年頃につくられたといわれています。基底部は1.2m、高さは15mあるそうです。見えにくいのですが、東面と西面には「千壽」の文字も残っています。”牛窓港の赤煙突”として親しまれてきました。主屋や煙突、蔵座敷、井戸洗い場は、平成19(2007)年、国の登録有形文化財に登録されています。

高祖酒造の前からあいの光病院・牛窓に向かう通りがあります。その脇に、白壁の建物と屋根のついた井戸がありました。白い建物は下見板張りの壁が白く塗られています。「関町だんじり」の収蔵庫の並びにあった「写真のマサモト」の以前のお店だそうです。明治20(1887)年、初代の正本平吉氏創業のお店です。

高祖酒造の建物の向かいにあった「学校の井戸」です。気候温暖で雨も少なく、大きな河川もなかった牛窓では、昭和34(1959)年に上水道が完成するまで、各所に共同井戸がつくられ活用されていました。この井戸は、昭和43(1968)年までこの丘の上にあった牛窓東小学校も使用していたため、このような名前がついたといわれています。

関町ミニ公園に戻りました。唐琴通りを東に向かって歩きます。

高祖鮮魚店、割烹旅館川源の裏を過ぎると左側に空き地があり、通りの脇に「中屋発祥の地」「高祖保生誕地」の石碑がありました。中屋という屋号の高祖家があったところで、戦後は洋品店を営んでいたそうです。戦前、詩人として活躍した高祖保は、ここで生まれました。そして、8歳のときに父金次郎が亡くなったため、母の実家のある彦根に移り、18歳までを彦根で過ごしました。その後、詩人として活躍していましたが、昭和19(1944)年、陸軍中尉として応召され、翌年34歳のとき、ミャンマーで戦死しました。今は閉館していますが、高祖保の資料を集めた「私設手づくりミニ資料館 なかなか庵」があり、彼を慕う人たちが訪れていたそうです。

その先の左側に、伏見稲荷を連想させる、小さな鳥居の並ぶ参道がありました。その先に拝殿と銅板葺きの本殿がありました。最一(さいいち)稲荷神社です。マップには「『由来記』によれば、明治4(1871)年、北側の山にいた老狐がここで天寿を迎えました。霊狐は神のように人の願いをかなえるようになり、明治7(1874)年京都伏見稲荷から神璽(しんじ)を賜った」といわれています。残念ながら「近日、撤去予定」と、マップに書かれていました。

西町を歩いています。左側に、地元西町の保存会の人々によってつくらえた「金刀比羅宮・荒神社」の道標がありました。

牛窓は神社・仏閣は山の上に建てられているようです。金刀比羅宮の境内に来ました。正面の海には、元禄8(1695)年、岡山藩主池田綱政が津田永忠に命じてつくらせたまっすぐな波止め、「一文字波止」が見えました。岡山藩の新田開発や土木事業に大きな功績を挙げた津田永忠は、近くの犬島から運んだ花崗岩を使って、10ヶ月という短期間に完成させた、堅牢な波止でした。この完成によって、牛窓は北前船の寄港地になるなど、物資の集散地として発展していくことになりました。

こちらは、東方向です。遠くの甍は、妙福寺(東寺)の観音院。目の前には、ドイツ製のレンガが鮮やかな「街角ミュゼ牛窓文化館」(以下「街角ミュゼ」)が見えました。

唐琴通りに降りてきました。さらに歩きます。すぐに、街角ミュゼが見えてきました。この建物は、大正4(1915)年、旧牛窓銀行本店として、建設されました。牛窓銀行は、地元の豪商の人たちが、明治10(1877)年、貯蓄と利殖のために、株式会社集成社を結成したことに始まります。明治16(1883)年から金融業を始め、明治26(1893)年に、銀行条例に準じて「牛窓銀行」と改称しました。

本店を建設してからは、金融合併を繰り返し、昭和5(1930)年、中国銀行牛窓支店になりました。その後、昭和55(1980)年に中国銀行は新店舗に移ることになり、牛窓町に寄贈されることになりました。そして、平成9(1997)年、現在の街角ミュゼ牛窓文化館になりました。また、同年、国の登録有形文化財に登録されました。牛窓町で最初の登録でした。

内部です。吹き抜けになっており、白い漆喰で仕上げられています。上の窓を開閉するためにキャットウオークもつくられています。現在は牛窓の歴史や文化を伝える展示場として使われています。

町角ミュゼの手前の道に「御茶屋井戸」(マップには「通信使ゆかりの井戸」と書かれています)への案内板がありました。行ってみることにしました。

御茶屋井戸です。近くにあった「井戸枠」には、「御茶屋で通信使を迎えるために、承応3(1654)年6月、岡山藩によって掘られた井戸」と書かれているそうです。井戸枠はこれまで何回か取り替えられており、現在の井戸枠は、明治10(1877)年に取り替えられたものだといわれています。残念ながら、私には井戸枠の文字を読むことはできませんでした。

朝鮮通信使の宿泊などの接待のためにつくられた御茶屋は、寛文9(1669)年に岡山藩主の別邸があったところに接待所を増築して整備されたそうです。マップを見ると、御茶屋は、街角ミュゼの向かい側、今はレストランになっている長屋門のあるお宅のあることろにあったようです。

海側から見た御茶屋跡の光景です。広々とした敷地に、御茶屋がつくられていたことがわかります。

御茶屋跡から見た港のようすです。マップには、海に突き出した突堤の付け根のあたりに、港を管理する岡山藩の「港在番所」があり、その先には、そこに仕えていた人たちの「足軽屋敷跡」があったと書かれていました。

さらに進みます。通りには、かつての雰囲気を残す景色が残っています。右側のお宅は、木崎商店です。前回、関町の旧牛窓町役場の跡地付近に、「和洋船舶用品店 木崎商店」という宣伝広告があったのを思い出しました。今は、閉店されているようです。通りの右側は、足軽屋敷が並んでいたところのようです。

その向かいにある空き地には、かつてバスターミナルがありました。大正7(1918)年に、牛窓・尾張間と牛窓・西大寺間で乗り合いバスの運行が始まったとき、ここがバスターミナルになっていました。「5、6人乗りの乗合バスが2~3台、ここに発着していた」と、当時を知る人のお話が紹介されていました。乗合バスの会社は大正15(1926)年に邑久自動車と改称され、昭和30(1955)年に両備バスに併合されたそうです。その先に海が見えるようになりました。

マップに、「番所跡」と書かれた広場に着きました。正面に灯籠堂が見えました。灯籠堂の手前には「恵比須宮・竜王宮」が、左側の石段の先には、航海の神として尊崇されている五香宮が祀られています。

五香宮の境内から見た灯籠堂です。江戸時代の延宝(1673~1681)年間、航行する船舶が増えてきたのに対応するため、、岡山藩主池田綱政が夜間の航行の目印(灯台)として設置しました。出崎の突端の岩盤の上に、割石積みの基壇を築き、その上に木製の灯籠台を建てていました。明治になって取り壊されていましたが、昭和63(1988)年に復元されたそうです。基壇の下部は東西、南北ともに4.9m。上部は東西、南北ともに4.3m、高さは2.2m。岡山藩がこのとき建設した4ヶ所の灯籠台のうち、完全に残っているのはここと大漂(大多府)の2ヶ所だけだといわれています。灯籠堂の向こうは前島です。

五香宮の境内から見た東町の光景です。牛窓は、木造船をつくる船大工の人々が多数居住していたところです。そのため、船材を扱う木材問屋で財を成した商人も多かったといわれています。その町をめざして歩きます。

灯籠堂の基壇にあった「これより造船の町 東町」の案内にしたがって、さらに海岸沿いの通りを進みます。

通りの右側にあった建物です。入口の上にある白い看板には「岡本造船」と書かれていました。このあたりは東町字新町です。「文政(1818~1829)年間には、船大工頭の平兵衛という人がおり、その配下には150名の船大工と300人を超す木挽きがいました。岡山藩主から五香宮付近の東町字新町に屋敷地を賜り名字帯刀も許されており、灯籠堂の管理も任されていた」(「牛窓みなと文化」による)そうです。

通りの左側の空き地の上に、妙福寺の観音院が見えました。創建は天平勝宝(749~756)年間。現在の建物は、鬼瓦の銘から、江戸時代の延享3(1746)年に再建されたものだといわれています。入母屋造りの本瓦葺きで、江戸時代中期の密教寺院の本堂の様式を残している建物だそうです。左側には五香宮があるはずです。

東町に近づいてきました。たくさんの船が停泊しています。その向こうに草木造船の工場が見えます。

海岸沿いの通りが、左右の通りにぶつかります。そこにあった道標です。右折して東町に入ります。造船の町である東町は、江戸時代の前期に開発された町で、寛文11(1671)年頃から、東に広がった町に材木問屋や棟大工の人たちが集まってできた町だそうです。

通りの右側の海岸沿いの空き地には多くの船舶が並んでいます。造船の町らしい光景が続きます。

通りの左側に食事処「潮菜」の入口がありました。ギャラリーで雑貨などを見ながら食事を楽しむお店だそうです。ここから東に向かって、広大な敷地の邸宅がありました。若葉屋の東服部邸です。文政元(1818)年、梶屋の木材部門が分家してできた店でしたが、材木問屋として発展しました。また、名主をつとめるなど、この地で大きな影響力を持っていた商家でした。

明治時代になると、「牛窓は、阪神地方に近いという地の利を活かし、港湾の艀(はしけ)を大量に受注するようになり、造船業が発展して行きました。それに伴って、牛窓では材木商が造船業に進出し大規模な造船所を設立するようになりました。若葉屋は、大正6(1917)年東服部合資会社を設立し、造船部(後に牛窓造船所になる)をつくり、機帆船時代の造船業界をリード」(「牛窓みなと文化」)していたそうです。

写真は、若葉屋の土蔵です。現在の東服部邸は、明治43(1910)年から15年をかけて完成させたもので、750坪の敷地に茶屋、裏屋敷、土蔵などが配置されているそうです。

二回に分けて、朝鮮通信使の寄港地、瀬戸内市牛窓町を「しおまち 唐琴通り 散策まっぷ」を手に歩いてきました。
朝鮮通信使が宿泊した本蓮寺、牛窓の赤煙突が残る高祖酒造の発祥の地、旧牛窓銀行に始まる街角ミュゼ、岡山藩が築いた灯籠堂、そして、若葉屋の邸宅など、牛窓の豊かな歴史を伝えているたくさんの文化遺産が残る美しい町でした。






朝鮮通信使の寄港地、牛窓の町並み(1)

2019年03月14日 | 日記

海岸に白い船が並ぶ、岡山県瀬戸内市牛窓(うしまど)町です。”日本のエーゲ海”と称し、観光業によって、町の活性化を図っている町です。牛窓は、古くから内海航路の風待ち、潮待ちの港として知られており、江戸時代には、北前船の寄港地となり、様々な物資の集散地として栄えました。また、将軍の代替わりに来日し、江戸に向かった朝鮮通信使の寄港地としても知られていました。この日は、岡山県東部の町、牛窓町を訪ねました。

JR赤穂線の邑久駅から牛窓行きの東備バスに乗り継いで、牛窓に着きました。バスの終点の一つ前「本蓮寺下バス停」で降車しました。バス停は牛窓海遊文化館(以下「海遊文化館」)のすぐ前にありました。青い空に映える真っ白な建物の海遊文化館は、朝鮮通信使との交流資料、そして船型のだんじりと和船を展示する資料館になっています。もともとは、西大寺警察署牛窓分署として、明治20(1887)年に建設されました。その後、名称は変更されましたが、昭和52(1977)年まで、警察署として、この地の治安維持のために使われていました。玄関ポーチには、今も金色の警察のマークが残っています。建物は、平成10(2008)年に国の登録有形文化財に登録されています。

海遊文化館の裏の丘の上に建つ本蓮寺の三重塔が見えました。元禄3(1690)年の建立(棟札による)で、岡山県の重要文化財に指定されています。朝鮮通信使は、永和元(1375)年に足利幕府3代将軍、足利義満が派遣した「日本国王使」に対し、当時の朝鮮の高麗王朝から「信(よしみ)を通わす使者」として派遣されたことに始まるといわれています。豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって、両国の国交は断絶しましたが、江戸時代になって再開されました。一般には「朝鮮通信使」といえば、江戸時代の李氏朝鮮からの使者を指すことが多いようです。外国との交流が制限されていた江戸時代には、朝鮮は琉球王国とともに正式な国交のある国とされていました。

海に面して建つリゾートホテルの”リマーニ”の前まで、バスで来た道を引き返します。

ホテルリマーニの前に、かもぼこ屋の中光商店があります。その前から見た光景です。右側の海岸沿いの通りは、引き返して来たバス道。左側に道幅のやや狭い通りがありますが、この道が、江戸時代の寛文から延宝年間にかけての時代(1661年~1680年)に、岡山藩によって整備された牛窓往来で、岡山城下町から商業の中心地牛窓まで、6里28町(約27km)を結んでいました。今は、この通りは「しおまち唐琴通り(以下「唐琴通り」)」と呼ばれています。海遊文化館でいただいたパンフには「牛窓町の東部に位置する町並みで、港町として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影を多く残しています」と書かれていました。関町までは、江戸時代の道幅のまま残っているそうです。

パンフに載っていたマップです。見えにくいのですが、緑で示された通りが唐琴通りです。マップの左(西)から右(東)に向かって歩きます。

唐琴通りに入ると、左側に「立正安国 王佛冥合」と刻まれた門があります。本蓮寺の参道です。その先に石段と山門が見えます。本蓮寺は山号は経王山。創建は正平2(1347)年。大覚大僧正(京都妙顕寺の住職)が、法華経信仰による仏堂、法華堂を創建したときに始まるといわれています。備前国で最初に建立された法華宗の寺院だともいわれています。

本堂に上っていく石段の途中から見た本蓮寺の書院(謁見の間)です。朝鮮通信使が宿泊したところだそうです。海遊文化館に展示されていた資料によれば、朝鮮通信使は、江戸時代を通して12回、来日し江戸をめざしていました。第3回(寛永元(1624)年来日)から、第6回(明暦元(1655)年来日)までの4回は、朝鮮通信使の中心的な役割を担う、正使・副使・従事官の三使が本蓮寺に宿泊していました。岡山藩が接待所として設けた御茶屋が完成した、第7回(天和2(1682)年来日)以降は御茶屋に宿泊するようになりました。本蓮寺境内は、朝鮮通信使の宿泊場所という役割を担っていた場所ということで、平成6(1994)年、国の史跡に指定されました。

書院の入口です。本蓮寺に宿泊した朝鮮通信使の人たちは、訪ねてくる地元の人たちと筆談で交流をしていたということです。また、本蓮寺には、朝鮮通信使が作った詩も残されており、寛永20(1643)年の第5回朝鮮通信使として宿泊した従事官の詩のレプリカが、書院に展示されていました。「寺は古さびて 僧侶もわずか (中略) 静寂そのもの 投宿した旅人は 万感こもごも 眠らずに夜半を過ぎ、蚊のうなり声だけが勢いよく やかましい」。直筆は、岡山県立博物館で保存されているそうです。 

山門を入って右に進み、本堂や三重塔の並ぶ高台に上る石段に向かいます。朝鮮通信使は、どんな旅をしていたのでしょうか。第9代将軍の位に就いた徳川家重の就任祝いのために来日した第10回朝鮮通信使(正使・副使・従事官以下475人)の一行は、寛延元(1748)年に、李氏朝鮮の都、漢陽を出発しました。漢陽から日本海側の港町釜山まで2ヶ月をかけて移動。釜山を2月16日に出発し、対馬の鰐浦に上陸、厳原から壱岐に向かいます。その後、現在の山口県の赤間関(下関)、西口浦(笠戸)、そして、鎌苅、竹原、忠海、鞆浦を経て、4月16日に日比(岡山県玉野市)に着いています。4月17日に日比を出た一行は、牛窓にその日のうちに到着しています。牛窓を出発したのは4月19日。室津、明石、兵庫を経て、大坂に上陸してからは、陸路、江戸をめざして進みました。そして、6月に将軍家重に謁見したといわれています。

そして、江戸からの帰帆の途中、牛窓に着いたのは7月9日。このときは、休憩をした後、その日のうちに牛窓を離れています。漢陽から出た朝鮮通信使は、江戸までを往復するのに最長で10ヶ月程度かかる、長い長い旅をしていたようです。石段を上って中門をくぐった左側に本堂がありました。明応元(1492)年の再建で、「室町調の端正な美しさを見せる」として、国の重要文化財に指定されています。また、くぐってきた中門も、本堂と同じ明応元年頃の建立とされ、国の重要文化財に指定されています。

写真は、海遊文化館の入口付近に展示されていた朝鮮通信使の服装です(許可を得て撮影しました)。「説明」には、「李氏朝鮮の上位の文官は、2羽の鶴を刺繍した衣服を着用し、下位の文官は1羽の鶴のみのものを、武官は虎を刺繍した衣服を着用していた」と書かれています。

中門から入った左側に本堂、正面に祖師堂がありました。本堂の並び、祖師堂の脇に、番神堂が設けられていました。説明では「法華経を守護する三十番神を祀った神堂」だそうです。番神堂に入る門が左に傾いています。一緒に見学していた団体の人も見入っておられました。

傾いた門を入ってすぐにわかりました。門の脇に、大きな楠の切り株が見えました。今は切られていましたが、この楠の根が門の片側を押し上げたため傾いてしまったようです。

江戸時代の中期につくられた覆屋(おおいや)の中に、写真の手前から東祠(とうし)、中祠(ちゅうし)、西祠(さいし)の三祠が祀られています。この三祠は室町時代後期の建築様式の祠だそうです。番神堂も、国の重要文化財に指定されています。

享保4(1719)年の第9回の朝鮮通信使では、通信使一行が通信使479人など総勢2,500人と65艘の船で到着しました。岡山藩からの役人542人と民間から徴発された252人が接待にあたりました。岡山藩から動員された船は合計943艘、それに関わる海民は3,855人。宿泊には、約200軒の町屋も提供されました。特に、通信使一行の宿に使われた町家に住む人は、来日から帰帆まで、数ヶ月に渡って自分の家に立ち寄ることができなかったといわれています。食料は1日分が米8石2斗余、酒2石7斗余、タバコ7貫余。これを6日分(帰帆時は5日分)準備したそうです。牛窓での滞在は1泊だけでしたが、岡山藩の負担は約3000両(現在の貨幣価値では3億円)だったといわれています。藩も町屋の人々も、接待する側の負担はとても重いものだったようです。

日韓両国に残る朝鮮通信使に関する文書や書物など333点は、平成29(2017)年10月31日(日本時間)、ユネスコの世界記憶遺産(「世界の記憶」)に登録されています。 国の史跡や重要文化財が並ぶ本蓮寺から、唐琴通りに下りて来ました。ここからは、江戸時代から昭和30年頃までの面影を残す通りを歩きます。海遊文化館の白い建物が右側に見えました。

海遊文化館の先を右に進みバス道に出ます。港の入口に設けられた一文字波止(いちもんじはと・パンフでは「波戸」を使っています)が見えました。元禄8(1695)年、当時の藩主、池田綱政が郡代の津田永忠に命じて築造させた、長さ373間(678m)高さ1間半(2.7m)の文字通りまっすぐで堅牢な波止めでした。近くの犬島の花崗岩を使って、わずか10ヶ月で完成させたといわれています。岡山藩の新田開発や土木事業に大きな功績を残した津田永忠は、自ら牛窓で朝鮮通信使の接待にあたったことがあり、海からの強い風を防ぐため、波止の必要性を強く感じており、綱政に築造を進言していたのだそうです。一文字波止が築造されてからは、牛窓には北前船も寄港するようになり、物資の集散地として発展して行きました。津田永忠が築造した波止は、平成4(1992)年から始まった改修工事の結果、現在のような姿に変わっています。

唐琴通りに戻り、先に進みます。左側に、白い洋風建築がありました。昭和10(1935)年の建築で、国の登録有形文化財に登録されています。昭和12(1937)年から、材木問屋を営んでいた人が特定郵便局を始めたそうです。現在は、”喫茶 牛転”になっています。「牛転」は「うしまろび」と読むそうです。伝承によれば、神功皇后が三韓征伐の途中、この地で、頭が8つある大牛の怪獣「塵輪鬼(じんりんき)」に襲われ、弓で射殺したそうです。その後、皇后一行が新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼になって再度襲って来たとき、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ倒したそうです。このような経緯で、この場所を「牛転(うしまろび)」といい、それが訛って牛窓になったということです。

その先、右側にあった大きな土蔵。上野家の「土倉」とパンフには書かれています。すぐ脇にある商家をしのぐ、3階建てといってもいい高さのある蔵でした。

土塀が続く道になりました。土塀の先に、材木問屋だった松屋の分家の長屋門がありました。江戸時代には、庶民は長屋門を建てることを禁じられていたため、明治になってから建てられたものです。入口には、屋久杉の柾目板が使われているそうです。門に架かっているのは「牛王本蓮寺寶印」で、新年にお寺から授与された護符だそうです。江戸時代には、沖合にある小豆島にキリシタンの拠点があったそうで、キリシタンではないという証明のために授与されていたともいわれています。今は魔除けのために使われているそうです。

長屋門の向かいにあった「牛窓まちかど交流プラザ 風まち亭」です。

岡崎家の長屋門です。江戸時代から材木問屋を営み、木造船の船材などを手広く扱っていた旧松屋本家の建物でした。明治時代になってから武家屋敷構えで建てられたそうです。

「見返りの塔」の案内です。「ここから見た本蓮寺三重塔がもっとも美しい」と書かれていました。

歩いてきた唐琴通りを振り返って見ました。商家の屋根の上に、本蓮寺の三重塔が見えました。地元の人のいわれるとおり美しい姿でした。

その先に、「潮風志る古」(しおかぜしるこ)と書かれた金属の看板がありました。写真は正面から撮影したそのお宅です。木造3階建ての建物ですが、今はどなたも居住しておられないようです。窓には、映画のポスターが貼り付けられています。パンフに「カンゾー先生 ロケ地跡」と書かれているところです。「映画カンゾー先生」は、患者を「肝臓炎」としか診断しないことからカンゾー先生と呼ばれるようになった医師と、彼を取り巻く人々を描いた喜劇映画で、カンヌ国際映画祭の特別招待作品。主人公には、今村昌平監督の父親の姿が投影されているといわれた作品でした。

前にあった、ミナトシネマのポスターと、石碑です。石碑には「映画 カンゾー先生 牛窓ロケ地 1997年 今村昌平監督作品」とありました。関町に入りました。通りの正面は、中庭と呼ばれている広場になっています。

ロケ地跡から、天神社に向かって上ります。天神社からの「眺めがいいよ」と聞いていたからです。前方の右側に、門柱がありました。

門柱があるところは「旧牛窓町役場跡」でした。現在は、関町コミュニティハウスになっています。

左側の建物の壁にあった看板です。古くから木造船の船大工の人々が居住していた牛窓らしい看板です。「和洋船舶用品店 木崎商店」とありました。

石段を上りきると、菅原道真を祀る天神社に着きます。扁額には「天満宮」と書かれています。九州に流される途中、この山に登り、遠く讃岐の山々を見て涙を流したと伝えられ、地元の人々が祠を建ててお祀りしてきたものです。約250年前に大宰府からご神体を勧請したそうです。拝殿の裏には、前方後円墳の牛窓天神古墳(全長85m)があります。牛窓にある5基の前方後円墳で最初に築造されたものだそうです。

菅原道真の歌碑が設置されているあたりから見た牛窓沖です。目の前には前島(写っていません)。写真の左側の「黒島」、その右が「中の小島」、その右が「端の小島」です。写真からは見えませんが、端の小島の右側に、「百尋魚礁」があるそうです。牛窓と前島を結ぶ前島フェリーの”第7からこと”が牛窓港に入港中です。  先に、牛窓の地名は「うしまろび」に由来するとして、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼になって襲ってきたとき、住吉明神が牛鬼を投げ倒したことに由来すると書きましたが、その時に滅びた牛鬼の身体が、牛窓の島になったという伝説も残っています。頭の部分が黄島に、胴体の前の部分が前島に、胴体の後ろの部分が青島に、お尻の部分が黒島になったという伝説です。

江戸時代に朝鮮通信使が寄港した牛窓の町を、本蓮寺から関町まで、「しおまち唐琴通り」に沿って歩いて来ました。
次回は、関町から東町まで歩くことにしています。







因美線の栄光の時代を伝える、JR美作加茂駅

2019年02月27日 | 日記

JR因美線の美作加茂駅です。因美線は、津山駅から智頭駅をつなぐ単行気動車が走るローカル路線になっていますが、かつては、津山線とともに、山陽(岡山駅)と山陰(鳥取駅)を結ぶ陰陽連のメインルートとして”急行 砂丘”も走る鉄道でした。平成6(1994)年に、山陽本線の上郡駅と智頭駅をむすぶ第三セクターの智頭急行が開業し、平成9(1997)年に、岡山駅から鳥取駅に向かう”特急スーパーいなば”が智頭急行線を走るようになって、ローカル鉄道に変わってしまいました。
JR土師駅を訪ねた日、かつて、”急行砂丘”の停車駅だった美作加茂駅を訪ねてきました。

土師駅を出発した列車は30分程度で、2面2線の美作加茂駅のホームに入りました。因美線は、大正8(1919)年、因美軽便線として鳥取駅・用瀬(もちがせ)駅間が開業したのに始まります。その後、鳥取駅から南に、津山駅から北に延伸し、全線が開業したのは、昭和7(1932)年に、智頭駅と美作河井駅間が開業したときでした。この年、因美線と改称しています。

進行方向左側、津山駅行きの列車が停車する1番ホームに到着しました。ここで、私を含めて2名の乗客が下車しました。美作加茂駅は、昭和3(1928)年3月15日、因美線が、津山駅からここまで延伸してきたときに、東津山駅、高野駅、美作滝尾駅とともに開業しました。3年後に、美作河井駅まで延伸開業するまで、終着駅となっていました。

下車した1番ホームから津山方面を見ます。ホームの左側に側線の車止めが見えます。ホームの先の側線には、作業車に雪を除ける設備をつけたようなラッセル車が停車していました。美作加茂駅を訪ねた前日は、降雪のため、列車ダイヤが乱れた一日でした。ラッセル車の出番もあったのかもしれません。

側線の車止めの辺りから見たラッセル車のいる側線です。側線の左側にホームが見えます。かつて、貨物の積み下ろしに使われていたところです。

下車したホームの向かい側、2番ホームの待合室のガラスには、「祝因美線開業90周年おめでとう!」という掲示物と、公郷(くごう)保育所の園児の塗った電車の塗り絵が展示されていました。大正8(1919)年12月に鳥取駅・用瀬駅間が開業した因美線は、平成30(2018)年に、開業90周年を迎えています。

美作加茂駅は、三浦駅から3.5km、知和まで3.8kmのところ、津山市加茂町桑原にあります。平成の大合併で津山市になるまでは、岡山県苫田郡加茂町にあった駅でした。美作加茂駅が開業してからは、この地で産出する木材、木炭、米や柿などが鉄道輸送に転換し、駅周辺に町並みが形づくられていったといわれています。

一番ホームから智頭駅側に向かって見た駅舎です。こちら側から見ると、昔なつかしい駅舎といった印象です。現在のモダンな駅のイメージが一変します。

ホームの先の風景です。中国山地の中央に位置しており、四方を山に囲まれた自然豊かな地域です。中国山地に数多くある、古くから”たたら製鉄”で栄えてきたところの一つです。

1番ホームを鳥取駅方面に向かって歩きます。智頭駅方面に向かう列車が停車する2番ホームに向かう人のための構内踏切が、設置されていました。踏切に降りる石段に並んでスロープもつくられていました。

ホームの鳥取方面の端から見た構内踏切と2番ホームの光景です。

2番ホームの木造の待合室です。線路寄りの窓には、先ほど見えた「祝 因美線開通90周年おめでとう!」の掲示があります。

待合室の内部です。造り付けのベンチがあるだけのシンプルなつくりです。きれいに掃除がなされていました。

構内踏切から見た1番ホームです。駅名表の向こうに駅舎が見えます。中央のドームが美しい駅舎です。現在の駅舎に改築されたのは、平成15(2003)年6月のことでした。

構内踏切から1番ホームに戻ります。石段とスロープが並んでいます。

1番ホームの待合いのスペースです。駅舎は改築されましたが、ホーム側はかつての姿をよく残しているといわれています。造り付けのベンチと下見板張りの壁面に写真や掲示物が並んでいます。いずれも、因美線関係の資料です。

改札から駅舎に入ります。美作加茂駅は、津山駅・智頭駅間では、唯一の簡易委託駅になっています。

改札から駅舎内に入ります。木の香りのするような駅舎です。壁面から天井にかけて、掲示物がぎっしり並んでいます。ベンチの後ろにはトイレがあります。

こちらは、改札から見た右側の駅事務所です。美作加茂駅は、窓口業務だけを委託する簡易委託駅です。駅舎内に職員の勤務時間が掲示されていました。「平日、土曜、祝日の午前6:30~午前9:30 午後3:00~午後6:00」だそうです。残念ながら、この時間は、勤務時間外、窓口は閉まったままで職員の方は勤務されていませんでした。

駅舎内にあった時刻表。智頭駅方面行きの列車の出発時間を見に来られた地元の方が、「ひゃー」といって出て行かれました。智頭方面行きの列車は1日7本運行されています。次の智頭行きの列車は15時08分発。1時間20分ほど先になります。最もインターバルが長いのは、7時14分発とその次の12時04分発の間で、約5時間ありました。

駅舎内に展示されていた新聞記事です。平成30(2018)年3月15日は、因美線開業90周年にあたっていました。この日、「因美線を元気にする会」の人たちを中心に行われた、記念行事の模様が報道されていました。「駅舎やホームには、因美線開業90周年を祝う掲示がなされ、美作加茂駅発13時34分の列車の運転士さんに花束が贈られた」と記事には書かれていました。

駅舎内に掲示されていた、”急行砂丘”の写真です。このほか、因美線の開業までの経緯や、蒸気機関車(SL)の写真などたくさんの展示物が因美線を愛する人々によってつくられていました。

その中に、かつての美作加茂駅の駅舎の写真もありました。

駅から外へ出ました。現在の駅舎です。美作加茂駅の周辺は、中国山地の木材の山地で、製材工場も多いところです。思わず引き込まれてしまう美しい木造駅舎の姿です。駅舎の雰囲気にあわせて、丸いポストが設置されたそうです。

駅舎前にあった「鐵道70周年記念 發起者 美作加茂駅長 中安梅蔵」と刻まれた、「鉄道70周年の石碑」がありました。「昭和17(1942)年10月14日建立」と刻まれています。昭和17年が70周年といえば、明治5(1972)年。明治5(1872)年9月12日、新橋・横浜間(29km)に、日本で初めて鉄道が敷設されたことを記念する石碑のようです。

駅舎の入口付近にあった駅周辺の地図です。駅舎のある加茂町桑原地区の隣に、「90周年記念」の塗り絵を描いた保育所がある公郷(くごう)地区があります。公郷地区の人々の氏神様、加茂神社が書かれていました。地図に「秋草双雀鏡」とも書かれています。加茂町指定の文化財、第1号に指定された文化財で、平安時代の青銅鏡です。加茂神社を訪ねてみることにしました。

加茂神社への道がわかりません。通りがかった人にお尋ねすると、「駅前の通りを右に100メートルぐらい進むと案内標識がありますから左に入ったら行けますよ」とのこと。すぐに製材工場がありました。さすがに、昔からの木材の町だと思いました。

先に進みます。続いて、右側にもう一つの製材工場。左側の「藤の木公会堂」を過ぎると、カーブミラーに案内標識「加茂神社 → 」がありました。美作加茂駅方面に向かってつくられています。この小さい交差点を右に折れると20メートルぐらいのところに、藤の木第3踏切にがあります。

反対側の左に折れて進みます。ここから、道なりに20分ぐらい進んでいくと、川沿いの道になりその先で右折して川を渡ると、正面の山に向かって上ることになります。右側の「圃場整備完成碑」を過ぎると正面に鳥居が見えました。

加茂神社の鳥居です。加茂神社はもとは杉大明神といわれていたそうです。加茂神社に改称されたのは、明治6(1873)年。そして、明治15(1882)年に文化財第1号の「秋草双雀鏡」が裏山から発掘されたそうです。石段を上がり鳥居の下をくぐりさらに上ります。

山の中腹にあった加茂神社の拝殿と本殿です。神社の下に公郷保育所、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきました。


平成15(2013)年6月に改築が終わり、JR美作加茂駅は、木造のモダンな駅舎に生まれ変わりました。
駅舎内は、地元の人々の記憶の中にある因美線の展示館になっていました。陰陽連絡路線のメインルートとして輝いていた栄光の時代の因美線に触れることができたJR美作加茂駅の旅でした。

JR因美線土師駅に行ってきました

2019年02月16日 | 日記

これは、JR因美線の美作加茂駅の駅舎に飾ってあった急行”砂丘”の写真です。山陽本線の岡山駅と山陰本線の鳥取駅間を結んでいる津山線・因美線を走っていた花形列車でした。平成6(1994)年に智頭急行が開業するまで、津山線・因美線は山陽と山陰を結ぶメインルートでした。

津山線から因美線への乗り継ぎ駅である津山駅にあった運賃表の一部です。この日使用したきっぷは、JR西日本岡山支社管内の一日乗り放題きっぷである「吉備之国 くまなくおでかけパス」でした。乗り放題ができるのは岡山支社管内だけであり、津山線・因美線では、土師(はじ)駅まで使用できます。そんな理由で、土師駅を訪ねてみることにしました。因美線から感じる山間のローカル線の雰囲気に惹かれ、美作滝尾駅(「JR因美線の登録有形文化財の駅、JR美作滝尾駅」2011年5月14日の日記)、知和駅(「JR因美線の秘境駅、知和駅」2014年4月24日の日記)、美作河井駅(「転車台が出てきた岡山県境の駅、JR美作河井駅」2012年7月13日の日記)、那岐駅(「改札口から続く急な階段のある駅、JR那岐駅」2017年10月27日の日記)は、すでに訪ねて来ました。

津山駅発の因美線の時刻表です。鳥取駅まで直通する列車はなく、智頭駅行きの列車が7本、美作加茂駅行きの列車が3本設定されています。この日は、11時35分発の列車に乗車しました。早朝の6時42分発の列車から約5時間後に発車する、次の列車でした。

因美線の列車が発着する1番ホームに、智頭駅行きの列車が入線してきました。キハ120330号車、単行のワンマン運転のデーィゼルカーです。因美線は、大正8(1919)年に鳥取駅と用瀬駅間が、因美軽便線として開通したことに始まります。その後、因美線と改称され、大正12(1923)年には智頭駅まで延伸しました。そして、昭和3(1928)年には因美北線に改称されました。一方、津山駅側からは、昭和3(1928)年に因美南線として美作加茂駅までが開業し、昭和6(1931)年には美作河井駅まで延伸しました。 津山駅で6人の方が乗車されて、智頭駅行きのワンマン列車が出発しました。

因美線で最長の物見トンネル(3077m)が近づいて来ました。岡山県と鳥取県の県境にあるトンネルで、抜けると鳥取県。鳥取県の最初の駅、那岐駅に向かって進みます。 智頭駅まで開業していた因美北線は、昭和7(1932)年、智頭駅からさらに美作河井駅まで延伸し、因美線は全通することになりました。このとき、那岐駅とめざす土師駅とが開業しました。因美北線は、全通すると因美南線を吸収し、全線を因美線に再度改称しました。

乗客は10人ぐらいになっていました。やがて、右側に1面1線の土師駅が見えてきました。津山駅から約1時間ぐらいで土師駅に到着しました。

土師駅は、鳥取県八頭郡智頭町三吉にあります。那岐駅から2.9km、次の智頭駅まで3.7kmのところにありました。

「吉備之国 くまなくおでかけパス」を運転士さんに見せて下車しました。下車したのは1人だけで、列車はすぐに、次の終着駅智頭駅に向かって出発していきました。

智頭駅方面に向かってホームを歩きます。駅名標の脇には、近くの民家が接しています。土師駅は、昭和7(1932)年に、智頭駅から美作河井駅間が開業したときに開業しました。土師駅は、当時の鳥取県八頭郡土師村の最寄駅として設置された駅で、開業当初から1面1線の駅だったようです。

民家とホームの境には清水が流れる小さな川があります。その先は民家の下に入って行くようです。

ホームの智頭駅側から見た那岐駅方面です。越えてきた中国山地が遠くに見えます。

ホームへの入口付近にあった枕木の柵です。かつての駅にはおなじみの光景ですが、最近は都市の駅からは消えてしまいました。土師駅に残っていた懐かしい光景です。

ホームの真ん中あたりに、老朽化した駅舎が解体された後につくられた、待合室がありました。ホームへの入口と、駅前広場が見えます。

待合室の内部です。両側に4脚のベンチが置かれ、時刻表と運賃表が掲示してあるだけの簡素なつくりでした。地元の方のご尽力でしょう、プランターに植えられていたお花が、潤いを与えてくれていました。

ホームの那岐駅寄りの先端です。切り欠きのホームの先に、レール跡の名残りが残っていました。八頭郡土師村は、明治36(1903)年に旧八頭郡中田村が「土師村」と改称されて生まれました。伝統的に林業が盛んな地域だったようです。

特産の木材の積み出し駅だった頃には、ここで貨車への積み下ろしが行われていたそうです。ホームに上がる石段も残っていました。

待合室の脇から駅前広場に出ます。八頭郡土師村は、その後、昭和10(1935)年に同じ八頭郡の山形村、那岐村とともに智頭町に編入され、八頭郡智頭町の一部になりました。

駅前の那岐寄りにつくられていた自転車の駐輪場です。広い敷地がかつての繁栄の様子を伝えてくれています。

駅前の通りです。岡山県津山市に向かう備前街道の津山方面です。土師駅の東には「埴師」という地名が残っています。「土師」という地名は「はにし」が変化したもので、古代に、土器や埴輪の製作をしていた人々が居住していたところに多く分布しています。古くから開けた、長い歴史のある地域だったと思われます。

駅の外側から駅舎跡を撮影しました。待合室が小さく見えています。

因美線の智頭駅方面の集落です。その脇を因美線の線路が北に向かって延びていました。

中国山地を越えた鳥取県にある土師駅を訪ねて来ました。この日は、帰りに美作加茂駅も訪ねることにしていましたので、土師駅での滞在は、乗車してきた列車が、智頭駅から折り返してくるまでの30分余りの短い時間でした。もっと見どころがあったのに見落としてしまったかもわかりませんが、中国山地の山間の農山村の雰囲気を味わうことができました。



地球儀を模した交流館がある駅、JR社町駅

2019年02月07日 | 日記

地球儀を模したといわれる丸い屋根の建物が、駅舎に接して建っています。この駅は、JR加古川線の社町駅(やしろちょうえき)。ドーム状の建物は「交流ふれあい館」と呼ばれており、待合室としても使われています。

この日は社町駅を訪ねるため、JR加古川駅の5番ホームに向かいました。ホームでは、西脇市駅行きのワンマン運転の単行列車(クモハ125ー9)が出発を待っていました。JR西日本で初めての単行運転ができる新造車として、平成15(2003)年小浜線が電化された時に、デビューした、125系電車でした。

乗車した125系電車の内部です。座席の配置が2列と1列で、広い通路が確保されています。加古川線が電化されたのは、平成16(2004)年12月のことでした。平成7(1995)年に起きた阪神・淡路大震災で大きなダメージを受けたJR神戸線(山陽本線)の迂回路線として、その重要性が再認識されたことによる電化でした。電化のための事業費は65億円。45億円をJR西日本と兵庫県、周辺の自治体が負担し、残る15億円は周辺地域の人々の募金など民間で負担したといわれています。

神戸高速と北条鉄道が分岐する粟生(あお)駅から西河合駅、青野ヶ原駅と停車してきた列車は、加古川駅から40分ぐらいで、社町駅に到着し、駅舎の向かい側の下りホームに停車しました。前の駅である青野ヶ原駅から2.9km、次の滝野駅まで3.1kmのところにありました。

列車は次の滝野駅に向かって出発していきました。列車が通過すると、下車した乗客は西脇駅方面にある構内踏切を渡り、駅舎に向かって移動して行きました。社町駅は、兵庫県加東市滝野町河高にあります。加東市は、平成28(1016)年に、旧加東郡の社町、滝野町、東条町が合併して成立しました。駅名は、合併で消滅した加東郡社町からつけられていますが、駅舎は、旧加東郡滝野町の中に設置されています。

下りホームの加古川駅寄りから見たホームの全景です。2面2線のホームが見えました。下車した下りホームには西脇市駅方面行きの列車が、駅舎寄りの上りホームには加古川駅方面行きの列車が停車することになっています。駅舎側の線路はまっすぐホームを抜けていますが、いわゆる”1線スルー”の構造にはなっていないようです。右側の上りホームの上屋の向こうにドーム状の屋根が見えました。

西脇市駅方面に向かって下りホームを歩きます。駅名標の先に2ヶ所に分かれた待合いスペースがありました。それぞれ3脚のベンチが設置されています。社町駅は、大正2(1913)年播州鉄道によって国包駅(くにかねえき・現在の厄神駅)と西脇駅間が開業した時に、「社口駅」として開業しました。そして、大正5(1916)年11月に「幡鉄社駅」と改称されました。

大正12(1923)年には路線が播丹鉄道に譲渡され、播丹鉄道の駅になりました。下車した乗客が渡った構内踏切です。その10メートルぐらい先には社踏切がありました。

現在の「社町駅」に改称されたのは、昭和18(1943)年、幡丹鉄道が国有化され国有鉄道加古川線の駅になったときでした。構内踏切の途中から見た上りホームです。ホームのすぐ後ろに交流ふれあい館が見えます。

上りホームを駅舎に向かって歩きます。下りほームと同じように3脚のベンチが置かれていました。社町駅が無人駅になったのは、国鉄分割民営化後の平成2(1990)年10月1日のことでした。

改札口前には、高齢者や障害のある人のためにバリアフリーの通路も整備されていました。社町駅舎が現在の建物になったのは、平成16(2004)年の電化に伴って、開業時から使われてきた旧駅舎が改築されたときでした。

駅舎を抜けた後、ホームに向かって撮影しました。自動改札機の左側にはトイレ、右側の壁には時刻表が、手前には運賃表と自動券売機がありました。

自動券売機の右側です。交流ふれあい館の入口です。「国立大学法人 兵庫教育大学 地域交流コーナー 交流ふれあい館」と書かれていました。近くの方に「大学の施設なのですか」とお尋ねしたのですが、地元の方ではなく出張中ということで、はっきりとはわかりませんでした。電化の際に、駅舎が改築されたといわれており、兵庫教育大学も協力されたのでしょう。

交流ふれあい館の内部です。エアコン付きで様々な展示物がありました。駅の待合室も兼ねていますが、多くの駅舎の待合室とは異なった雰囲気が漂っていました。

ドーム状の屋根を支える工法は「KT木トラス」といわれています。写真はトラスの接合部です。接合部にあるスプリングのボルトを引き込ませた状態で穴の中に入れ、外側から回してネジを穴の中に入れていく接合により、強く美しい空間構造を創り出しているといわれています。

駅舎前に出ました。小さな駅舎に比べ、地球儀を模した交流ふれあい館は迫力十分でした。


「社町駅」の名前は、合併によって消滅した旧加東郡社町に由来していました。「社町」は、佐保神社の門前町として繁栄してきた、文字通り「社のある町」でした。佐保神社は、社駅から3kmぐらい離れた社町の中心地に鎮座しています。佐保神社をめざして歩くことにしました。

社町駅前からまっすぐ社町の中心地に向かって歩きます。福田橋で加古川を渡りました。JR加古川線では、社町駅だけでなく、どの駅も町の中心地から遠く離れた、加古川に近いところに設けられています。鉄道の開通以前は、加古川を上下する舟運によって物資の輸送が行われており、加古川線を開業させた播州鉄道は、加古川を利用した船による輸送を引き継ぐことを目的に、鉄道の路線を開設し、水運の拠点があったところに駅を設置したからでした。

福田橋から見た加古川の上流側です。右側に見えるのは、”JAみのり カントリーエレベーター”の建物です。

こちらは下流側です。かつては、荷物を満載した多くの船が行き交っていたはずです。福田橋からさらに進みます。

福田橋から続く道路の向こうから神姫バスの定期バスがやっていました。左に分岐する道がありました。バスが走る道路の旧道だと思いました。佐保神社の縁のものがあるのではないか思い、旧道を進むことにしました。

左側に鳥居がありました。扁額には「佐保社」と書かれていました。佐保神社に縁のある鳥居でした。通りの左側にありましたので、保存するために移設されたのでしょう。佐保神社は延喜式神明帳にある「坂合神社」とされている式内社で、第11代垂仁天皇の時代の創建とされています。この地に移ってきたのは養老6(722)年。戦国期に荒廃していましたが、江戸時代に入り姫路藩主池田輝政の祈願所となり復興したといわれています。「坂合神社」から「佐加穂神社」に、そして現在の「佐保神社」に、神社名が変わってきたそうです。

佐保神社は、鎌倉時代に朝廷や幕府の崇敬を集め、八丁四方に「内の鳥居」、一里四方に「外の鳥居」を造営したといわれています。その中の「酉の内の鳥居」は、今もこのあたりの集落の地名(「鳥居」)として残っているそうです。しかし、この鳥居には「文化六年」と刻まれていました。江戸時代に再建されたもののようです。

傍らにあった石標には、「本社江八丁」と刻まれていました。さらに、先に進みます。

国道175号の交差点に着きましたが、横断歩道がありません。左に迂回して、「社総合庁舎前」の交差点で、定期バスが走っていた新道に合流しました。

交差点を左折して進みます。左側の動物病院の先で、旧道と合流します。

県道567号と交差する社交差点です。「佐保神社」の案内標識が見えました。

標識の先を左折して、佐保神社の参道に入ります。瑞神(ずいしん)門です。入母屋造りの銅板葺き、桁行5.8m、梁間8.5m、高さ10.5mあるそうです。江戸時代後期の建築で、加東市指定の文化財になっています。

瑞神(ずいしん)門から境内に入ります。能舞台の先にあった入母屋造りの拝殿と、神社建築に多い流造り、銅板葺きの本殿です。本殿の向かって右の東殿には天照大神、中央の中殿には、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、左の西殿には大己貴命(おおなむちのみこと)がそれぞれ祀られているそうです。

待合室としても使われている、地球儀を模したドーム形の交流ふれあい館のあるJR社町駅を訪ねてきました。駅舎は滝野町にありますが、加古川の舟運の基点として、また、佐保神社の門前町として栄えてきた社町の玄関口としての役割を果たしている駅でもありました。



青春18きっぷのポスターの駅、JR小歩危駅

2019年01月31日 | 日記

「小歩危(こぼけ)」の駅名標とその後ろにある断崖を撮影しました。このアングルから広角に撮影した写真に、「『歩くと危ない』という名は、山が険しいからでしょうか。渓谷に見とれてしまうからでしょうか。」というコピーが添えられた青春18きっぷのポスターが、平成29(2017)年の夏に、全国のJRの駅に掲示されました。このポスターに使用されたのは、JR土讃線の小歩危(こぼけ)駅でした。

大歩危(おおぼけ)・小歩危とよばれる吉野川がつくった美しい渓谷の中にある小歩危駅を訪ねるために、JR阿波池田駅で、土讃線の高知行き、ワンマン運転の普通列車に乗り継ぎました。単行の気動車(1014号車)は、定時に出発しました。

阿波池田駅を出て、三縄駅を過ぎると、次は、以前訪ねたログハウスの待合室があるJR祖谷口駅(「ログハウスの待合室がある駅 JR祖谷口駅」2019年1月17日の日記)です。

次は、以前訪ねた「狸の駅舎」で知られる阿波川口駅(「やましろ狸が迎える駅、JR阿波川口駅」2019年1月11日の日記)に停車。阿波川口駅を出発すると、すぐに銅山川に架かる伊予川橋梁を渡ります。

銅山川は愛媛県四国中央市から、ここまで東(右から左)に向かって流れて来ましたが、伊予川橋梁の左側付近で吉野川に合流します。その後、三好市池田町付近で、東に流れを変え徳島市に向かって流れて行きます。伊予川橋梁の先には山城谷トンネル(2,178m  昭和25=1950年1月4日開通)の入口が見えます。土讃線は、このトンネルが完成するまでは、左側の吉野川に沿って小歩危駅へ向かっていました。土讃線の阿波池田駅から土佐山田駅間は、豪雨による土砂崩れや地滑りなどの被害をたびたび受けてきたため、トンネルの掘削によってルートの変更が行われたところです。山城谷トンネルはその先駆けになったトンネルでした。

山城谷トンネルからは大小6つのトンネルを抜けて進んで行きます。最後の「第2小歩危トンネル」を抜けると小歩危駅のホームが見えました。阿波池田駅から20分ぐらいで、列車は、左側の1番ホームに停車しました。小歩危駅は徳島県三好市山城町西宇(にしう)に設置されています。阿波川口駅から4.7km、次の大歩危駅まで5.7kmのところにありました。

私が下車すると、列車は、次の大歩危駅に向けて出発して行きました。小歩危駅は、昭和10(1935)年、三縄駅と豊永駅間が開業し、起点である多度津駅と窪川駅間がつながったときに、「西宇駅」として開業しました。現在の「小歩危駅」と改名したのは昭和25(1950)年10月1日のことでした

下車した1番ホームから見たホームの全景です。相対式、2面2線のホームでしたが、駅名標があるだけの簡素なつくりでした。2番ホームの後ろの急斜面に数戸の民家がありました。対面する2番ホームへは、大歩危駅方面の端にある構内踏切で移動するようになっています。しかし、実際には、この駅に停車する普通列車は上りも下りも1番ホームに停車することになっています。

小歩危駅に滞在中に、高知行きの特急”南風”が2番ホームを通過していきました。通過列車は2番ホームを上り下りともに使用する一線スルーの構造になっています。

1番ホームから見た小歩危駅の阿波川口駅方面の光景です。土讃線に沿って走っているのは国道32号(徳島北街道)。道路沿いの民家の右側には吉野川の深い渓谷があります。

”WELCOME JR小歩危駅”という看板があるJR小歩危駅の駅舎です。駅舎は改修されていますが、昭和10(1935)年の開業時の木造駅舎だといわれています。

ホームから駅舎に入ります。小歩危駅は、昭和45(1970)年から無人駅になっています。ベンチが1脚置かれただけのシンプルな駅舎です。

駅舎内にあった時刻表です。近くに、平成31(2019)年3月16日のダイヤ改正で「6時20分発の大歩危・高知方面行きの下り列車
は廃止されます」という掲示がありました。阿波池田駅から高知方面に向かう普通列車は、昨年(平成30年)3月17日のダイヤ改正で、阿波池田駅を9時31分に出発する列車が廃止されました。そのため、阿波池田駅を7時20分に出発する列車の次は、11時57分発の列車まで無く、特急列車が通過する駅に行くにはすごく不便になりました。この3月に、さらに1本が廃止されると、地域間輸送は、さらに不便になっていくのではないでしょうか。

駅舎からの出口は、左側にあるトイレの脇を左に進んだところにあります。

駅舎から外へ出ました。大歩危駅方面に進みます。構内踏切がありました。上り列車に乗車する人はここから「上りホーム」に向かうようになっています。

その先の光景です。幾重にも続く四国山地の山々を背景に国道や土讃線の線路が続いているのが見えます。踏切に向かう道も見えます。

右に向かって行くとその先に小歩危踏切がありました。踏切の先は、急峻な断崖の上の集落に向かう道が続いています。

駅舎に帰って来ました。駅舎の脇を抜けて国道に下りることにしました。国道沿いの民家がずいぶん下に見えます。

駅舎の阿波川口駅方面の階段から国道に下りました。下ってきた急な階段をふり返って撮影しました。想像以上の高い所に駅舎があります。断崖を削って線路や駅舎を設置したことがよくわかります。

阿波川口駅方面に向かって国道を歩きます。右側に、現在は閉店していますが、「鮎 あめご 姿寿し料理」と書かれた看板のあるお店がありました。かつては、大歩危・小歩危の渓谷を訪ねる観光客が立ち寄っていたことでしょう。

その先に土讃線のトンネルがありました。小歩危駅に到着する直前に抜けてきた、第2小歩危トンネル(全長62m)でした。

小歩危駅に戻ってきました。小歩危駅に来たらどうしても見て帰りたい風景がありました。大歩危駅方面に向かって歩きます。右側の崖の上を土讃線が走っています。

国道の左側に、吊り橋の支柱が見えました。その脇に「赤川橋」の石標と「赤川庄八翁顕彰碑」がありました。以前訪ねた土讃線祖谷口駅でも、この人の顕彰碑を見たことを思い出しました。

以前訪ねた祖谷口駅付近で吉野川を渡る大川橋です。土讃線が開通する前、祖谷口駅の地元、当時の三好郡山城谷村、三縄村、東祖谷村、西祖谷村の人たちにとって、祖谷口駅を誘致することは悲願ともいうべきものでした。駅の設置を陳情した鉄道省からの回答は「吉野川に架橋することを条件に駅の設置を許可する」というものでした。このとき「地元の林業家、赤川庄八翁が個人で5万8千円をかけて架橋し、昭和10(1935)年、土讃線祖谷口駅が開業したとき、同時に大川橋も開通しました。2代目赤川庄八翁は、大川橋を池田町に寄付し町道になりました」(顕彰碑)。

ここ赤川橋の脇の顕彰碑には、「赤川庄八翁は文久2(1862)年、川崎(現、三好市池田町川崎)生まれ。明治14(1881)年酒造業を創業し、その利益で、明治32(1899)年から国見山で林業を始めた」、「大正12(1923)年には、国見山造林橋を架橋し」、「昭和43(1968)年には、西宇地区の人々に飲料水を提供するため、簡易水道を設置する用地を提供し」、「平成17(2005)年、造林橋と林道を山城町に寄付された」と書かれていました。「人のために尽くすことに厚い」(顕彰碑)人だったそうです。

赤川橋がある辺りの吉野川には、小歩危峡と呼ばれている美しい渓谷が続いています。「ほけ」「ほき」という言葉は、「渓流に臨む断崖」を表しています。「崩壊(ほけ)」とも書くそうです。「ほけ」に「歩危」という字をあてはめたのは、明治6(1873)年の地租改正の際に、当時の三名村(昭和61=1956年9月30日に山城谷村と合併して山城町となりました)が「小歩危」と標記したのが始まりだったようです。そして、これに合わせて、後に、「大歩危」とも標記されるようになったそうです。

小歩危駅から20分ぐらいで、三好林業センターの建物の脇を通過しました。

林業センターの先で、国道32号は大きく右にカーブします。まっすぐ坂を上っていく道との分岐点になっています。

国道を右にカーブして歩きます。その先で、土讃線の線路の下をくぐります。

その先に「ここから 剣山国定公園 大歩危峡」の標識がありました。吉野川は、小歩危峡から大歩危峡に入ったようです。

少し先まで歩いて振り返って撮影しました。これが見たかった景色です。土讃線の第二吉野川橋梁でした。第二吉野川橋梁は、大歩危駅・小歩危駅間で唯一の橋梁でした。昭和10(1935)年、土讃線の三縄駅・土佐山田駅間が開業したときに開通しました。中央部の雄大な曲弦ワーレントラス(78メートル)と9基のプレートガーターをつなげた全長250メートルの橋梁です。それを支える橋脚は、最高30メートルの長さだそうです。美しい渓谷と調和した優美な姿の橋梁でした。

国道32号の先には、大歩危洞門の入口がありました。ここから引き返します。来るときに国道が右カーブした地点まで戻りました。

そこから坂を上がりきったところが、温泉施設「サンバリー大歩危」の広い駐車場でした。そして、正面に第二吉野川橋梁の優美な姿が見えました。そこで思い浮かんだのが、第一吉野川橋梁でした。第一吉野川橋梁(全長170メートル)は、土讃線の箸蔵駅と佃駅の間の吉野川に架かっています。第一、第二の二つの吉野川橋梁は、同じ昭和10(1935)年に架橋されており、中央部の曲弦トラス(78m)の前後にプレートガーターをつなげた、同じ構造になっています。中央部の曲弦トラスは、どちらも同じ川崎造船製で長さも重さも同じなのだそうです。ちなみに、JR高松駅とJR徳島駅を結ぶ高徳線には「吉野川橋梁」が架かっています。

青春18きっぷのポスターに使われた駅だからと訪ねたJR小歩危駅でしたが、木造駅舎があるだけのシンプルなつくりの駅でした。大歩危機駅との間で吉野川を渡る第二吉野川橋梁の優美な姿が印象に残った、JR小歩危駅への旅でした。




レトロな駅舎が撤去されていた! JR須波駅

2019年01月25日 | 日記
レトロな駅舎が郷愁を誘うJR呉線の須波(すなみ)駅を、いつか訪ねてみたいと、ずっと思っていました。

呉線は、平成30(2018)年7月に起きた西日本豪雨で甚大な被害を受け、全線不通になりましたが、「完全ではないが、12月15日に復旧した」とお聞きして、訪ねてみることにしました。呉線の東側の起点であるJR山陽本線の三原駅からスタートしました。ホームに、広駅行きのワンマン運転の2両編成、105系の電車が待っていました。

須波駅は三原駅の次の駅で、三原市須波町にあります。三原駅から5.1km、次の安芸幸崎(あきさいざき)駅まで6.7kmのところにありました。

須波駅の駅舎は進行方向の左(瀬戸内海)側にあるといわれてきました。列車が須波駅に入ってから停車するまで、駅舎の姿を見ることはできませんでした。駅舎は、すでに撤去されていたからです。これは、下車後にホームから撮影した写真ですが、新しい舗装の跡が見えました。ここが駅舎跡だと確信しました。駅舎を見るためにやって来たので、がっくりでした。もっと早く訪ねていればと後悔しました。

2面2線の長いホームの広駅寄りに、列車は停車しました。運転士さんに切符をお渡しして下車しました。ホームの裏に、標高311メートルの筆影(ふでかげ)山の優美な姿が見えました。

山側のホームにあった「名所案内」です。「筆影山」の説明でした。「瀬戸内海国立公園 ふでかげやま ハイキングに好適 北4km 徒歩1時間」とありました。須波駅は、平成16(2004)年春の「青春18きっぷ」のポスターに載っていました。山の上から呉線と瀬戸内海を撮影した写真の中に書かれていた「√a=18 旅路(ルート)のなかでは 人はいつも18(age)である」というコピーが印象に残っています。筆影山から撮影した写真だったのではないでしょうか。

列車は、次の安芸幸崎駅に向けて出発していきました。呉線は、軍港の呉と軍都の広島を結ぶために、明治36(1903)年に、海田市(かいたいち)駅・呉駅間が開業したことに始まります。その後、東に向かって延伸していきました。駅構内を歩いてみることにしました。

向かいのホームにあった自動改札です。山側の上りホームへは、構内踏切ではなく、別の入り口から上がるようです。須波駅が開業したのは、昭和5(1930)年、三原駅・須波駅間が三呉線として開業したときでした。そして、東側の起点である三原駅と、海田市駅間が全通したのは、昭和10(1935)年のことでした。このときに呉線と改称しています。

三原駅側に進むとすぐにホームに使用済み切符の回収箱がありました。そこから下りる通りがありました。

その先に現在は使用されていない貨物用の側線とホームが残っていました。駅舎跡の手前まで線路が延びています。須波駅での貨物の取り扱いが終わったのは、昭和35(1960)年でした。現在も、使われることなく残っていました。

さらに下ると、右に向かって下っていく階段があり、下りきると右側に呉線のアンダークロスがありました。

アンダークロスをくぐると右側に階段があります。これが上りホームへの入口でした。そこに自動改札があります。須波駅は、昭和45(1970)年10月1日から無人駅化され、切符の販売のみを団体や個人に委託する「簡易委託駅」になりました。そして、簡易委託も終了し、完全に無人化されたのは、平成24(2012)年12月からでした。

上りホームにあった待合室です。内部は、6席のベンチが置かれているだけのシンプルなつくりになっていました。

下車した下りホームに戻ってきました。三原駅側に向かって進みます。駅名標が設置されている先に、待合いのスペースがありました。下りホームの自動改札は、ここに設置されていました。そこに、駅舎に下っていく道がありました。

待合いスペースにあった時刻表です。「2018年12月15日からの災害ダイヤ」と書かれています。平成30(2018)年7月の西日本豪雨で、安浦駅は冠水し、沿線の安芸幸崎駅・忠海(ただのうみ)駅間、安登(あと)駅・安芸川尻駅間、小屋浦(こやうら)駅・水尻(みずしり)駅間では、線路の上に土砂が流入しました。現在は復旧していますが、「災害ダイヤ」で運行されているようです。

駅舎に向かって下っていく道の脇に、JR西日本が誇る観光列車 ”トワイライトエクスプレス 瑞風”を歓迎する横断幕がありました。さらに進むと、もう一つホームから下りる階段がありました。この階段の下が新しく塗装されているかつての駅舎跡でした。この階段は、かつて、駅舎からホームに向かう階段として使われていたものでした。

見るのが楽しみだった駅舎が撤去されてしまっていたので、撤去の経緯を、三原駅にお伺いすると、「撤去工事は、平成30(2018)年11月1日から始まり12月末日までの日程で行われ、西日本豪雨の影響ではなく『シンプルな駅』にするために行われました」とのことでした。駅舎の維持・管理も経営的には負担だったのでしょうか? 現在、まだ残っている貨物側線や貨物ホームも、やがては撤去されることになるのでしょう。 写真は、駅舎跡にあった「案内」です。駅前の通りを進み国道185号に出て、そこを右折して進むと、須波港と生口島とを結ぶフェリーのターミナルがあるようです。行ってみることにしました。

須波駅跡から、海岸沿いを走る国道185号へ向かう通りを進みます。

国道185号に出ました。右折します。

すぐに、須波港口の交差点に着きました。

ここを、右に向かうと、先ほど行った呉線の上りホームに向かうアンダークロスに行くことができます。

左側には須波港がありました。船溜まりには、たくさんの漁船が並んで、からだを休めていました。

左に進みます。突きあたりにあった住吉神社です。そこに、この地の人々のために私財を投じた楢崎正員(まさかず)の功績についての「説明」がありました。

波除けの波止(はと)がつくられていました。楢崎正員は、江戸時代初期の元和6(1620)年、現在の三原市西町の算盤(そろばん)製造業を営む楢崎家に生まれ、人生の大半を家業の算盤造りに精励した人でした。延宝元(1673)年54歳のとき京都に上り、山崎闇斎(あんさい)の門下となり学問の奥義を究めて帰郷しました。その後は、三原城主浅野忠義の知遇を得、城中でたびたび講義をしたといわれています。62歳頃から隠居して、ここ須波の地で余生を送ったそうです。元禄9(1696)年に77歳で没した後は、先祖の眠る三原市西町の大善寺に葬られました。写真の手前は、長さ53メートルの北側の波戸で、石垣でつくられた上に、現在は、コンクリートが打ってありました。

正員がこの地に隠居したとき、海からの強い東風のため、転覆する船や港に帰れない船が多くありました。そのため、正員は私財を投じて波止を築き、船にかかわる人々の便を図ったといわれています。こちらは、長さ75メートルの南側の波止ですが、北側も南側も、4.5mメートルの高さでつくられているそうです。現在の国道185号沿いにも石垣が残っていたそうですが、国道の拡幅の時に埋め込まれたそうです。 二つの波止は、昭和17(1942)年、広島県の史跡に指定されています。

須波港から、国道185号を、さらに南に歩いていきます。三原須波郵便局、須波小学校、須波幼稚園を右に見ながら進みます。須波港から15分ぐらいで、生口(いくち)島の沢港へ向かうフェリーターミナルに着きました。

フェリーターミナルの建物です。中には、フェリー会社の事務所や売店、トイレなどが設けられていました。

桟橋付近から見た乗船券売場と、整備された「須波港湾緑地」です。

こちらは、突堤の先の風景です。正面手前(左側)は小佐木島、右側から小佐木島の裏側に広がるのが佐木島です。瀬戸内海らしい風景が広がっています。

フェリー港付近に掲示されていた航路図です。上方が南に描かれています。須波港からほぼまっすぐ南に向かい、30分弱で沢港に到着するようになっています。現在は、平成27(2015)年に、「須波航路サービス」から運航を引き継いだ「しまなみ海運」が運航しています。

沢港からやってきた「第七かんおん」が到着しました。折り返し、沢港に向かうフェリーです。「第七かんおん」は、もともとは、平成10(1998)年に竣工した「フェリーしまなみ」でした。当時運航していた三原観光汽船が、航路を廃止し廃業した、平成21(2009)年に、事業を引き継いだ「須波航路サービス」へ移籍し「やっさもっさ」と改名しました。そして、平成27(2015)年に、現在のしまなみ海運に引き継がれてからは、「第七かんおん」と改名されたそうです。このような事業者の変遷には、平成11(1999)年に開通した「しまなみ海道」の存在が、大きく影響したといわれています。

運航スケジュールです。平日10便(日曜・祭日11便)運航されています。

「第七かんおん」(総トン数 234トン、全長 49.80メートル、旅客定員 120人)は、10台ほどの自動車とサイクリングの青年を乗せて、定時に出発して行きました。

郷愁を誘うレトロな駅舎を見ようと訪ねたJR須波駅でしたが、残念ながら、駅舎はすでに撤去されており見ることができませんでした。もっと早く来ていればと後悔もしましたが、それ以上に、古きよき駅舎が一度も見ることなく消えてしまった淋しさを、強く感じた旅になりました。








ログハウスの待合室がある駅、JR祖谷口駅

2019年01月17日 | 日記

JR土讃線の祖谷口(いやぐち)駅の待合室です。ログハウス風の建物が、訪れる旅人を迎えてくれます。静かな山間にひっそりと建つこの待合室を訪ねてきました。

JR祖谷口駅は、徳島県三好市山城町下川(しもかわ)にあります。土讃線で、JR阿波池田駅を出て2つ目にある駅です。

三好市池田町にある阿波池田駅から、ワンマン運転のディーゼルカー(DC)の単行列車で出発しました。阿波池田駅から丸山トンネルを抜けると、JR三縄駅。やがて、吉野川が進路方向左側を流れるようになると、めざす祖谷口駅に着きます。

阿波池田駅から8.4km、15分足らずで、祖谷口駅の1面1線のホームに到着しました。下車したのは、私と地元の女性の2人だけでした。女性はそのままホームを先に進んで行かれました。同時に、乗車してきたDCも出発して行きました。

下車してすぐ前に立っていたのが、国鉄時代の「名所案内」標識です。表面が剥がれていますが、長い年月を生きてきた標識で、「秘境祖谷 雄大な渓谷美と紅葉の名所 歴史と伝統の日本三大奇橋 かずら橋」と書かれています。現在では、特急列車も停車する大歩危(おおぼけ)駅が、かずら橋も含む祖谷地方へ行く最寄駅になっていますが、かつては、この駅が祖谷地方への入口の駅になっていました。「祖谷口駅」という駅名もそういうことから名づけらたといわれています。

名所案内標識の前から見た阿波池田方面です。右側にホームから下りる階段があります。その先に、屋根がついた待合いのスペースがつくられています。

ホームから下りる階段の先にあった駅名表示です。祖谷口駅は、三縄駅から4.5km、次の阿波川口駅まで2.8kmのところに設けられていました。

その先にあった待合いスペースです。作り付けのベンチと掲示板がありました。

その先には、枕木の柵がつくられていました。かつては、全国のほとんどの駅でみられた光景です。祖谷口駅は、昭和10(1935)年、土讃線の三縄駅・豊永駅間が開業し、起点であるJR多度津駅(香川県仲多度郡多度津町)とJR窪川駅(高知県高岡郡四万十町)間がつながったときに開業しました。ここに、駅を誘致することは、地元の旧三好郡山城谷村(昭和31年に三名村と合併して町制を施行したときに山城町と改称しました)、三縄村、東祖谷山村、西祖谷山村の人々にとっては悲願ともいうべきものでした。陳情の末の開業は、大きな喜びだったに違いありません。

ホームの阿波池田駅方の端から引き返します。祖谷口駅のホームは右側の山に沿ってカーブしています。

ホームから下ります。正面に、ログハウス風の切妻屋根の待合室が見えます。大きな植木の脇につくられていました。ここには、かつて、祖谷口駅の木造駅舎がありました。昭和10(1935)年に開業した祖谷口駅は、昭和45(1970)年10月1日に、近距離切符の販売だけを団体や個人に委託する簡易委託駅になりました。

待合室の前から見たホームに向かう階段です。階段の上り口には駅名標と時刻表が設置されています。昭和62(1988)年に、国鉄の分割民営化により、土讃線がJR四国に移管されたとき、祖谷口駅の駅舎が解体されました。しかし、地元の人々の強い要望を受けて、当時の三好郡池田町と山城町が、駅舎跡に設置したのが、このログハウス風の待合室だったのです。その後、三好郡内の6町村(三野町・池田町・山城町・井川町・東祖谷山村・西祖谷山村)が「平成の大合併」によって、平成18(2006)年に三好市となりました。こういう経緯により、現在も、この待合室は三好市によって管理されています。

入口に「祖谷口駅待合所」という看板がありました。入口の左にあった郵便ポストの脇から待合室に入りました。内部は、ベンチが置いてあるだけの簡素な造りになっていました。

シンプルな造りの内部でしたが、唯一彩りを添えていたのが、この花でした。右奥においてあったたくさんの座布団とともに、地元の人たちの駅にかける思いを感じることができました。

駅前の通りです。かつては商店が軒を連ねていたといわれています。

駅前にあった「ショッピングストア サキカワ」。簡易委託駅だった頃、切符の販売を受託していたお店です。

サキカワさんのお店の前の道を右方向に上っていきます。下を走るトラックが見えますが、高知方面に向かう国道32号(徳島北街道)です。標識を見ると、この先、400メートルのところに祖谷地方に向かう道が分岐しているようです。国道32号の向こうに山の斜面に張り付くように建っている民家との間には、吉野川が流れています。

その先の下川踏切で、阿波池田方面に向かう土讃線の特急列車と出会いました。踏切の先にも集落が広がっています。ここで、引き返し、祖谷口駅の開業に尽力していた人たちの故郷を訪ねることにしました。

「ショッピングストア サキカワ」から、国道32号に向かって下っていきます。通りの先を右折します。

国道32号に下りると、吉野川に架かる大川橋がありました。現在は「通行禁止」になっています。大川橋の袂にあった説明板を読んで、この橋が、祖谷口駅の開業に大きな影響を与えたことがわかりました。先にも書きましたが、祖谷口駅の開業を熱望していた三好郡山城谷村、三縄村、東祖谷山村、西祖谷山村の人々はそれぞれの村会での決議を基に、駅の開業を求めて鉄道省への陳情を行いました。その時の鉄道省からの回答は、「吉野川を渡る橋(大川橋)を架橋することを条件に、駅の設置を許可する」というものでした。

そのとき、「川崎地区の林業家、赤川庄八翁が個人で5万8千円を費やして架橋に取り組み、昭和10(1935)年の土讃線開業と同時に大川橋も完成したのでした。その後、大川橋は「賃取り(ちんとり)橋」(有料橋?)と呼ばれて地元の人に親しまれて来ました。そして、昭和27(1952)年、2代目赤川庄八翁が池田町へ大川橋を寄付し、町道となりました」と、平成29(2017)年に「祖谷口流域住民有志一同」の方々がつくられた「説明板」には書かれていました。この大川橋が完成したことで、祖谷口駅を開業させることができたのでした。赤川翁は文久2(1862)年川崎地区の生まれで、明治14(1881)年に酒造業を創業し、その利益で、明治32(1899)年から国見山で林業を始めた人でした。

国道32号に合流し右折、大川橋の前から高知方面に向かって歩きます。吉野川が左下を流れています。

国道32号から見た吉野川の上流側です。手前の青い橋は吉野川に架かる祖谷口橋、その向こうに見える赤い橋は祖谷川に架かる川崎橋です。青い祖谷口橋のあたりで、祖谷川と吉野川が合流しています。さらに、高知方面に向かって歩きます。

大川橋から10分ぐらいで、吉野川に架かる祖谷川橋に着きました。ここが祖谷地方への分岐点、「祖谷口」になります。左折して、祖谷口橋を渡ります。

祖谷口橋の上から見えた吉野川の上流地域です。

こちらが、祖谷口橋の真ん中辺りから撮影した祖谷川です。赤い橋は川崎橋。祖谷川の右(左岸)側が川崎地区です。大川橋を架橋し、祖谷口駅の開業に貢献した赤川庄八翁が活躍されていた地域になります。

祖谷口橋の対岸です。絶壁に立つ小便小僧の像や祖谷渓、さらにかずら橋方面へはここを右折して上っていくことになります。

対岸から見た祖谷口橋です。橋の向こうに土讃線の線路があります。そして、少し右側に祖谷口駅があるはずです。

祖谷口駅の対岸で二つの道に分かれます。一つは祖谷地区へ向かって行く徳島県道32号(山城東祖谷山線)です。もう一つの道は、県道32号から別れ、川崎橋で祖谷川を渡り川崎地区に向かう通りです。

ログハウス風の待合室がある山間の駅、祖谷口駅を訪ねてきました。そこで、祖谷口駅の開業に向けて尽力された人々や、祖谷山駅舎が取り壊されたときに待合室の建設に向けて尽力された人々について、学ぶことができました。
地元の人々の熱意によって開業され整備されて来た祖谷口駅の待合室が、いつまでも地域の人々の交流の場であってほしい、そう思った祖谷口駅の旅でした。




やましろ狸が出迎える駅、JR阿波川口駅

2019年01月11日 | 日記

JR土讃線の阿波川口駅の駅舎です。阿波川口駅は、三好市山城町大川持にあります。駅舎の正面にいる大きな狸は「汽車狸(きしゃだぬき)」。土讃線を利用する乗客をいつも出迎えています。JR四国と連携し、地元の「やましろ狸な会」が、駅舎を巨大な狸に見立てて模様替えしたもので、平成29(2017)年11月にお披露目されました。この日は、この狸に会うために、阿波川口駅まで行ってきました。

JR阿波川口駅は、JR阿波池田駅から高知方面に向かって3つ目の駅でした。吉野川がつくった渓谷の大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)の手前にある駅です。阿波池田駅から高知行きの普通列車で出発しました。

2面2線のホームが見えます。阿波池田駅から15分ぐらいで、阿波川口駅に着きました。下車したのは、下校中の高校生の他には私を含めて2名。下車すると、列車はすぐに出発して行きました。この駅の1日平均の乗車人員は、平成26(2014)年には65名だったそうです。

阿波川口駅は三好市山城町大川持にあります。三好市は、平成18(2006)年に、かつての三好郡三野町、池田町、山城町、井川町、東祖谷村、西祖谷村の6町村が合併してできました。四国の市町村の中で、最も広い面積をもつ自治体といわれています。阿波川口駅は、祖谷口(いやぐち)駅から2.8km、次の小歩危駅まで4.7kmのところに設置されています。

到着した2番ホームの高知寄りから見た阿波池田駅方面です。左側にある駅舎へは、跨線橋を利用して移動することになります。写真の左側に見える白い建物は、山城町商工会の建物です。商工会の建物が設置されているように、金融機関の支店も置かれており、阿波川口駅は、三好市山城町の経済の中心地にある駅でした。

阿波川口駅の1番ホームと駅舎です。白い三角形の屋根が印象的な建物です。模様替えする以前は、駅舎の表側もこのようなつくりになっていました。

2番ホームから見た1番ホームの跨線橋付近にあった横断幕です。「やましろ 狸の里 あわかわぐち やましろ狸な会」と書かれています。「狸の会」ではなく「狸な会」のようです。「やましろ狸な会」は、山城町の妖怪たぬき伝説を活かして、地域の活性化に取り組む住民のグループです。
 
JR土讃線の起点、JR多度津駅に停車していたJR四国の観光列車「四国まんなか千年ものがたり」号です。「狸な会」は、阿波川口駅が、この観光列車の停車駅になったのをきっかけに、この地に残る「妖怪たぬきの里」を観光の目玉にすることをめざして、駅の模様替えのために活動してきました(徳島新聞の記事より)。

これも1番ホームに建っていた「日本一 阿波川口 たぬきの里」の幟です。

これは1番ホームの駐車場前にあった「ようこそ! 狸伝説の里 阿波川口駅へ」の横断幕です。

そして、一番ホームで乗客を迎える狸です。この狸は、伝説によれば、庶民の味方で知恵者の「青木藤太郎狸」と、美人で知られた「おそめ狸」で、花嫁衣装からもわかるように、二人の狸は結婚しているそうです。

跨線橋の上から見た、並行して走る国道32号(徳島北街道)と並行して流れる吉野川です。

跨線橋から見た阿波池田方面です。2面2線のホームの左側に側線が見えます。かつて、この地で伐採された木材の輸送のために使われた貨物側線ではないでしょうか。

青木藤太郎狸とおそめ狸の前を通り、「歓迎 ようこそ狸の里 阿波川口へ」の横断幕から駅舎に入ります。阿波川口駅は、昭和10(1935)年、土讃線の三縄(みなわ)駅・豊永駅間が開通し、起点の多度津駅から高知県の窪川駅までつながったときに開業しました。昭和58(1983)年に無人駅(簡易委託駅)になりました。かつて設置されていたはずの改札口は、撤去されていました。

右側に駅事務所がありました。職員はおられませんでしたが、事務所の中で「汽車狸」が勤務に就いていました。

待合スペースです。ベンチの上には座布団が敷き詰められています。駅前広場への出口の上には川柳の短冊が並んでいる、ゴミ一つない清潔な駅舎でした。

阿波川口駅の現在の駅舎は、開業時に建てられた駅舎を、昭和63(1988)年3月に建て替えたものだそうです。駅舎から外に出ます。

駅舎全体を「汽車狸」に見立てたことがよくわかります。出入口の両側は、「四国まんなか千年ものがたり」の色に合わせて、赤、緑、白、青の4色で塗装されています。上の狸は、顔(縦 2メートル、横 2メートル)の上に制帽を被っている「汽車狸」です。

こちらは、駅舎の大歩危側の壁面です。こちらも、観光列車の模様と同じものが描かれています。トイレは、駅舎内にはなく、隣接している商工会館の1階部分に設置されていました。

阿波川口駅の阿波池田側の風景です。広場に枕木が置かれています。かつては、貨物の積み降ろしのための倉庫等があったところと考えられます」。駅のある地域の「山城」の地名は、山を背にしている地勢から「山背(やましろ)」となり、後に「山城」となったという説が有力です。三好市山城町の西側は、愛媛県四国中央市。愛媛県と徳島県の県境にある町でした。

駅前の通りを、阿波池田駅方面に向かって歩きます。平坦地が少なく、濃霧や積雪もあり降水量も多いこの地域は、林業に適したところでした。総面積の8割以上は森林だったといわれ、製材業がさかんな地域でした

通りの左側の崖の上には、三好市立山城小学校と幼稚園がありました。小学校に向かう石段付近には、乾燥のため、たくさんの木材が並べてありました。

右側に製材工場がありました。かつては、多くの材木が、阿波川口駅から運び出されていたはずです。阿波川口駅前まで引き返して、今度は大歩危方面に向かって歩きます。

かつての街道筋の雰囲気が残る通りを歩いていきます。左側に、登録有形文化財である「旧川口郵便局局舎と和風の主屋」がありました。「説明板」もつくられていました。白く見える建物が洋館の局舎です。「明治38(1905)年に建設され、下見板張り、ペンキ塗り、屋根や窓、軒回りに意匠を凝らした」洋館と、それと一体になった「出格子が構えられ落ち着きがある」和風の建物でした。当時は郵便業務とともに電話交換業務も行っていたそうで、この郵便局は「四国最大の特定郵便局」だったといわれています。昭和54(1979)年に局舎が移転され、その後は、写真スタジオになったそうです。

国道32号は現在は土讃線と吉野川の間を走っていますが、駅から続くこの通りは、かつての国道32号です。江戸時代の前期には土佐藩の参勤交代の道としても使われていました。今も、商店が並んでいます。

その先で、赤い塗装の川口橋を渡ります。下を流れる銅山川(伊予川)は、その名の通り、別子銅山のある別子山を源流としています。この左側で吉野川に合流します。

川口橋から見た吉野川方面です。土讃線の「伊予川橋梁」が見えます。その向こうに吉野川が流れています。地図では銅山川と書かれていますが、伊予国から流れてくるから「伊予川」とも呼ばれていたようです。JR四国は、「伊予川橋梁」と伊予川の方を使っています。

これは、以前、土讃線の列車から撮った伊予川橋梁です。橋梁の先は、山城谷トンネルを抜けるルートになっています。土讃線の阿波池田駅から土佐山田駅の間は、豪雨など自然災害によって大きな被害を受けて来たところでした。自然災害を克服するため、トンネルを掘削してルートを変更することが、たびたび行われてきました。

ここもその一つで、昭和25(1950)年11月1日に山城谷トンネルが開通する以前は、吉野川に沿って次の小歩危駅へ向かうルートでした。山城谷トンネルは全長2,179メートル。阿波池田駅から土佐山田駅間のルート変更の先駆けになったトンネルでした。これは、カメラを少し引いて撮影した写真ですが、それ以前の土讃線は、伊予川橋梁の左側のお宅の方に向かって進んでいたといわれています。

川口橋から見た銅山川です。左(右岸)側には四国中央市伊予三島に向かう国道319号が走っています。右の白い建物は、三好市山城支所です。この地に、前身の山城谷村役場が移ってきたのは、太平洋戦争中の昭和19(1944)年のことでした。その後、昭和31(1956)年山城谷村が三名村と合併したとき、「山城町役場」と改称されました。そして、平成の大合併により、現在の三好市山城支所になりました。

これは、「説明板」によれば、防空壕の跡だそうです。鉄道と国道の鉄橋が並んでいるこの地は、米軍の空襲を受ける可能性がありました。そのため、避難用の防空壕を掘り始めたのですが、岩盤が固いため掘り進むことができず、書類の保存用の防空壕になったといわれています。

現在は、この穴に世界の平和と地域の安全を守るため、土讃線開通80周年を記念して、「狸伝説の里、山城町」のシンボルとして「狸大明神」をお祀りしているそうです。

駅前広場に戻ってきました。駅舎には、地元の人らしい職員の方が勤務されていました。阿波川口駅は、現在では、切符の販売だけを委託されている簡易委託駅になっていました。駅舎内で勤務されていた職員の方が、「駅のスタンプ押しましょうか」と声を掛けてくださいました。

これがそのスタンプです。この駅のスタンプには「やましろ狸が出迎える駅 阿波川口駅」と書かれています。この日は、この汽車狸に会えた、楽しい一日になりました。

JR土讃線の阿波川口駅は、JR四国の「四国まんなか千年ものがたり」の停車駅になったことで、大きく変わり、全国に知られる「やましろ狸が出迎える駅」になりました。地元の人々のご尽力で、ホームや駅舎の各所にある幟と横断幕、愛嬌のある狸が見える楽しい駅になっていました。



大阪府の最南端にある駅、南海本線孝子駅

2019年01月04日 | 日記

大阪府道752号(和歌山阪南線)から見た、南海本線孝子(きょうし)駅です。大阪府泉南郡岬町大字孝子にあります。大阪府の最南端にある駅として知られており、この先にある孝子峠を越えると和歌山県に入ります。

この日は、孝子駅を訪ねることにしていました。特急停車駅であるみさき公園駅から、和歌山市駅行きの普通車(南海電鉄では各駅停車の電車をこう呼んでいます)に乗車しました。孝子駅までは4.4km。南海本線における最長区間になっています。

やがて、現在は廃駅となっている深日(ふけ)駅跡を通過します。線路の両側にホームが残っていました。深日駅跡は以前訪ねたことがありました(「南海電鉄深日駅跡を訪ねる」2018年9月9日の日記)。昭和19(1944)年に多奈川線が開業し深日港駅や深日町駅が開業したため、この年に旅客営業が、翌年に貨物営業が廃止されました。そして、昭和33(1958)に正式に廃止となっています。

みさき公園駅で乗車してから5分後、普通車の先頭車両から孝子駅の2面2線のホームが見えてきました。孝子駅に入ります。

進行方向左側の1番ホームに到着しました。乗降客はごくわずか、電車は、すぐに出発していきました。

1番ホームの端から見た和歌山市駅方面です。1067ミリの複線の線路も見えます。孝子駅を出た電車は、この先で右カーブして、県境の第1孝子トンネル(下り側:全長694メートル)を越えて和歌山県に入ります。また、ホームの左側に見えているのは、国道26号(第2阪和国道)の高架です。

ホームに「駅中心点」の表示がありました。南海電鉄本線は、明治18(1885)年、阪堺電鉄によって難波駅・大和川駅(後に廃止)間が開業したことに始まります。その後、明治31(1898)年に阪堺電鉄が、事業を、南海電鉄(明治28年設立)に譲渡したことにより南海電鉄の路線になりました。難波駅・和歌山市駅間が開業したのは、明治36(1903)年のことでした。

セピア色の写真のようなレトロな雰囲気を感じる駅名表示です。対面するホームにも設置されていました。孝子駅が開業したのは、難波駅・和歌山市駅までが開業してから7年後の明治43(1910)年のことで、臨時駅としての開業でした。常設駅になったのは、大正4(1915)年4月11日のことでした。

1番ホームから見た、みさき公園方面のようすです。1番ホームの待合スペース、向かいに2番ホームの待合スペース。その左側に駅舎があります。

2番ホームの駅名表示の向こうの山麓に、孝子の集落が見えます。明治22(1889)年の町村制の施行により日根郡孝子村となり、7年後に郡名の変更により泉南郡孝子村となりました。そして、昭和30(1955)年、同じ泉南郡内の2町2村が合併し岬町になったとき、現在の岬町大字孝子になりました。平成23(2011)年の人口は430人でした。

到着した1番ホームの待合スペースです。こちらの駅名表示は、真新しいもので、ホームのものとは異なっていました。

1番ホームの向かいに駅からの出口があります。その右側にトイレ、左側に2番ホームの待合スペースがありました。こちらの駅名表示も、ホームのものとは異なっていました。

向かいの2番ホームと駅からの出口へは、構内踏切で移動することになっています。

1番ホームから下り、構内踏切に出ます。人の気配はまったくありません。孝子駅は、南海本線の中で最も乗降客の少ない駅で、1日平均乗降人員は、133人(平成28年)なのだそうです。

駅舎から自動改札機にきっぷを通して外に出ました。駅舎内には自動券売機が設置されています。

駅舎内にあった時刻表です。日中は、1時間に普通車のみ4本程度が停車しています。乗降客だけでなく、停車本数も、南海本線の中で最も少ない駅となっています。

孝子駅の「孝子」はどのような意味があるのでしょうか? まず、考えられるのは「親孝行な子ども」という意味のように思います。孝子駅のある地域には、親を大事に思う「親孝行の子ども」にかかわる伝説が二つ残されています。一つは、平安時代、嵯峨天皇・空海と並び「三筆」と称えられた書の名人、橘逸勢(たちばなのはやなり)にまつわる言い伝え。もう一つは、飛鳥時代、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)にまつわる言い伝えです。まず、「橘逸勢」にかかわる地を訪ねてみることにしました。孝子駅前を走る大阪府道752号を大阪方面に向かって引き返すことにしました。

駅から出発してすぐのところ、構内といってもいいところに、みさき公園13号踏切がありました。府道から踏切を渡ってさらに大阪方面に延びる通りがありました。

踏切を渡って進みます。通りがゆるく右カーブするところに石柱が残っていました。

「孝子越街道」と刻まれています。孝子駅の前を通って孝子峠を越えて和歌山県に入る府道752号は、現代の孝子越街道です。かつての孝子越街道は、ここを通っていたようです。孝子峠を越えて進む旅人のために築かれた道標のようです。

府道752号に戻り、さらにみさき公園方面に向かって歩きます。すぐ、左に孝子駐在所がありました。ここを左に向かえば、集落に入っていくことができます。

駐在所を過ぎると、左側に「岬の歴史館」になっている、旧岬町立孝子小学校の校舎が見えました。明治41(1908)年の建築で昭和16(1941)年に改修された校舎です。学校が児童の減少により、廃校にせざるを得なくなったとき、地元の人々の強い要望によって「休校」の扱いのまま、平成23(2011)年から、地域の歴史館として活用されています。孝子小学校は、岬町立淡輪(たんのわ)小学校に「一時的に」統合されています。

駐在所の前の道を入ってJAの事務所のところで右に折れて進むと、「岬の歴史館」の前に着きます。この日は休館日で門扉は閉まっていましたが、脇には「岬の歴史館」と「岬町立孝子小学校」の二つの看板が並んでいました。再度、府道752号に戻ります。

橘逸勢にまつわる伝説にかかわる地に向かって歩きます。天皇の座をめぐる権力争いに巻き込まれ「謀反を企てた」と無罪の罪を着せられて、伊豆へ流罪になった逸勢は、伊豆に向かう途中、現在の静岡県浜松市で亡くなりました。府道を20分ぐらい歩くと、国道26号の「孝子ランプ」の案内標識が見えました。

さらに5分ぐらい歩くと、白いホテルの建物の手前に右側に斜めに入っていく通りがありました。さて、橘逸勢に関する伝説ですが、護送の役人に追い払われながらも、流罪地へ送られる父の後を追って来た、当時十二歳だった逸勢の娘あやめは、出家して父の遺骸を引き取り、阿波国(徳島県)に行く途中のこの地で、父の菩提を弔ったといいます。「孝子」の地名は、そんなエピソードに由来するといわれています(岬町観光協会資料から)。

<追記>
平成31(2019)年1月5日に訪ねた時には府道752号からの分岐点に、赤で書かれた、新しい案内標識がつくられていました。それには「平安時代の三筆  橘逸勢と孝女あやめの墓」と書かれていました。前回訪ねたのは、平成30(2018)年12月30日でしたので、その間に設置されたものだと思われます。

分岐点にあった案内には、逸勢と娘あやめの墓所の所在地が示されていました。

まず、橘逸勢の墓にお詣りすることにしました。案内板の説明にしたがって、通りのすぐ先を右折します。そこにも新しい案内標識が設置されていました。プレハブの建物の手前に、橘逸勢の墓がありました。

あやめの墓に向かいます。細い道を引き返し、さらに先に進みます。みさき公園7号踏切で南海本線を渡ります。

踏切を渡ると右前方に「あやめの墓」がありました。

次は、もう一つの「親孝行」に因む伝説の地を訪ねるため、府道752号を孝子駅まで戻ってきました。ここからさらに孝子峠に向かって歩きます。

府道が孝子峠に向けて右カーブする手前にあった孝子2号踏切です。ここを左折します。

踏切を渡ってすぐ右側に石碑がありました。「くハんおむみち」(観音道)と書かれています。”孝子の観音さん”と呼ばれている高仙寺への道を知らせる石碑です。親孝行に因むもう一つの伝説の地は、この高仙寺にありました。ここから、高仙寺をめざして、正面の山に向かって歩きます。

飛鳥時代、修験道の開祖である役小角(えんのおずぬ)は呪術で知られていました。その能力を妬んだ弟子の1人が、「妖術で人心を惑わす悪しき人物」だと、訴えを起こしました。役人たちは小角を捕らえようとしましたが、小角は姿を消してしまいます。役人たちは策を練って、小角の母親を人質にして、名乗り出るよう促しました。 山が近くなったところにあった「孝子観音」という看板のついた橋を渡ります。橋を渡ると右折して、かなりの勾配の坂道を上っていきます。

坂を上がりきると、左側にさらに石段がありました。石段の先に、仁王像が守る山門がありました。急な石段をひたすら上っていきます。 母親を人質にされた役小角は、母の身の辛さを思い、自ら名乗り出てこの地で捕らえられました。その後もこの地に止まっていた小角の母は亡くなり、遺骸はこの地に葬られた(岬町観光協会の資料による)といわれています。

山門からさらに上った先に本堂がありました。本堂の左側を進みます。

道が下り坂になったところに、石積みが見えました「役行者(えんのぎょうじゃ)母公之墓」と刻まれた石標がありました。役の小角の母の墓でした。「墓」というのなら墓の形があるはずだと思っていたので、どれが墓なのかよくわかりませんでした。途中で出会った地元の方にお聞きしますと「私たちは、墓石が並ぶ一帯が母公様のお墓だと思って守ってきました」というご返事でした。そのとおりだと納得しました。

孝子2号踏切まで戻ってきました。最後にもう一つ見ておきたいところがありました。府道を孝子峠に向かって上っていきます。

見ておきたかった第1孝子トンネル(正式には「第1孝子越隧道」)です。和歌山県境にあります。第1孝子トンネルは上りと下りのトンネルがそれぞれ設けられていました。2つのトンネルを一緒に撮影しようと思ったのですが、府道の下に生えていた雑木と光線の関係で、下りトンネルを一つ撮影するのがやっとでした。

後に、和歌山市駅行きの普通車の先頭車両から撮影した第1孝子トンネルです。左が下り線(全長 694メートル)右側が上り線(全長 651メートル)のトンネルです。

孝子駅の1番ホームにあった勾配標です。孝子峠に向けて20パーミル(1000メートル進むと20メートル上がる)の勾配を電車は上っていきます。第1孝子トンネル付近が、南海本線の最高地点(標高70メートル)になっているそうです。

和歌山県境にある大阪府最南端の駅を見ようと孝子駅にやってきました。県境の駅らしく、停車する電車も乗降客も少ない、静かで落ち着いた雰囲気の駅という印象でした。この地に残る、親を大事に思う「親孝行な子」にまつわる伝説に惹かれて、駅の北部の「橘逸勢とあやめの墓」と、駅の南東部にある高仙寺の「役子角の母公の墓」も訪ねて来ました。古くからの言い伝えを大事に守って来られた地元の人々の心にも触れる旅になりました。