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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR伯耆溝口駅に行ってきました

2021年04月06日 | 日記
このところ、旧出雲街道沿いにある駅を訪ねています。
前回に訪ねた鳥取県のJR根雨駅に続き、今回は、鳥取県の旧出雲街道沿いにあるJR伯耆溝口駅を訪ねて来ました。

白壁がまぶしいJR伯備線の伯耆溝口(みぞぐち)駅です。 鳥取県西伯郡伯耆町溝口(みぞくち)にあります。駅名と町名が異なっているのは、昭和59(1984)年5月1日に、日野郡溝口(みぞぐち)町が町名を「みぞくち」町に改称したことによるそうです。日野郡溝口町が現在の西伯郡伯耆町溝口になったのは、平成17(2005)年に西伯郡岸本町と合併したことがきっかけでした。

伯耆溝口駅を訪ねるため、JR新見駅から米子行きの普通列車に乗車しました。乗車したワンマン列車の単行気動車、キハ120335号車、平成7(1995)年10月新潟鉄工所製の車両です。キハ120系気動車は、JR西日本岡山支社に15両が所属しています。

上石見(かみいわみ)駅を過ぎた踏切の先で、駅舎もホームも設けられていないのに、複線になった区間がありました。列車は左側の線路(2番線 下り副本線)に入り停車しました。特急列車に乗車していると気がつきにくいのですが、昭和48(1873)年に開設された下石見(しもいわみ)信号場です。特急列車の追い越しや列車の行き違いのために使用されています。

1番線(上下本線)を、出雲市駅行きの”特急やくも7号”が追い抜いて行きました。

江尾(えび)駅の先にもう一つ信号場がありました。上溝口信号場です。乗車していた列車は、左側の線路(2番線 下り副本線)に入り停車しました。右側の線路(1番線)は上下本線になっており、行き違いがない場合は、上り、下り列車とも右側の線路を使用し、行き違いがある場合には、それぞれ左側通行をすることになっているようです。
左側に白い駅舎が見えました。新見駅から約1時間45分、伯耆溝口駅に着きました。正面に、島式1面2線のホームが見えました。列車は左側の1番線に入りました。
列車は、次の岸本駅に向かって出発して行きました。
伯備線は、山陽本線倉敷駅(岡山県)と山陰本線伯耆大山駅(鳥取県)を結ぶ鉄道です。山陽と山陰を結ぶいわゆる陰陽連絡路線の一つです。
伯備線は、大正8(1919)年8月10日、伯耆大山駅・伯耆溝口駅間が、伯備北線として開業したことに始まります。 伯耆溝口駅はこの時、終着駅として開業しましたが、大正11(1922)年3月には伯耆溝口駅・江尾駅間が開業し通過駅となりました。 すでに、開業から1世紀が経過しています。

長いホームを米子駅側の端までやって来ました。左側には貨物輸送が盛んだった頃のホームの跡が見えます。 
伯備線の岡山県側からの開業は少し遅れ、大正14(1925)年に倉敷駅・宍粟駅(現・豪渓駅)間が開業しました。そして、昭和3(1928)年、最後に残っていた備中川面駅・足立駅間が開業して全通し、伯備線と改称しました。
現在の伯備線は、倉敷駅・備中高梁駅間と、井倉駅・石蟹駅間だけが、複線区間になっています。
ホームを新見駅側に向かって引き返します。駅名標の先に駅舎とホームの待合室が見えます。 駅名標の裏側には桜並木が見えます。
伯耆溝口駅は、新見側の江尾駅から9.2km、次の岸本駅まで5.0kmのところにあります。
2番線の外側に、保線用の側線が設けられていました。満開の桜がきれいです。
ホームの待合室付近まで来ました。側線の車止めの向こうに、白壁の駅舎が見えます。2階部分に鬼の像が飾られています。
ホームの待合室の内部です。長いベンチがありました。「鉄 旅客上家 1号
昭和38年10月11日」と書かれた建物財産標があるということでしたが、見つけることができませんでした。

ホームの新見駅側の端まで来ました。ホームから下ると構内踏切、右側に駅舎、駅舎の左側の四角形の建物は伯耆町溝口分庁舎。左側の小高い所には、伯耆町民体育館や武道館があります。 
駅舎の2階部分に鬼の像が飾られていますが、伯耆町は「鬼伝説」で知られています。第7代孝霊天皇の時代、この駅の東方(ホームの左側)にある鬼住山(きずみやま 標高326m )には、鬼が住んでおり、人々を苦しめていました。 孝霊天皇は鬼退治をするため、鬼住山の南の山に陣を張りました。

構内踏切で駅舎に向かいます。
孝霊天皇は、笹巻きの団子を3つ並べ鬼をおびき出し、そこに出て来た弟の乙牛蟹(おとうしかに)を弓矢で射止めました。 その夜、天津神のお告げがあり、そのお告げの通りに、刈り取った笹を山積みにして待っていたら、3日目の朝、強い南風が吹いたそうです。そのため笹の葉は鬼の住処に向かって動き鬼の身体にまとわりついたため、兄の大牛蟹(おおうしかに)は、「降参だ、天皇の配下で北を守る」と言ったそうです。天皇は「お前の力で北を守れ」と言って、鬼を許したということです。

駅舎前です。伯耆駅舎は、伯耆町が建設した「遊学館」というコミュニティー施設(公民館やシルバー人材センターなど)を併設したつくりになっています。土蔵の形をした施設が見えます。手前の「伯耆溝口駅」と書かれた左側に、鬼のキャラクターが描かれています。伯耆町は、先に書いた「鬼伝説」で、町の活性化を図っているそうです。
この時、新見方面に向かう貨物列車が到着しました。そのまましばらく停車した後、出発して行きました。

伯耆溝口駅は、かつては、乗車券の発売だけを個人や法人等に委託する簡易委託駅でしたが、平成27(2015)年からは無人駅になっているそうです。
出口に向かってベンチ、その上には時刻表、運賃表、掲示物が並んでいます。
駅舎の右側は、ベンチが並ぶ待合いのスペースになっています。

駅前広場から見た駅舎です。2階部分の外側の周囲4ヶ所に、鬼の像が飾られています。 この土蔵風の駅舎は、平成7(1995)年4月に竣工したそうです。

広々とした駅前ロータリーです。まっすぐ進んだ先は日野川です。
旧出雲街道は、前回訪ねた根雨の町から、舟場で日野川を渡り、そこから二部、三部の集落を抜けて、溝口宿の手前で、再び日野川を東に渡って溝口宿に入っていました。 伯耆町溝口は、江戸時代に、松江藩が参勤交代のために整備した旧出雲街道の宿場町として、また様々な物資の集散地として、賑わって来ました。

かつての雰囲気を残す溝口の町並みをたどることにしました。駅前から日野川方面に向かい最初の交差点を左折して進みます。

多くのお宅が改装されていますが、かつての面影を残すお宅もありました。
右側は、2階部分が低い厨子2階建てに袖壁(うだつ)のついたお宅です。格子戸のついたお宅もありました。壁に平瓦を張って、目地に漆喰を盛り上げたなまこ壁のお宅もありました。

神社の鳥居と参道を見ながらさらに進みます。

石州瓦が葺かれたお宅も並んでいます。
伯耆町役場の溝口分庁舎です。かつては、この付近に本陣が置かれていたそうです。松江藩が整備した本陣は、七里茶屋と呼ばれていたようです。
溝口の名は、日野川の川床が高く、水路の取入口付近に河床があったことで名づけられたそうです。 そのような状況のため、日野川は、増水や氾濫による川止めも多かったそうです。松江藩は、文久2(1862)年に、旧出雲街道のルートの変更を行うことにしました。溝口宿の手前で、日野川を渡ることを避け、根雨宿から二部宿を経て、天万宿から米子宿へ向かうルートに変更したのです。

こうして、溝口宿が担っていた機能は、二部宿が担うことになりました。溝口宿は、政治的、経済的に衰退して行きました。 旧本陣は払い下げとなり藩校が開かれたそうです。その後、旧溝口町役場になっていったそうです。
満開の桜の下、灯籠や様々な石碑が残る一角がありました。見上げると「二部 南部(→右への矢印)」と書かれた道路標識がありました。ここで右折して、日野川に向かって進みます。

溝口小学校を左に見ながら進み、日野川の手前で、国道181号に合流することになります。左折して進みます。

日野川に架かる鬼守橋(きもりばし)を渡ります。溝口宿に替わった二部宿へ
は、向こう岸を左に向かって進んで行くことになります。
台地の上に、緑の鬼の像が見えました。 無料の公園、”おにっ子ランド” のシンボルです。隣接して ”鬼ミュージアム” があるそうです。

鬼の像が飾られた白壁のJR伯耆溝口駅を訪ねて来ました。
旧出雲街道の雰囲気を残す町並みと鬼伝説など、見どころの多い町でした。
時間の都合ですべてを見て回ることができなかったのが残念でした。

JR根雨駅と旧出雲街道根雨宿を訪ねる

2021年03月25日 | 日記
JR伯備線の根雨駅です。鳥取県日野郡日野町根雨にあります。
根雨の町に残る旧本陣の門です。 根雨の町は、古くから、出雲の国と播磨の国を結ぶ出雲街道の宿場町として、また、様々な物資の集散地として栄えて来ました。 出雲街道は江戸時代の初期、松江藩主の参勤交代の道として、松江藩によって整備が進められ、根雨には藩主が宿泊する本陣が置かれていました。
JR伯備線は、JR山陽本線の倉敷駅と山陰本線の伯耆大山駅を結ぶ、全長
138.4kmの路線で、山陽と山陰を結ぶいわゆる陰陽連絡線の一つです。岡山駅側の倉敷駅・備中高梁駅間と、井倉駅・石蟹駅間が複線になっている以外は単線区間になっています。 
この日は、根雨駅と根雨の町並みを訪ねるため、岡山県北西部のJR新見駅から、米子駅へ向かう伯備線の列車に乗車しました。ホームに着いて驚いたのは出発を待っていたのが、ワンマン運転、単行のキハ120系気動車(しかも浜田
色)だったことです。電化区間で、特急列車も走っている幹線の伯備線で、ローカル線仕様の車両であるキハ120系気動車が待っていたからです。乗車したキハ120357号車は平成8(1996)年に新潟鉄工で製造された車両です。
車内は8割以上の乗車率でした。 
新見駅から1時間15分ぐらいで、根雨駅の2番ホームに到着しました。下車したのは、高校生を含めて7人でした。ちなみに、根雨駅の1日平均乗車人員は平成30(2018)年には436人だったそうです。
根雨駅は2面3線のホームになっています。駅舎側の1番ホームには新見行きの上り列車が発着しています。駅舎へは跨線橋で移動するようになっています。
2番ホームから見た新見駅方面です。長いホームの先に国道181号の高架が見えます。 伯備線は、大正8(1919)年、鳥取県側の伯耆大山駅・伯耆溝口駅間が、伯備北線として開業したことに始まります。岡山県側からは、大正14(1925)年2月に、倉敷駅・宍粟駅(現在の豪渓駅)間が、伯備南線として開業したのが始まりでした。

2番ホームの新見駅寄りから見たホームの全景です。2番ホームの上屋の下にベンチが見えました。 伯備線はその後、延進工事が続き、3年後の昭和3
(1928)年に、最後に残っていた備中川面駅・足立駅間が開業し、全線が開業しました。そして、伯備南線が伯備北線を編入し伯備線と改称して、現在に至っています。 根雨駅が開業したのは、大正11(1922)年7月30日、伯備北線の江尾(えび)駅から根雨駅までが開業したときでした。開業当時は終着駅でしたが、3ヶ月後の11月10日には黒崎駅までが開業し、途中駅になっています。 
根雨駅の開業当時の住所は、鳥取県日野郡根雨町根雨でしたが、昭和34(1959)年5月1日、根雨町は日野郡内の黒崎町と合併し、新たに、日野郡日野町根雨となりました。
伯備線は、昭和57(1982)年、全線が電化されたため、特急”やくも”が電車化され、現在も、岡山駅・出雲市駅間で1日15往復が運行されています。 
しかし、出雲市駅に向かう特急”やくも”は、新見駅から伯耆大山駅までの停車駅が、生山(しょうやま)駅または根雨駅のどちらか1駅だけになっています。電化区間なのにローカル線使用のキハ120系車両が運用されているのも、やむをえないことだと思いました。
ホームにあった駅名標です。根雨駅は、新見駅側の黒坂駅から7.6km、次の武庫駅まで4.7kmのところにありました。 

2番ホームの上屋です。ベンチの向こうには待合室がありました。
上屋の手前、右側の柱に建物財産標がありました。それには、「建物財産標 鉄 旅客上家1号 昭和55年11月17日」と書かれていました。建設から40年が経過しているようです。
1番ホームと駅舎です。赤い石州瓦と白壁の木造駅舎が、青い空と白い雲に映えて、とてもきれいでした。

ホームの左側、3番ホームの外側の側線に、ラッセル車が待機していました。
MC-6644号車。堀川工機製の16トンラッセル車です。今年度は、もう出番はなさそうです。
跨線橋の脇から見た米子駅方面のホームです。長いホームが続いています。
跨線橋から駅舎に向かいます。風や寒さ除けが成された、明るい日射しが差し込む跨線橋です。
上り列車が発着する1番ホームに降りました。
1番ホームから見た向かいのホームです。ベンチと待合室、跨線橋の上り口付近にもベンチが見えます。
真新しい改札口がありました。駅舎への入口は改札口の向こう側、使用済み切符の回収箱とicocaの精算機の間にあります。ごみ一つ無い清潔感あふれる駅舎でした。
駅舎内です。ベンチと自動販売機が見えます。
ホーム寄りの一角には金持(かもち)神社がお祀りしてありました。ホームから見た国道181号を4kmほど岡山県方面に向かった所にある神社だそうです。平安時代の弘仁元(810)年、出雲の神官の次男がこの地を通りかかったとき、お守りの根付の玉石が急に重くなったといい、この地に宮造りをするようにという神夢を見て宮を建てたそうです。この地域は、玉鋼(たまはがね)の産地で、原料の真砂鉄が取れる谷を多く所有し、鉄のことを金(かね)と読んでいたことから、金の採れる谷を多く持つ郷として「金持郷」と呼ばれるようになったそうです。中国山地から山陰のかけては「たたら製鉄」が盛んな所でした。
改札口と出札窓口です。根雨駅は、米子駅管理の直営駅になっています。
日中は、駅員の方が勤務されているそうです。
根雨駅は、大正11(1922)年7月30日に開業しました。開業から99年目を迎えています。真っ白な壁面がまぶしい駅舎です。出入口の右側にある日野高校と書かれたプランターには花が咲いていました。
出入口の右側の上部に建物財産標がありました。大正11年7月31日と書かれています。駅舎は、駅の開業の年に建てられたもののようです。
駅前広場の先に道路が左右に走っています。この道路に向かって「根雨 町並み散策マップ」と書かれた案内板が設置されていました。
そして、道路を渡ったその先には、日野町の行政を担う日野町役場の建物がありました。根雨小学校があったところに建てられたのでしょう。出雲街道に向かって「根雨小学校跡」の石碑が立てられていました。
「根雨の町並散策マップ」にあった案内です。右側の赤マルが案内板のあるところです。そのすぐ左の道が江戸時代の出雲街道です。この後、出雲街道を左方向に向かって歩くことにしました。

案内板のあるところから見た出雲街道の右側の風景です。出雲街道の根雨宿を出た旅人は、この先で日野川を渡り、次の二部宿(現・鳥取県西伯郡伯耆町)から、溝口宿(現・鳥取県西伯郡伯耆町)を通って、米子宿(鳥取県米子市)に向かって旅を続けていました。

出雲街道を左に進み、根雨宿の中心部をめざして歩きます。日野町図書館の前を進み、カーブした先の右側に鳥取銀行根雨支店がありました。

鳥取銀行の駐車場の先にあった案内標識です。 この道の先にある、歴史民俗資料館、本陣の門、根雨宿、日野町公舎、祇園橋などが書かれています。

街道に沿って建つお宅の入口にあった水琴窟(すいきんくつ)です。「かめの上に水を注ぐと、1~2分後、かめの中の水面に水滴が落ち、澄んだ音色が聞こえます」と、説明に書かれていました。

通りの左側のお店の前に「出雲街道根雨宿」と染め上げられた日よけののれんが掛けられていました。

平入りで長い間口と庇を持つ切妻造りの民家に、袖壁(うだつ)のある邸宅が見えました。宿場町の雰囲気を残す通りになっています。

旧街道の左側に、山陰合同銀行根雨支店の建物がありました。道路との境にあった標識には、「旧松江銀行根雨支店 県民の建物百選」と書かれています。

通りの左側の邸宅の隅に常夜灯と祠が見えました。常夜灯には「寛政六寅年」と刻まれていました。この一角は、かつて根雨宿の本陣があったところでした。

旧本陣の門が見えます。根雨宿の本陣跡です。現在では、本陣のあった時代を物語るものは、この門だけになっています。門は、昭和55(1980)年、日野町の有形文化財に指定されています。

旧本陣の向かいにあった、国の登録有形文化財の日野町公舎の建物です。たたら製鉄で財を成し、鳥取県一の生産高をあげていた近藤家の分家だそうです。この建物は、「明治初年に建てられているが、漆喰塗りの壁、虫籠窓、格子づくりなど江戸時代の町屋の構造を継承した建物で、江戸時代の根雨宿の面影を伝えている」と、「説明」には書かれていました。 近藤家の本家は、お向かいで本陣役をつとめておられたそうです。

旧本陣跡を右折して進むと、板井原川に架かる祇園橋(昭和8年竣工)を渡ります。その先に根雨神社があります。
板井原川はこの先で日野川に合流することになります。

根雨神社の鳥居です。鳥居の柱に寄進者として、「近藤善八郎」氏や「近藤清三郎」氏の名前が刻まれていました。

本陣跡に戻りました。旧街道をさらに進みます。

蓋掛けをしているところが多くて見えなかったのですが、旧街道の両側には水路が設けられており、山からの澄んだ水が流れていました。

通りの左側に残っていた水舟です。「昭和30年代に上水道が整備されるまで、山の伏流水を飲料水や生活用水として利用するため、水舟と呼ばれる水槽を設けていた。現在、残っているのは2ヶ所だけになった」と、「説明」には書かれていました。

その先も、旧街道の雰囲気を残す家並みが続きます。
旧街道をさらに進むと、板井原川と平行して進むようになります。

その先で、国道181号と国道180号が合流しています。

根雨宿から、旧出雲街道で上方に向かった旅人は、板井原宿、そして、四十曲(しじゅうまがり)峠を経て、美作国の新庄宿へと向かっていました。





新築されたJR勝間田駅舎

2021年03月16日 | 日記
令和3年2月22日から供用が開始された、JR姫新線の勝間田駅の新駅舎です。 その向こうに、使命を終えた木造の旧駅舎の屋根が見えます。
新旧二つの駅舎が並ぶJR勝間田駅を訪ねて来ました。
JR姫新線は、兵庫県のJR姫路駅から岡山県のJR津山駅を経由してJR新見駅に至る地方交通線です。実際の運用は、姫路駅・佐用駅間、佐用駅・津山駅間、津山駅・新見駅間で区間運行が行われています。 津山駅の2番ホームで出発を待っていた、佐用駅行き、ワンマン運転の単行気動車、キハ120335号車に乗車しました。キハ120系気動車は、全長16.3mのローカル線(地方交通線)用の小型気動車で、JR岡山支社には300番台の15両が配置されています。キハ120335号車は、平成8(1996)年に新潟鉄工所で製造された車両です。

姫新線は、大正12(1923)年、津山駅から新見側に向かって工事が始まり、美作追分駅までが作備線として開業したことに始まります。その後も延伸が続き、昭和11(1936)年には、姫路駅・東津山駅間が全通し姫新線と改称されました。また、津山駅・東津山駅間は、それより早く、昭和3(1928)年に因美南線として、美作加茂駅までが開業したときに開業しています。
列車は、勝間田駅への入口にある金正(かねまさ)踏切から、2面2線のホームに向かって進んで行きました。
津山駅から20分ぐらいで、勝間田駅の1番ホームに到着しました。乗車してきた気動車は、次の林野駅に向かって出発して行きました。 勝間田駅が開業したのは昭和9(1936)年、美作江見駅・東津山駅間が開業したときでした。
昭和12(1937)年に日中戦争から始まった戦争の時代には、「勝間田駅」を「間田勝駅」(「また勝つ駅」)と読んで、戦地に赴く人々は、わざわざこの駅から乗車して縁起をかついでいたと伝えられて います。
 開業からすでに85年が経過しています。
勝間田駅は、津山駅側の西勝間田駅から3.0kmのところ、次の林野駅まで3.6kmのところ、岡山県勝田郡勝央町勝間田に設置されています。 この日は、私以外に3人の方が下車されました。 ちなみに、平成30(2018)年には、勝間田駅の1日平均乗車人員は132人だったそうです。 ホームの端に構内踏切が、その先に、湯郷県道踏切が見えました。 構内踏切を渡って、2番ホームに向かいます。

構内踏切から見た津山方面です。右側に下り(佐用駅方面行き)列車が停車する1番ホームと木造の旧駅舎の上屋が見えます。上り(津山駅行き)列車が停車する2番ホームには、待合室が設置されていました。

待合室です。造り付けのベンチと駅名標があるだけのシンプルな造りになっていました。

待合室の柱に「建物資産標」がありました。「鉄停 駅 待合所1号 昭和11年12月」と記されていました。開業からしばらくして建てられたもののようです。 

向かいの1番ホームの光景です。佐用駅寄りに新しい駅舎とその前に駅名標が見えます。 新しい駅舎の右側の広場には、中鉄北部バス、美作共同バス、なぎバスの駐車場や停留所が設けられています。
 
新しい駅舎の左側にあった木造平屋建て、切妻造りの旧駅舎です。昭和10(1935)年6月に建設されました。中央部の改札口の右側に駅事務室、左側に待合室がありました。駅の上屋を支える柱には補強材が付いています。また、駅舎に接して、左側にトイレもありますが、今は、いずれも「立入禁止」になっています。
佐用駅方面行きの列車が停車する1番ホームに戻ってきました。構内踏切付近から見た津山駅方面です。旧駅舎の現在の姿を確認することにしました。新しい駅舎の前を通過して旧駅舎に向かいます。
旧駅舎前の上屋付近です。

事務所の前には、「トラベル翼」と書かれていました。 勝間田駅は、きっぷの販売だけを個人や法人に委託する「簡易委託駅」になっています。
改札口です。懐かしい鉄パイプの改札口の姿が残っていました。中央部には使用済み切符の回収箱がありました。
改札口から駅舎内を撮影しました。壁に接して造り付けのベンチが見えました。
改札口の右側のようすです。駅舎への出入口や出札窓口があります。 
「”元気な勝央” 心豊かに安心して暮らせる自然と文化の町」と書かれた掲示がありました。 開業した頃の勝間田駅は、岡山県勝田郡勝間田町勝間田にありました。その後、昭和29(1954)年に、勝間田町は周辺の植月村、古吉野村、高取村の1町3村と吉野村の一部が合併して、現在の勝田郡勝央町勝間田となりました。 
事務室内は、すでに駅機能の廃止に伴う整理が終わっているような印象でした。

かつての勝間田駅の姿を伝えてくれる、平成24(2012)年頃の写真です。勝間田地域や旅に関する情報にあふれた駅でした。
1番ホームを引き返して新しい勝間田駅舎に入ります。これまでの駅舎から20mぐらい東に建てられた、84平方メートルの新駅舎です。
通路には、新しい木製のベンチが置かれています。壁面には時刻表や運賃表などが掲示されていました。
通路の左側に、金太郎のキャラクターが描かれたベンチがありました。
 ”まさかりかついだ金太郎” のモデル坂田公(金)時は、駿河国(静岡県)の生まれ。 丹波国大江山の酒呑童子を退治するなどの手柄をたて、その武功を称えられていました。その後、九州の賊を征伐するために播磨国から美作国に入り勝間田の陣屋に滞在中、大雪と高熱のため、寛弘7(1010)年12月、この地でその生涯を終えました。地元、勝間田の平地区の人たちは、その武勇を称え、「剛勇」を意味する具利伽羅(くりから)権現と称してお祀りしました。明治6(1873)年栗柄神社と改称し、10年後の明治16(1883)年には社殿を改築して、今日までお祀りを続けて来られたそうです。

通路の左側に、駅事務室と待合室が設けられています。木製のベンチも置かれていました。左側は駅事務所です。カウンターには記念スタンプがありました。屋外には、門型フレームが並んで立つ広場がつくられていました。

駅舎内にあった新駅舎完成記念のスタンプです。 新駅舎が供用開始となった令和3(2021)年2月22日の日付が入っています。左右に書かれている「勝 勝 勝」は、駅のある田郡央町間田を表しているそうです。地名に3回も「勝」の字が並び、縁起がいい町ということで訪ねる人も増えているそうです。

駅舎からの出口付近に「きんとくんロビー」とかかれた掲示物がありました。「きんとくん」は、コンコースのベンチに描かれていたキャラクターです。坂田公(金)時の没後1000年を記念して誕生した、勝央町のマスコットキャラクターだそうです。新しい駅のロビーの名前にもなっています。

駅前広場から見た駅舎の正面です。黒色に塗られた屋根と壁面から上品で重厚な印象を受けます。左側はトイレになっています。
旧駅舎側から見た門型をしたフレームが並んでいるスペースです。青い空と明るい日射しの下、多くの地域の人々が集い、交流を深める場になっていくことでしょう。

これは新しい勝間田駅舎の前にあった、駅舎についての「説明」です。
勝間田には古くから播磨国の姫路と出雲国の松江を結ぶ街道、出雲街道が通っていました。江戸時代になってから、出雲国の松江藩や広瀬藩、美作国の勝山藩、津山藩などの参勤交代の道として、江戸時代初期に津山藩主の森家によって整備されました。江戸時代を通して、多くの人々や様々な物資が行き来するようになり、勝間田も、宿場町として、また、様々な物資の集散地として栄えていました。美作国には、勝間田のほか、土居、坪井、久世、勝山、美甘、新庄にも宿場(美作7宿)が置かれていました。
地元の勝央町がJR西日本と進めた新しい勝間田駅の建設は、「出雲街道と勝間田宿」をモチーフにして進められたそうです。門の形をした7つのフレームのそれぞれを「美作7宿」に見立てて配置したそうです。美作国の東から二つ目の宿場である勝間田を、コンコースの部分のフレームに見立てているのだそうです。久世宿から新庄宿は、屋根のない部分のフレームにあたるようです。

駅前広場から見た旧勝間田駅舎です。下見板張りの外壁が、建設された昭和10(1935)年当時の面影を伝えくれています。出入り口の三角の庇が印象的な建物です。 令和3(2021)年2月22日から供用が始まった新駅により、使命を終えたこの旧駅舎は、今後、撤去工事が行われることになっています。
85年間を越える年月、勝間田の町や人々を見守り続けてきた駅舎は、やがて来る撤去の日まで、短い余生を送ることになります。 



JR常山駅と友林堂

2021年02月09日 | 日記

岡山市灘﨑支所の前の道路から見た常山(つねやま)です。標高307m。この近辺では、金甲山、怒塚山に続く3番目に高い山だといわれています。その秀麗な姿から、地元の人々からは「児島富士」とも呼ばれています。
この通りをまっすぐ進んだ常山の左側の裾野に、JR常山駅があります。

常山駅への入口に来ました。前方左側には、国道30号の高架橋が見えます。
JR宇野線は、明治43(1910)年6月12日、岡山駅・宇野駅間の全線(全長32.8km)が開業しました。同じ日、宇野港と香川県の高松港を結ぶ宇高連絡船も運航を開始しています。それからは、本州から四国へ向かう多くの人々に利用されて来ました。宇野線の電化が完成し電車の運行が始まったのは、開業から50年後の昭和35(1960)年10月1日のことでした。

駅前広場のホーム寄りにつくられていた駐輪場です。自転車がぎっしりといっていいほど並んでいます。平成30(2018)年の常山駅の1日平均の乗車人数は452人だったといわれています。この自転車の数を見ると高校生や大学生の利用が多いのでしょう。 駐輪場の屋根の上にホームの待合室が見えました。

駐輪場からホームの左側に出ました。 長いホームが見えます。 
順調に発展してきた宇野線が、四国へのメインルートの地位を失ったのは、昭和63(1988)年の本四備讃線(茶屋町駅・宇多津駅間)の開業により、岡山駅と高松駅間を1時間程度で結ぶ、快速マリンライナーの運行が始まったことがきっかけでした。この時、宇野線の開業と同じ日に運航が始まった宇高連絡船も、高速艇の運航を除いて廃止されました。そして、その高速艇も平成2(1990)年には運航休止、その翌年の平成3(1991)年には廃止となりました。

常山駅は、昭和14(1939)年1月に開業しました。開業からすでに80年が経過しています。 ホームへは、常山踏切の手前から入る構造になっています。
平成28(2016)年3月26日から、場内放送等では、岡山駅から茶屋町駅・児島駅・高松駅方面に向かう路線を「瀬戸大橋線」と、茶屋町から宇野駅に向かう路線を「宇野みなと線」と愛称で呼ぶようになりました。同じ宇野線でありながら、茶屋町駅・宇野駅間はローカル線のような路線になっています。

常山踏切から見た1面1線の常山駅のホームです。宇野線の茶屋町駅・宇野駅間では唯一、交換設備のない駅になっています。ホームには、ICOCAの精算機、使用済み切符の収納箱、史跡名勝の案内看板、駅名標、待合室などが並んでいます。

ホームの待合室の手前に、"La Malle de Bois SETOUCHI"(ラマルドボア 瀬戸内)の幕が張られています。 令和2(2020)年度も、「旅行かばん」を意味する観光列車が、毎週土曜日に岡山駅・宇野駅間で運行されています。

岡山駅の5番乗り場で出発を待っている”La Malle de Bois"  です。本四備讃線の開業時に快速マリンライナーとして使用されていた213系電車を改装した観光列車です。

観光列車の側面にも、”La Malle de Bois"と書かれています。
昭和50(1975)年に建設された鉄骨造り、広さ1坪ぐらいの待合室です。宇野線の茶屋町駅の次の駅、彦崎駅から宇野駅までの駅には、このような装飾を施された待合室やホームがつくられています。 ホームの先に国道30号の高架橋が見えます。
常山駅は、茶屋町駅側の迫川駅から1.3km、宇野駅側の八浜駅から2.5kmのところにあります。常山駅は、宇野線の開業から29年後の昭和14(1939)年に開業しました。当時の所在地は、児島郡荘内村宇藤木(うとうぎ)でした。玉野市に編入された昭和29(1954)年4月1日から、現在の玉野市宇藤木になっています。
ホームから見た、駅前広場です。公園風のスペースです。
常山駅があるあたりは、かつては、文字通り「児島」という島でした。児島の北側には”吉備の穴海”と呼ばれる海が広がっていました。「岡山県の三大河川」といわれる高梁(たかはし)川、旭川、吉井川によって堆積された土砂のため、干潟が広がっているところも多く、江戸時代初期から干拓が行われて来ました。こうして、かつての児島は、本州と陸続きの児島半島となり、”吉備の穴海”の東側は児島湾になったといわれています。常山のある旧児島郡は、この児島半島を中心にした地域の郡名でした。 
駐輪場の向こうに、常山の山裾にある玉野市宇藤木の集落が見えます。

宇野駅から来た茶屋町駅行きの普通列車(213系電車)が到着しました。
かつて、快速”マリンライナー”として岡山駅と高松駅間を往復していた時と同じ塗装のまま、普通列車として運用されています。宇野線の列車は、通勤・通学時間帯には岡山駅・宇野駅間で列車の運行がされていますが、昼間時間帯には宇野駅と茶屋町駅間での運行が中心になっています。
ホームにあった史跡・名勝の案内板の常山駅周辺です。常山の山頂には、戦国時代、常山城がありました。城主は上野隆徳、妻の鶴姫は備中松山城を本拠地とする三村元親の妹でした。三村元親は安芸国の戦国武将、毛利氏と結んでいましたが、毛利氏の要請に応えて、備前国の宇喜多直家と戦った”明禅(善)寺の合戦”(永禄10年=1567年)で、三村方が敗れたことから、後に織田信長と結ぶようになりました。その結果、裏切られた毛利氏の憎しみを買うことになってしまいました。
毛利方は小早川隆景(毛利元就の二男)を総大将に、天正2(1574)年10月から翌3(1575)年にかけて、三村氏の本拠地である備中松山城の周辺にあった、三村氏と結ぶ城の攻撃を始めました。三村氏の分家が拠る成羽城(旧川上郡成羽町)や、猿掛城(小田郡矢掛町)、国吉城(旧川上郡川上町)、佐井田城(旧上房郡北房町中津井)、新見城などが、次々に落城して行きました。

茶屋町行きの電車が、次の迫川(はざかわ)駅に向かって出発して行きました。

三村元親の拠点、備中松山城は、周囲の城が落城したことにより、毛利方に包囲され孤立無援の状態になりました。毛利方は、天正3(1575)年3月7日、高梁川と成羽川の合流点に近い広瀬・玉村で攻撃を開始しました。しかし、緒戦でかなりの犠牲者を出す結果となり、毛利方は兵糧攻めに戦法を切り替えました。そのため、三村方には退散する者や毛利側と内通する者が絶えず、同年5月22日、備中松山城は落城してしまいました。そして、同年6月2日、城主、三村元親は毛利氏の検視を受けて城下の松蓮寺で切腹し、備中一の勢力を誇った三村氏はここに滅亡しました。

常山駅の周辺を歩いてみることにしました。
常山踏切から、正面に見える常山に向かって歩きます。

毛利氏の前に三村氏は滅亡しましたが、三村氏と縁のある武将がまだ残っていました。常山城主の上野隆徳でした。彼の妻は三村元親の妹でした。上野隆徳を討伐するため、小早川隆景(”三本の矢”で知られる毛利元就のニ男)は総大将として南下し、常山城を包囲しました。上野方には300余人の兵力しかなく、圧倒的に劣勢でした。常山城は、孤立状態となり、城から抜ける兵も多かったといわれています。
天正3(1575)年6月4日から毛利方の攻撃が始まりました。上野方の多くは傷つき、全員が討ち死にを覚悟しました。そのとき、城主上野隆徳の妻である鶴姫は、城内の侍女たちとともに、山麓に陣を張っていた毛利方の浦野兵部宗勝(乃美宗勝)の軍に突入しました。しかし、討ち死にする者や負傷する者が後を絶たず、城内に引き揚げ自害しました。上野隆徳も自害した常山城は、6月6日、落城しました。 
常山の山頂には、鶴姫や侍女たちを祀る、34基の「女軍の墓」がつくられ、上野方の人々の勇敢な、そして悲惨な最期のようすを今に伝えています。

写真は、常山に登っていく通りの右側にあった石碑です。昭和14(1939)年に建てられたこの石碑には「常山城址友林堂」と刻まれています。 石碑の脇にあった「友林堂 0.1km」と書かれた道標にしたがって進みます。急斜面の坂道です。

右側に白壁の土塀が見えました。友林堂です。
落城した常山城は豊臣秀吉の時代には宇喜多秀家の所領となり、宇喜多直家の重臣だった戸川秀安が城主として入城しました。戸川秀安は、岡家利、長船貞親と並ぶ”宇喜多三老”の一人でしたが、2万5千石を領し、宇喜多家一の重臣となりました。

戸川秀安(以下「友林」)は、宇喜多直家の死後、家督を子の戸川達安(みちやす)に譲り、”友林”と号して隠居しました。そして、慶長2(1597)年に亡くなりました。「説明」には、友林堂は「友林の位牌を安置する霊廟であり、文化2(1805)年に、撫川(なつかわ)、早島、帯江、妹尾知行所(旗本領)の戸川四氏によって建立された」と書かれていました。
友林堂です。唐破風入母屋造りの拝殿です。正面の唐破風の上に千鳥破風を乗せています。「荘重で優美な外観」と「説明」には書かれています。瓦には「三本杉」の戸川家の家紋がついていました。
友林堂から一つ上の段に上がります。豊島石でつくられた二つの五輪塔がありました。左側が日賢の墓(高さ137cm)、右側が日教の墓(高さ124cm)だといわれています。二人は「友林の重臣と伝えられている」(説明板)そうです。「戸川氏は日蓮宗を保護していたので、仏門に入ってからの名前が伝わっているのでは・・」と、友林堂を管理しておられる方が教えてくださいました。
日賢と日教の五輪塔の左側に、玉垣で囲まれた五輪塔がありました。友林の五輪塔(高さ245cm)です。 近くにあった説明には、「墓守の則武氏(のち大塚氏)代々が友林の位牌を祀っていたが、文化2年、戸川氏が霊廟を建てたので、そこに安置した」と書かれていました。
少し上から見た友林堂の全景です。友林の五輪塔と家臣の日賢と日教の五輪塔、その下に、友林の位牌を祀る霊廟である友林堂が見えました。 その向こうにある岡山市藤田地区の干拓地と児島湖に注ぐ鴨川、そして、児島半島の山並みを眺めることができます。

その後、常山城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、宇喜多氏に替わって岡山藩主となった小早川秀秋の所領となり、家臣の伊岐真利が城主となりました。慶長8(1603)年、小早川秀秋が病死し改易になると、池田忠継が新たに岡山藩主となりました。
そして、常山城は、その池田忠継によって廃城とされました。

JR宇野線の常山駅を訪ねる旅は、常山にかかわる歴史を訪ねる旅になりました。ご説明をいただいた友林堂を管理されている方に、お礼を申し上げます。 


JR早島駅を訪ねる

2021年01月31日 | 日記
昭和31(1956)年に建設された鉄骨造りの早島駅です。
岡山市と倉敷市の間に位置する岡山県都窪郡早島町にあるJR宇野線の駅ですが、令和2(2020)年4月11日から無人駅になりました。 JR西日本岡山支社管内では、他に、山陽本線の鴨方駅と西阿知駅が、同じ日に無人駅になっています。
駅舎内に入りました。駅舎の左側に自動券売機と運賃表、閉鎖された窓口が見えます。開設されていた「みどりの窓口」は無人駅となる前日に閉鎖されたそうです。早島駅は、明治43(1910)年6月12日、宇野線の岡山駅と終着駅の宇野駅間が開通したときに開業しました。早島町内にあった「説明」によれば、開業当時は「貨客混合の列車で、岡山駅と宇野駅を1時間半ぐらいで結んでいた」そうで、当時の運賃は「1等 87銭 2等 51銭 3等 29銭だった」そうです。

右側のスペースは、待合室になっています。木製の細長いベンチの表面には、早島町の伝統産業である、い草で織られた上敷が使用されています。

待合室の一角には、地元の人が生けられたと思われる生花が飾ってありました。

早島駅の1日平均の乗車人員は、平成30(2018)年には1,238人だったそうです。 改札口からホームに出ます。 宇野線が開業した日、宇野港と対岸の高松駅を結ぶ宇高連絡船も運航を開始し、玉藻丸と児嶋丸が就航しました。それ以後、宇野線は、四国への玄関口へ向かう路線として、多くの人々に利用されて来ました。宇野線も早島駅も、開業からすでに110年が経過しています。

駅舎側の1番ホームから見た改札口です。駅名標が見えます。早島駅は岡山駅側の備中箕島(びっちゅうみしま)駅から1.4km、宇野駅側の久々原(くぐはら)駅から1.7kmのところに設けられています。宇野線は、現在、久々原駅と早島駅間1.7kmだけが複線区間になっています。

早島駅は相対式2面2線のホームになっています。改札口の正面の2番ホームにあった待合室です。駅名標とベンチが見えました。右側の「2」のマークの下には、建物資産標がありました。「建物資産標 鉄 停骨 待合所 1号 平成27年12月」と記されていました。

ホームのようすを見てみることにしました。駅舎寄りの1番ホームを宇野駅側に向かって歩きます。1番ホームは、岡山方面に向かう列車が停車することになっています。長いホームの先に六の割踏切が見えました。 
ホームに隣接して変電設備がありました。宇野線が電化されたのは、開業から50年後の昭和35(1960)年10月1日のことでした。
快速マリンライナーが2番ホームに到着しました。岡山駅から、瀬戸大橋を経由して香川県の高松駅との間を1時間程度で結んでいます。この先、宇野線の途中駅である茶屋町駅(所属は宇野線)を起点とする本四備讃線(茶屋町駅~宇多津駅)、予讃線(坂出駅~高松駅)を通って高松駅に到る列車です。実際の運用は、宇多津駅を経由しないで、瀬戸大橋から短絡線(通過線)で、直接、坂出駅に乗り入れています。

マリンライナーが出発して行きました。 瀬戸大橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化したのは、昭和30(1955)年5月11日、濃霧の中を出港した宇高連絡船の紫雲丸が、同じ宇高航路の大型貨車運航船、第3宇高丸と衝突して沈没、修学旅行の小・中学生を含む168人が死亡した事故がきっかけでした。多くの犠牲者を出した悲惨な事故から30年余が経過した、昭和63(1988)年、瀬戸大橋を渡る本四備讃線が開通しました。
JR西日本は、平成28(2016)年3月26日から、駅の案内放送等で、マリンライナーが走る岡山駅から高松駅間を「瀬戸大橋線」と、宇野線の茶屋町駅から宇野駅間を「宇野みなと線」と、愛称で呼ぶようになりました。
1番ホームを引き返します。駅舎に隣接しているトイレ付近から見た岡山駅側です。駅舎前のホームを覆う上屋と、茶屋町・児島・高松・宇野駅方面に向かう列車が停車する2番ホームとを結ぶ跨線橋が見えました。
跨線橋より岡山駅側の1番ホームから見た2番ホームです。駅名標の向こうに「上敷ござの早島」と書かれた角柱の看板が見えます。側面には、「花ござの早島」と書かれています。駅舎内にあったベンチの上敷を思い出しました。

跨線橋に上がりました。跨線橋の上から見た駅前広場と早島の家並みです。

駅前の岡山駅寄りには白壁の観光センターと早島駅への取付道路(県道185号 早島停車場線)が見えます。取付道路は、国道2号(旧2号バイパス)の無津交差点と早島駅を結ぶ4車線の道路で、平成11(1999)年に改修されました。

4車線の取付道路と早島町の中心部のようすです。


跨線橋から見た宇野駅方面です。ホームと駅舎、待合室と駅名標があるだけのシンプルな駅の姿が見えます。
跨線橋から見た2番ホームの裏側(南東方向)の光景です。はるか向こうに円錐形をした常山(つねやま 標高307m)が見えます。常山は、その姿から「児島富士」とも呼ばれています。
戦国時代、早島から東に接する箕島(みしま)、妹尾(せのお)地域の南側には、”吉備の穴海”が広がっていました。この地を支配していた戦国大名、宇喜多秀家は、南に広がる干潟の干拓を思いつき汐止めのための堤防、"宇喜多堤(うきたつつみ)"を築きました。この宇喜多堤の築造から昭和30年代まで、南に広がる”吉備の穴海”を干拓する工事が進んで行きました。今では、広い干拓地が常山の麓から左側のあたりまで広がっています。

早島駅は早島町の前潟地区にあります。「前潟」の地名は、「前にある干潟を干拓してできたところ」ということから名づけられたといわれています。
前潟地区の干拓は、江戸時代前期の寛文7(1667)年に始まりましたが、宇喜多堤の度重なる決壊や干拓のための資金の不足など、大変な苦労を重ねて、延宝7(1679)年に完成しました。町内の前潟地区にある神社には、前潟干拓250周年を記念して、大正7(1918)年に建てられた「開墾記念碑」がありました。この写真は、神社にあった前潟干拓の「説明」の中に載せられていたものですが、「説明」には「早島戸川家の第13代当主、戸川安宅(やすいえ)氏も訪れている」と書かれていました。前列のシルクハットの男性が、早島(旗本領3400石)の領主、戸川家の”お殿様”だった戸川安宅氏だそうです。

1番ホームに普通列車が到着しました。早島駅を出た宇野方面に向かう列車は、この後、かつての海岸線に沿って走り、常山の左側の山麓を宇野駅に向かって進んでいくことになります。

駅舎から外へ出ました。駅舎前には「早島駅前広場」が整備されています。
公園内には、早島町の歴史や文化など町のようすを伝える「いま むかし」という「説明」がいくつかつくられていました。その中の一つに、「早島町の人々は干拓で生まれた新たな土地に、い草を植え、”早島表”と呼ばれる畳表を織り、”い草と畳表のまち 早島” の名声を得るまでになりました。”早島表”は近くを流れる汐入川を下り、児島湾から瀬戸内海を経て大坂や江戸に運ばれ、全国の人々に親しまれていました」と書かれていました。

早島の町並みを歩くことにしました。白壁の早島町観光センターの脇から、4車線の駅への取付道路を進み松尾坂交差点に着きました。この先、道路は松尾坂への登り坂になります。左右の通りは県道倉敷妹尾線(県道152号)で、”吉備の穴海”の干拓のために築かれた長さ50町(約5.5km)ともいわれる”宇喜多堤”があったところにつくられた道路だといわれています。 

交差点の左側にあった「説明」には、この先にある松尾坂から「町筋に入る道路は、坂の途中から南に下り、横町を通り駅筋に出ていた」と書かれています。 その道をたどって早島駅に戻ることにしました。交差点を直進し、松尾坂に向かって歩きます。「通学路」の標識の向こう側の電柱に、「金毘羅往来」と書かれた白地に横長の案内標識が掲げられています。

「金毘羅往来」の標識があるところで左折して進み、さらにその先の三差路を左折して進みます。

左折すると正面に灯籠がありました。灯籠の正面に「金毘羅大権現」と「市場村講中」、右側面に「吉備津宮」、左側面に「氏神両社」、裏面に「文化十四年丁丑 夏五月建立」。また、右側にある道標には、正面に「右 ゆかさん こんひら 道」、右側面に「左 きひつ宮 をかやま 道」と刻まれていました。

灯籠と道標の間にあった「説明」には、「海の神として信仰を集めている金毘羅宮への参詣が、全国的に流行したのは江戸時代後期の文化・文政時代(1804年~1829年)頃からで、由伽山との両参りで多くの参詣者を集めた。早島も金比羅宮への参詣道(金比羅往来)が経由していたところで、町内には宿や道標、灯籠がつくられ旅人の便宜を図ってきた」と、書かれていました。 灯籠には、遙拝所の機能もあったようで、二つの氏神(吉備津宮・金毘羅宮)の神社の名前が刻まれたところに向かって礼拝するようになっていたようです。
灯籠と道標の前を右折して進むと、右前に洋風の住宅が見えました。早島町指定文化財(平成6年11月15日指定)の清澄邸です。町内で唯一の明治の洋風建築だそうです。「明治の雰囲気を今に伝える貴重な建物」と「説明」には書かれていました。

清澄邸の角で左折して、早島駅に戻ることにしました。県道倉敷妹尾線を渡ります。写真は先ほど右側から左側に渡った松尾坂交差点方面です。
県道を渡ってしばらく歩くと、通りの先に早島駅が見えるようになりました。この道は「駅筋」と呼ばれています。「この通りには、い草や畳表の問屋や、旅館、食べ物屋が軒を連ね、大いに賑わっていた」と、「説明」には書かれていました。多くの建物が建て替えられていましたが、往事の雰囲気を残すお宅も残っていました。 
駅筋は、早島駅の正面につながっていました。

早島駅を訪ねるためにやって来た早島町でしたが、町内には歴史や文化に関する丁寧な説明が設置されており、早島の町についても十分理解することができました。楽しい旅になりました。





JR阿波川島駅と川島城

2021年01月09日 | 日記
JR徳島線の阿波川島駅です。木造駅舎ですが、改装されており、白壁が印象的なモダンな駅舎に生まれ変わっています。
この日は、阿波川島駅を訪ねるため、JR阿波池田駅に向かいました。

ホームには、徳島駅行きの1500形気動車の1501号車が出発を待っていました。1500形気動車はJR四国によって、旧国鉄気動車の更新のために製作された車両で、排気ガス中のチッ素酸化物を従来車両より60%削減した、環境に優しいクリーン車両として知られています。ワンマン運転の2両編成でしたが、後側の車両(1505号車)は「回送扱い」になっていました。どちらの車両も平成18(2006)年に新潟トランシス(旧新潟鐵工所)で製造されました。
徳島線は、JR土讃線の佃駅(三好市)からJR高徳線の佐古駅(徳島市)に到る全長67.5kmの地方交通線です。実際の運用は、JR土讃線の阿波池田駅とJR高徳線の徳島駅間で行われています。 阿波池田駅から、”四国三郎”の愛称をもつ吉野川の南岸を走ってきた列車は、阿波池田駅から1時間程度で、阿波川島駅の駅舎寄りの1番ホームに到着しました。


下車したのは私を入れて2名。列車はすぐに、次の西麻植(にしおえ)駅に向かって出発して行きました。列車が出発した後の向かいのホームには、長い待合室とベンチが見えました。
到着したホームの徳島方面の端まで来ました。徳島線は全区間単線、非電化の鉄道です。阿波川島駅を出ると、右にカーブしながら進んで行くようです。
JR徳島線は明治32(1899)年2月16日、徳島鉄道によって徳島駅~鴨島駅間が開通したことに始まります。
1番ホームから見た阿波池田方面です。白壁の駅舎の手前に駅名標、駅舎の先に、跨線橋が見えます。
明治40(1907)年、当時開業していた徳島駅~船戸駅間が国有化され、明治42(1909)年には、線名が「徳島線」と改称されました。さらに、大正2(1913)年には「徳島本線」と改称され、その後、大正3(1914)年3月、川田駅~阿波池田駅間が開通し、現在の徳島線の全線が開通することになりました。

駅名標です。阿波川島駅は、吉野川市川島町にあります。一つ前の学(がく)駅から3.5km、次の西麻植駅まで1.9kmのところにあります。
徳島本線は、その後、昭和62(1988)年、国鉄の分割民営化を経て四国旅客鉄道(JR四国)に継承され、翌年の昭和63(1989)年には、線名をもとの「徳島線」に再度改称されました。

阿波川島駅は2面3線のホームになっています。2番、3番のりばへは、跨線橋で移動することになります。跨線橋の手前の駅舎部分にはトイレがありましたが、黄褐色のドアには「使用を停止している」旨の張り紙がありました。
駅舎側の1番ホームを、阿波池田方面に向かって歩きます。
跨線橋の上から見た阿波池田駅方面です。 右側に1番線、中央が2番線、左側が3番線です。
阿波川島駅は、明治32(1899)年8月19日、徳島鉄道が鴨島駅と川島駅間で延伸開業させたときに開業しました。その後、大正3(1914)年3月25日に、「神後駅」と改称されましたが、翌年の大正4(1915)年7月1日、現在の「阿波川島駅」に改称されています。 すでに、開業から120余年の歳月が流れています。
跨線橋の上から見た川島町の光景です。駅舎の向こうの小高い丘の上に天守閣が見えました。

島式ホームに降りました。駅名標の先に待合室が見えます。ベンチが設置されているだけのシンプルなつくりになっていました。
中央に掲示されていた案内板です。国鉄時代を思い出させるような手書き風の案内板です。「穴吹 あわ池田 方面」と書かれています。
跨線橋に貼り付けてあったプレートには、「阿波川島駅こ線橋 国鉄四国総局 設計  着手 昭和59年12月18日  竣工 昭和60年3月27日」と記されていました。
跨線橋から見えた駅舎です。木造駅舎ですが、改装されていて、徳島側に駅舎への入口が見えます。
駅舎内です。 阿波川島駅は、かつては午前中のみ駅員が配置されていたそうですが、平成22(2010)年10月1日からは無人駅になっているそうです。
ホーム側から引き戸を開けて入ると、左側にカウンターと出札口がありました。右側には木製のベンチが置かれています。
ホームへの入口の手前には、自動券売機と時刻表がありました。運賃表は自動券売機の上の部分に標示してありました。
駅前広場からの駅舎です。
駅舎の右側には駐車場、その先に跨線橋が見えます。
駅舎の左側の広場には、吉野川市川島町の観光案内の説明板が設置されていました。川島町はもと麻植(おえ)郡川島町でしたが、平成16(2004)年、同じ麻植郡内の鴨島町、山川町、美郷村が合併して吉野川市となりました。当時、徳島県内で5番目の市だったそうです。市庁舎は鴨島町に置かれています。
駅舎前のようすです。 
跨線橋から見えた天守閣を見に行くことにしました。駅前から真っすぐ進みます。
東西の通りに出ました。ここで右折して進みます。旧街道の雰囲気を感じる通りです。
やがて、正面に天守閣が見えるようになりました。標高37.42mの吉野川に突き出た山塊に建てられています。 現在の鉄筋5階建ての天守閣が建てられたのは、昭和56(1981)年。 勤労者福祉施設として開館しました。

その先に、川島神社の鳥居と、幟が見えました。鳥居を越えると、ゆるやかな登り坂になりました。 現在、川島城の天守閣がある所は、戦国時代から江戸時代にかけて、川島城があったところです。しかし、かつての川島城の姿を伝える史料がなかったため、天守閣の入口の掲示物には、現在の城は「架空の城である」と書かれていました。
左側に川島神社が鎮座しています。
川島城にかかわる歴史を少し・・・、
南北朝時代の建武元(1334 )年、阿波国を支配下に収めたのは細川氏でした。時代は移り、戦国時代の天文22(1553)年、細川氏は家臣の三好長慶に滅ばされます。永禄5(1562)3月、三好長慶と弟の義賢は泉州久米田(岸和田市)へ兵を進めましたが、討ち死にしてしまいました。

川島神社の右側に、川島城の模擬天守閣がありました。どっしりとした存在感のある建物です。正面の階段を上って行きます。
JR阿波川島駅から南へ1.1km、四国山地の中腹(標高120m)に上桜(うえざくら)城跡がありますが、ここは、戦国時代に勝瑞城主、三好家の侍大将、篠原長房の居城でした。しかし、讒言に遭い、三好長治(三好義賢の長子)に攻められ、篠原長房は戦死し、上桜城は落城しました。

この年、三好氏の家臣である川島兵衛進(ひょうえのしん)が、元亀3(1572)年、上桜城址の北、標高50mの丘陵上に、本丸、二の丸、三の丸を擁する川島城を築きました。しかし、重臣を失った阿波国は、天正7(1579)年に、岩倉の合戦で、土佐の長宗我部元親に制圧され、川島兵衛進は阿波国の諸将一族と共に戦死しました。

その後、阿波国に入った蜂須賀家政は、天正13(1585)年阿波国の要衝の9ヶ所に、城塁の構築を命じ、手勢300人を配置して守らせました。川島城は、その”阿波9城”の一つとなり、川島城の城番には家老職の林図書亮能勝(後の道感)が配置されました。しかし、江戸時代の寛永15(1638)年、一国一城令の発布により廃城となってしまいました。

最近行われた耐震診断の結果、川島城は、3階と4階部分が耐震基準を満たしていないことが明らかになりました。そのため、平成31(2019)年4月1日から閉館の措置が採られています。
天守閣の隣にはテニスコートが整備されていました。この日は利用されている方はおられませんでしたが、多くの働く人たちに利用されて来たことでしょう。
テニスコートの北側には、吉野川がゆったりと流れています。川島城は、吉野川に突き出した山塊に築かれていたことがわかります。

JR阿波川島駅を訪ねる旅は、模擬天守の川島城の歴史を訪ねる旅にもなりました。 早い再開を待ちたいと思います。

JR美作江見駅と出雲街道

2021年01月01日 | 日記
JR姫新線は、兵庫県のJR姫路駅から岡山県のJR津山駅を経由してJR新見駅を結ぶ鉄道路線(地方交通線)です。姫路駅から新見駅まで直通する列車はなく、姫路駅~佐用(さよ)駅・上月駅間、佐用駅(兵庫県)~津山駅間、津山駅~新見駅間での区間運転が行われています。                                                                        
レトロな雰囲気が漂う駅舎です。JR姫新線の美作江見駅です。昭和10(1935)年6月に建設されたといわれています。 この日は、美作江見駅を訪ねるため、津山駅から佐用駅に向かう姫新線の気動車に乗車しました。

JR津山駅から乗車したワンマン運転のキハ120系単行気動車は、30分ちょっとでJR美作江見駅の駅舎側2番線に到着しました。キハ120系車両は、岡山気動車区に15両が在籍しており、津山線、姫新線、因美線、伯備線で運用されています。写真のキハ120ー334号車は、平成7(1995)年に新潟鉄工所(2003年から新潟トランシス社)で製造された車両です。

下車したのは私一人だけでした。下車すると気動車は、次の美作土居(みまさかどい)駅に向かって出発して行きました。 

美作江見駅は相対式2面2線のホームになっています。向かい側の1番ホームに待合室が設けられています。駅名標とベンチがあるだけのシンプルなつくりになっていました。

2番ホームを佐用駅に向かって進みホームの端に来ました。ホームに沿って集合住宅が建っていますが、その前にあるホームから出ていく通路に出ました。

通路は、ホームの端で1番ホームに行く構内踏切に続いていました。1番ホームは、津山方面に向かう大部分の列車が停車するようになっています。構内踏切から見える収穫の終わった田が途切れた先に、吉野川が右方面に向かって流れています。
1番ホームの佐用駅側のホームの端から見た美作江見駅の構内です。右側の2番ホームの先に駅舎が見えました。前回訪ねた同じ新姫線の林野駅もそうでしたが、この駅も長いホームを持っています。
1番ホームを津山方面に向かって進みます。集合住宅の向かい側に駅名標が設置されていました。美作江見駅は、一つ津山駅寄りの猶原(ならはら)駅から3.4km、次の美作土居駅へ5.4kmのところ、美作市川北にあります。1番ホームの向かいに側にも駅名標が設置されていました。 1番ホームの先に上屋が見えます。

ホームの上屋の内部です。 美作江見駅は、昭和9(1934)年11月、姫津(ひめつ)西線の東津山駅・美作江見駅間が開業したときに、終着駅として開業しました。そして、昭和11(1936)年4月、美作江見駅と姫津東線の佐用駅間が開業し、姫津東線が姫津西線を編入して姫津線と改称されました。さらに、同年11月に、姫路駅・新見駅間の路線名が姫新線と改称されました。
待合いスペースから見た2番ホームです。正面に駅舎の改札口とベンチが見えました。

1番ホームの上屋付近からの津山駅方面です。右側の2番ホームに駅名標が見えます。その向かいの1番ホームにもほぼ同じ位置に駅名標が設置されています。駅名標も駅舎もホームの上屋も、2つのホームのほぼ同じ位置に設置されていました。
津山駅側のホームの端のようすです。1番線から側線が分岐し、その先で2番線と合流して、津山方面に線路が延びています。
側線は佐用駅方面に向かって延びています。
美作江見駅のある旧英田郡江見町は、昭和28(1953)年、土居町、福山村、粟井村、吉野村と合併して英田郡作東町となり、平成17(2005)年、作東町が周辺の5町村と合併して、美作市となりました。江見の地域は、米や野菜、タバコなどの生産や、酪農、養豚、林業なども盛んで、吉野川流域の物資の集散地として栄えていたところでした。
側線の車止めです。 側線は、多くの物資が貨物列車に積み込まれ輸送されていた頃の面影を、今に伝えています。

ホームの佐用方面の端まで戻りました。佐用駅行きの列車は、美作江見駅の東側で大きく左にカーブしながら荒堀踏切(姫路駅から62k739m)を通過して行くことになります。 2番ホームから駅舎に向かいます。

駅名標が吊り下げられている改札口から駅舎内に入ります。
改札口の左側にはベンチが置かれ、待合いのスペースになっています。ベンチ脇には、ドアが開いたままになっていましたが、水洗トイレが設置されていました。
改札口の脇には時刻表がありました。津山駅・上月駅間2往復、津山駅・佐用駅間7往復、他に、津山駅から来て美作江見駅で折り返す列車が2往復ありました。この日は、下車してから誰ともお会いしていませんでしたが、平成30(2018)年の1日平均乗車人員は53人だったようです。

改札口に向かって左側には出札窓口がありました。美作江見駅は、切符の販売だけを個人または法人に委託する簡易委託駅になっています。

駅前広場に出ました。開業の翌年、昭和10(1935)年6月に完成した木造の切妻造りの駅舎です。下見板張りの外壁が、この駅の長い歴史を伝えてくれています。
駅舎の右側にはトイレ、駅舎の左側に小庭園が設けられていました。

駅名標が出入口の上の屋根に掲げられていました。
駅前広場の一角に、記念碑が立っています。「姫新線全通四十五周年記念」(昭和56年12月造園)の記念碑です。 姫新線に寄せる地元の人たちの思いが伝わって来ました。
駅への取付道路の起点になっているのが、姫新線と平行して走る国道179号です。左方向が津山方面に、右方向が佐用方面になっています。国道179号は、”出雲街道”と呼ばれています。
かつての出雲街道は、播磨国の姫路から出雲国の松江に到る街道でした。江戸時代には、松江、広瀬、勝山、津山の各藩主の参勤交代の道でもありました。歴代の松江藩主は溝口宿、新庄宿、津山宿、佐用宿で宿泊しながら姫路に向かったといわれていますが、その他、土居、勝間田、坪井、久世、勝山、美甘、新庄にも宿場が置かれていました。

国道179号に出ました。津山方面の光景です。
出雲街道は人の移動だけでなく、物の移動にも使われました。山陰で盛んであったたたら製鉄でつくられた鉄製品や、砂鉄、朝鮮人参、港で陸揚げされた水産物に宍道湖のうなぎも、出雲街道で運ばれました。全長53里(212km)の街道でした。

ここから、江見の町に残る旧出雲街道の道筋を歩いて見ることにしました。
駅への取付道路から国道179号を右折して、佐用方面に向かって進みます。右側の通りの「ヤマザキパン」の看板の向こう側に道路標識の裏側が見えます。
左側には、コーヒーショップの3段の看板があります。看板の少し先を左折して進みます。
右側に「今在家駅前作業場」という看板を掲げた施設を見ながら進みます。「この作業場にはこの道が出雲街道の道筋であった」という張り紙が掲示されていた時期もあったようですが、この日は見ることができませんでした。

墓地の手前に六地蔵が祀られていました。旧街道をさらに進んで行きます。
その先の旧街道の光景です。出雲街道を旅する人たちは次の勝間田宿をめざして、この道を歩いていたことでしょう。
ここで引き返して、江見の町の中心部に向かって歩くことにしました。

写真の右側に国道へ出ようとする白い車があるところから国道179号を渡りました。津山方面を撮影した写真です。先ほど、標識の裏側が見えると書いた看板がありました。表側は、美作江見駅への道が示された標識になっています。この標識の手前で国道179号から分かれます。
国道から旧街道に入りました。写真は振り返って国道179号側を撮影しました。
国道から、旧街道の雰囲気を残す通りを進みました。この写真も振り返って、国道179号に向かって撮影しました。この先で国道から下ってくる道と合流します。
国道から下ると、荒畑踏切の次にある江見踏切で、姫新線を渡ることになります。美作江見駅から佐用駅方面の2つ目の踏切になります。「江見踏切 62K645M」と書かれています。姫路駅からの距離のようです。
江見踏切の先で旧街道は、東西に流れる吉野川を大還橋(たいかんはし)で渡ります。
大還橋から見た左(上流)側に、大還橋と並ぶようにもう一つ橋が架かっていました。現代の出雲街道である国道179号に架かる「大還橋」です。幅50mぐらいの間隔で新旧二つの大還橋が並んでいました。
吉野川を渡った対岸の旧街道をさらに南に進みます。旧街道らしい家並みが続くようになりました。

袖壁(うだつ)のある邸宅の前に交差点がありました。

交差点の右側です。正面に赤い屋根の作東中学校が見えます。旧街道を右折して進みます。

作東中学校の手前左側に作東公民館がありました。花壇の中にかつて出雲街道にあった道標が移設されていました。 左側面には「右 備前岡山 左 姫路」、正面には「右 ・・・ 左 因州」、右側面には「左 津山 雲州」と記されていました。「・・・」の部分は読むことができませんでした。

旧街道に戻ります。再び南に進むと、東西の通りに合流しました。左折すると、すぐに、再度、南方向に向かう通りがありました。枡形になっていました。

再度、南に向かって歩きます。集落が途切れる手前にお店があったので、お店の前から撮影しました。
お店の先は変形の交差点になっていました。旧出雲街道は、ここから正面にあるやや道幅の狭い、登り坂の道になり、次の土居宿に向かっていくことになります。

JR美作江見駅と町に残る出雲街道の道筋を歩いてきました。駅でも旧街道でも、誰とも出会うことがありませんでした。地元の人のお話をお聞きすることができなかったのが心残りでした。


JR姫新線林野駅を訪ねる

2020年12月26日 | 日記
JR姫新線は、姫路駅(兵庫県姫路市)から津山駅(岡山県津山市)を経由して新見駅(岡山県新見市)に到る全長158.1kmの地方交通線です。実際の運用は、姫路駅~佐用(さよ)駅・上月(こうづき)駅間、佐用駅~津山駅間、津山駅~新見駅間での区間運転を行っています。この日は、岡山県北東部の美作市にあるJR林野駅を訪ねるため、JR津山駅に向かいました。
津山駅の2番ホームには、JR佐用駅行きのワンマン運転の単行気動車、キハ120ー328号車が出発を待っていました。岡山気動車区には、キハ120系気動車が15両在籍しており、津山線、因美線、姫新線、、伯備線、芸備線などで運用されています。328号車は、新潟鐵工所で1995年6月に製造されました。 全長16.3mのコンパクトな車両です。
津山駅から25分ぐらいで、林野駅に到着しました。1面1線のホームのすぐ近くに集合住宅が建っていました。私を含めて2人が下車すると、列車は次の猶原(ならはら)駅に向かって出発して行きました。林野駅で乗車される人は、2018年には、1日平均116人おられたそうです。

下車したのは上屋の脇でした。上屋は、駅名標と、ベンチが2ヶ所設置されているだけのシンプルなつくりでした。

上屋の柱に、「建物資産標」がありました。「鉄停 駅 旅客上家 2号 昭和30年3月」と書かれています。昭和30(1955)年の設置であれば、今年で66年目ということになります。
上屋にあった吊り下げ型の駅名標です。林野駅は、一つ前の勝間田駅から3.9km、次の猶原駅まで4.0kmのところ、美作市栄町にあります。
林野駅は、昭和9(1934)年11月28日に姫津西線として東津山駅~美作江見駅間が開業したときに開業しました。その当時、この地は英田郡林野町三海田(みかいた)でした。
ホームを佐用駅方面に向かって歩きます。長いホームは左にカーブしており、ホームの上には電柱が建っています。  姫津西線は、その後、昭和11(1936)年10月、姫路駅~東津山駅間が開業し姫新線となりました。また、林野町は、昭和28(1953)年、町村合併により美作町栄町となり、平成17(2005)年、美作市の成立に伴い、現在の美作市栄町となりました。
ホームに設置されている電柱の脇に、もう一つ、据え付け型の駅名標が設置されていました。この駅名標を見る人は余り多くはないだろうと思ってしまいま
した。
佐用駅方面の端から引き返します。長いホームの先に上屋、その先に、白い美作警察署の庁舎が見えました。上屋だけでなく、ホームもシンプルなつくりになっていました。

ホームの津山駅側の端までやって来ました。美作警察署の庁舎の脇にある明見踏切が見えます。背後に見える山は、三星山(みつぼしやま・標高233.4m)で山の峰が3つに分かれていることから名づけられたといわれています。この山頂には、南北朝時代から戦国時代にかけて三星城がありました。

三星山の山頂付近に「美」の大文字が見えました。地元の方のお話では、「毎晩点灯されているよ。以前は「千」の字だった」とのことでした。

ホームの橋から駅舎へ向かうことにしました。
左に見えるのが林野駅舎です。駅舎は、ホームから少し離れたところに設置されています。斜面を下り、左折して進みます。

林野駅は、現在は1面1線のホームになっていますが、元は1面2線の島式ホームだったそうです。地元の人のお話によれば、「あのマンションは、今はなくなっている元の線路と日本通運の倉庫があったところに建っている。また、駅舎寄りのところに側線があった」とのこと。写真の手前側にかつて線路があったようです。

この写真は、駅舎の裏を津山駅寄りに向かって進んだあたりから佐用駅方面を撮影しました。集合住宅の手前、右側に駅舎が見えます。
写真の手前の右側は1段高くなっていますが、地元の方は「昔は、林野駅周辺地域がまつたけの産地で、貨物側線で貨車に積み込まれていた」とおっしゃっていました。このあたりが、かつての側線と貨物ホームがあったところのようです。

駅舎の線路側から見た津山方面の側線跡の光景です。側線跡とその左側にホームの跡が見えます。
1面1線のホームから駅舎に向かう通路まで戻ってきました。線路側を撮影しました。線路と隔てる柵の向こう側にある白いポールには「停車場中心」と書かれています。かつての林野駅の広さをしのぶことができます。なお、線路から向こう側は、山裾まで田んぼが広がっていたところだったそうです。
駅舎への入口に改札口がありました。右側部分は駅事務所になっています。
事務所側のようすです。林野駅は、切符の販売のみを委託する簡易委託駅になっています。ごみ一つおちていない、掃除が行き届いている気持ちのいい駅でした。
線路側の壁面にあった、湯郷温泉の旅館の案内板です。湯郷温泉は、林野の町から吉野川沿いに 1kmぐらい下ったところにあります。昔、村はずれの森からシラサギが飛んで来ては田んぼに降りて行くのを見て、村人が不思議に思って行ってみると、傷ついたサギが田んぼから湧き出る温泉で傷を癒やしたそうです。貞観2(860)年に、天台宗の円仁法師が、そんな言い伝えから「鷺の湯」と名づけ浴場をつくったのが始まりといわれています。

改札口から駅舎内に入ります。「当駅は委託社員により改札を行っています。ご協力をお願いします」という案内が改札口に書かれていました。
駅舎の左側には、飲物の自動販売機が3台とベンチが設置され、待合いのスペースになっています。

改札口の脇にあった時刻表です。津山駅行きと佐用駅行きとも、1日11往復が運転されています。日中は4往復が運行されていますが、運行間隔が長くなっています。
改札の右側には窓口がありました。駅事務所は旅行業者の事務所が入居しているため、事務室の前には、旅行関係のパンフレットが並んでいます。

改札口側には、天井まで湯郷温泉など観光ポスターが掲示されています。華やかな雰囲気が漂う駅になっています。

駅舎から駅前に出ました。昭和10(1935)年6月に建設された木造駅舎ですが、「外装はモルタル塗り塗装仕上げで改装され、出入り口にある鉄骨の庇も後に取り付けられたもの」(河原馨著「岡山の駅舎」)だそうです。また、駅舎は道路面より階段分だけ嵩上げされています。これは、「昭和38(1963)年だったか、駅舎から300mぐらい前を流れる梶並川が氾らんして駅舎が水浸しになったので」と地元の方がおっしゃっていました。
林野駅の駅名標の下の出入口には、駅事務所に入居されている「光トラベルセンター」の名前も書かれていました。

駅舎の並びにあった駐輪場です。広々とした駐輪場で、整然と自転車が並んでいます。 駐輪場の向こう側にホームの上屋が見えます。

駐輪場から道路を挟んで向かい側にあった映画館跡の建物。営業していた頃は向こう側を流れる梶並川側から入れるようになっていたそうです。
駅前のようすです。地元の人によれば、湯郷温泉は、京阪神の人々から「雄琴温泉か湯郷温泉か」といわれ、中国勝山駅(湯原温泉の最寄り駅)までの急行「やまのゆ号」が走っていたそうです。そのほか、大阪からの急行が3本、土日曜日には京都からも急行が運行され、多くの観光客がやって来ていたようです。駅前通りには飲食店が軒を連ねており、多くの観光客で賑わっていたそうです。

林野の町は、この先の吉野川沿いに開けた作東地区第一の商都です。鉄道が開通するまでは、吉野川から本流の吉井川を通って県南の和気や西大寺に向かう高瀬舟の発着点として、”山間の問屋町”として栄えたところです。

JR姫新線の林野駅を訪ねて来ました。
駅舎で出会った地元の人のお話をお聞きしながら、駅舎周辺を回ってきました。 湯郷温泉を訪ねる多くの人々が行き来していた、華やかな時代をしのぶ旅になりました。





JR向原駅と「三本の矢」、そして分水界

2020年10月29日 | 日記

JR向原(むかいはら)駅のホームから駅舎に向かう跨線橋の階段です。上り口には、紫の地に白で染められた「積攻」と「サンフレッチェ広島FC」の文字が見えます。その先には、Jリーグのサンフレッチェ広島の選手の写真と名前が続きます。
 
駅舎内の待合室です。ここにもサンフレッチェ広島のチームカラーの紫と白のベンチが・・
今年(2020年)の2月22日に行われた「サンフレッチェ広島装飾完成記念イベント」で、サンフレッチェ色に装飾された駅舎が披露されたそうです。
向原駅と、サンフレッチェ広島はどのようなかかわりがあったのでしょうか。

待合室の入口に、安芸髙田市の清神社で必勝祈願をしているサンフレッチェ広島の選手やチーム関係者、地元ファンの皆さんの写真が飾られています。
サンフレッチェ広島のチーム名の「サンフレッチェ」は、安芸高田市吉田町(旧高田郡吉田町)にある吉田郡山(よしだこおりやま)城を拠点とした戦国大名、毛利元就の故事である「三本の矢」に因んで名づけられました。そんな関係にあったため、サンフレッチェ広島は、1992年4月の誕生以来、旧高田郡吉田町との交流を続けて来ました。吉田町が、1998年11月に完成させた吉田サッカー公園は、2004年、旧高田郡の六町が合併により安芸高田市になってからも、サンフレッチェ広島のトップとユースの練習場として使用されています。
このような経緯から、毛利元就の居城のあった安芸髙田市吉田町の入口にある向原駅が、サンフレッチェ広島のチームカラーで装飾された駅になったようです。

この日はJR向原駅を訪ねるため、広島駅からJR芸備線の三次行きの列車に乗車しました。 キハ47系3両編成の三次駅行きの列車は、広島駅から1時間10分ぐらいで、1面1線の向原駅の1番ホームに到着しました。先に到着していた2番ホームの広島駅行きの下り列車は、到着を待っていたように、すぐ出発して行きました。 写真は、ホームと駅舎のある広島駅方面の光景です。長いホームの先に、駅舎から続く歩道橋が見えます。列車の上に見えるのが、3階建ての駅舎の屋根です。

駅舎へ向かう跨線橋の上り口付近から、ホームを三次方面に向かって歩くことにしました。 ホームの上屋に、ホームと行先の標示がありました。上屋の下付近は、9人が座れるベンチが置かれているだけのシンプルなつくりになっていました。

ベンチの先に、「向原(むかいはら)駅」の駅名標がありました。
向原駅は、広島側の井原市(いばらいち)駅から5.9km、三次駅側の吉田口駅まで6.2kmのところ、広島県安芸高田市向原町坂にあります。
乗車してきた3両編成の気動車は、左にカーブしながら、次の吉田口駅に向かって出発して行きました。 話が変わりますが、向原(むかいはら)駅によく似た名前のJRの駅が、四国にあります。JR予讃線の「向井原駅」で、こちらは「むかいばら」駅と呼ばれています。予讃線は香川県高松駅から愛媛県松山駅を経て、宇和島駅までを結ぶ路線ですが、松山駅の先で、海側を走る「愛ある伊予灘線」と山側を走る「内子線」に分岐し、伊予大洲駅で再度合流するようになっています。二つの路線の分岐点は、向井原駅の先の伊予大洲駅寄りにあります。 愛媛県伊予市内に設けられている駅です。
駅名標付近からの三次駅方面の光景です。右側にある広い駐車場との間に側線が見えます。 向原駅は、大正4(1915)年4月、芸備鉄道として、東広島駅と志和地駅間が開業したときに開業しました。開業当時は、高田郡坂村にありました。その後、昭和4(1929)年に高田郡向原村坂に、昭和12(1937)年には高田郡向原町坂になりました。そして、平成16(2004)年に平成の大合併により安芸高田市が発足することに伴い、現在の安芸高田市向原町坂となりました。

右側の駐車場のとの間に側線の車止めが見えました。
昭和46(1971)年に、貨物の取扱いが廃止となりましたが、長いホームや側線は貨物の取扱いをしていた頃の名残だと思われます。
ホームの端から三次駅方面を撮影しました。上り線と下り線が合流する先に、大畝(おおうね)第2踏切が見えました。

広島駅側に向かって引き返しました。広島方面に向かう下り線とその左側にある側線が見えます。上が歩道橋。左側に歩道橋を降りると、鉄道と並行して走る県道37号に出ることができます。

駅舎から延びる歩道橋の下をくぐり、広島駅側の端まで来ました。駅舎に向かう跨線橋を上ります。

サンフレッチェ広島一色の跨線橋を進みます。右に下ると改札口です。
階段を下り、サンフレッチェ広島の紫と白のベンチが置かれた先に改札口がありました。

改札口を抜けて駅舎の待合室に入りました。この駅に着いたとき、下車したのは私一人でした。向原駅の1日平均乗車人員は、平成29(2017)年には308人おられたそうです。通勤時間帯ではなかったからでしょう、列車を待つ人はいらっしゃいませんでした。 業務委託駅と聞いていましたが、この時間は「窓口は整理中」ということで、窓口は閉まったままでした。「乗車券は、券売機か、車中か、到着駅で」と案内されていました。正面が出口です。

駅舎の2階にある待合室から駅舎内の通路に出ました。駅舎の外に出るため、左側(西側)に向かって階段を下ります。

昭和61(1986)年に竣工した駅舎です。3階建ての立派な建物で、2階の駅舎部分以外に、1階部分の右側はスーパーマーケットに、裏側は地場産業新興センターになっており、安芸髙田市観光センターやテーブルと椅子が置かれている交流スペースなど、多目的に使われています。

駅前ロータリーです。山陽新幹線の開業記念に、向原町の国鉄職員の皆さんから贈られたC58形SLの動輪のモニュメントが設置されていました。広い駅前ロータリーはバス乗り場とタクシー乗り場になっていました。

駅舎の西側から向原駅を跨ぐ歩道橋を渡って、駅の東側に向かうことにします。先ほど、駅の待合室から下ってきた階段を上って行きます。

駅舎の2階、向原駅の待合室の前から見た駅の東側です。広島駅に向かう線路の東に駐車場、そして県道37号に沿って建つガソリンスタンドが見えました。

向原駅の入口を過ぎて歩道橋を進みます。
東側から見た駅舎と跨線橋、そして、右側にあるのが歩道橋です。

県道37号から見た駅舎と歩道橋です。この日、もう一つ見ておきたいところがありました。分水界です。向原駅の北側に、この地から日本海に向かって流れる江の川水系と瀬戸内海に注ぐ太田川水系の分水界になっているところがあります。そこに、「泣き別れ標」が立っていると聞いていたからです。
分水界をめざして、JR芸備線と並行して走る県道37号を次の吉田口駅方面に向かって歩きました。

待合室の前から見えたガソリンスタンドの脇を進みます。その先にあるエディオンの前を左に進むと、ホームから見た大畝第2踏切があります。

「大畝第2踏切 115K607M」と書かれています。芸備線の岡山県側の起点、備中神代駅からの距離のようです。 
 
大畝第2踏切から見た駅舎方面です。

踏切から県道に戻ります。県道はその先で、左にカーブして芸備線の上を越えるルートになります。ガードロープがあるところが芸備線の線路のあるところです。その手前で右折して進みます。
赤い屋根のお宅が並んでいます。最後のお宅の手前を左折して線路の方に向かって歩きます。

突きあたりの屛の先に芸備線の線路が見えました。線路の向こうにある盛り土の上に、木製の標識がありました。「泣き別れ標」と書かれています。
正面のお宅の右側の畑の中にあった「説明」には、「標高124メートルの平地にある分水界はめずらしい。ここは、旧高田郡戸島村と坂村の村境にあり、ひとしずく落ちた雨でさえ、半分は南、残りは北、泣き別れとはよく言ったと謡われていた」と書かれていました。

県道37号に戻り、芸備線の線路の上を越えると、道路は大きく右にカーブします。
その先の右側にあった白い土蔵風の建物の裏の畑の中に、向原町教育委員会が設置された「分水界泣き別れ」の説明板がありました。

「説明」には、「数万年前、三篠川(みささがわ)の上流や見坂川は、戸島川(江の川水系)に合流し、北に向かって流れ、日本海に注いでいました。しかし、三篠川は浸食力が強いため、現在の地形になり、この地に分水界が形成された」と書かれていました。現在では、三篠川は、戸島川とは別れ、上流部分で見坂川、有坂川と合流し、下流で太田川に合流し、瀬戸内海に注ぐ川になっています。かつて、戸島川に合流していた見坂川と有坂川は、三篠川の浸食によってできた地形によって、戸島川ではなく、太田川の上流である三篠川に合流することになったのです。

説明板があった所から見た分水界です。その向こう側を通る芸備線の線路は、このあたりを頂点にして山のような形になっているといわれています。

JR向原駅を訪ねて来ました。
平地にあることはめずらしいといわれている分水界がある安芸高田市向原町の玄関口にあり、サンフレッチェ広島のチームカラーに装飾されたユニークな駅舎をもつ駅でした。印象に残る旅になりました。


JR安浦駅と武智丸

2020年09月27日 | 日記
二隻の船がつながっているように見える防波堤の先に灯台が見えます。太平洋戦争中に造られたコンクリート船の第一武智丸と第二武智丸でつくられた防波堤です。広島県呉市安浦町の三津口湾内の安浦漁港にあります。この日は、コンクリート船でつくられた防波堤を見るため、JR呉線の安浦駅を訪ねました

JR呉線の東側の起点、三原駅から乗車した広駅行きの227系電車は、1時間余りで、JR安浦駅の3番ホームに到着しました。前方に安浦駅を跨ぐ横断陸橋が見えました。

電車は、次の安登駅に向かって出発して行きました。呉線は、軍都、広島市と
軍港、呉市(明治35年に市制を敷く)を結ぶため、明治36(1903)年、海田市駅・呉駅間が開業したことに始まります。東側の起点、三原駅側からは、昭和5(1930)年3月に、三原駅・須波駅間が三呉線として開業しました。その後、西に向かって延伸し、現在の安浦駅が開業したのは、昭和10(1935)年2月のことでした。「三津内海(みつうちのうみ)駅」としての開業でした。そして、その年の11月24日、三津内海駅・広駅間が開業して全通し、呉線と改称されました。
駅名標です。安浦駅は、風早駅(東広島市)から6.3km、次の安登駅まで4.5kmのところ、呉市安浦町にあります。
昭和19(1944)年、賀茂郡内海町、三津口町、野路村が対等合併し、賀茂郡安浦町が生まれました。それをきっかけに、「三津内海駅」として開業した駅は、昭和21(1946)年5月1日、安浦駅と改称されました。
安浦町は、その後、豊田郡と賀茂郡の町村の入れ換えにより、昭和31(1956)年、豊田郡安浦町となりました。そして、現在の呉市に編入されたのは、平成17(2005)年3月のことでした。


3番ホームの端から見た広駅方面です。左側に引き込み線が見えました。工事用車両の留置に使用されているそうです。
ホームの端から駅舎方面を撮影しました。手前の横断陸橋の先に跨線橋が見えます。駅舎は、3番ホームの右側、跨線橋の手前にあります。安浦駅は2面3線のホームをもち、島式ホームの右側が2番ホーム、向こう側が1番ホームになっています。広駅行きの電車は、基本的には駅舎寄りの3番ホームに、三原駅行きの電車は、1番、2番ホームに入線するようになっています。
駅舎に向かって引き返します。民家との境に引き込み線の車止めがありました。

切妻屋根の白い駅舎、横断陸橋の階段や駅前の建物などが見えます。安浦駅の1日平均の乗車人員は、平成30(2018)年には543人だったそうです。

島式ホームにある掲示板です。観光地図に、イラストの入った駅名標示、安浦駅の名所案内が並んでいます。後方には、比較的新しい民家や分譲中の土地が見えます。安浦駅は、新しい町づくりの進行中といった雰囲気が感じられる地域にありました。

駅舎まで来ました。上屋の下にベンチが置かれています。
駅舎の隣のトイレを越えた先に、屋根のついた跨線橋があります。
駅舎前から見た、島式ホームの上屋です。跨線橋と連なる形で設置されています。3脚のベンチが置かれ、待合いのスペースになっています。

長いホームを跨線橋を越えて進みます。ホームの端から見た三原駅方面です。ゆるやかに左にカーブしながら風早駅方面に向かっています。正面の円錐形の山は飯野山です。
三原駅側から見た跨線橋です。 平成30(2018)年7月5日からの西日本豪雨により、安浦駅は駅構内が冠水する被害を受けました。呉線の沿線では、ほかにも、線路への土砂の流入や斜面の崩壊などの被害もあって、呉線は163日間にわたり運休となりました。復旧したのは、その年の12月25日のことでした。

跨線橋を渡って島式ホームに降りました。島式ホームから見た、安浦駅の木造駅舎です。
駅舎前に戻りました。

3番ホームを示す標識の脇の柱に建物財産標がありました。
「財 第6号 鉄 C停 旅客上家 S10 . 2 」と書かれていました。
昭和10(1935)年の開業時につくられた上屋のようです。

自動改札機が設置された改札口です。安浦駅は、平成8(1996)年、JR西日本広島メンテックによる業務委託駅になりました。
改札口を入って左側が待合いスペースです。木製のベンチが並ぶ広々とした空間です。

待合いスペースから見た事務所と自動券売機です。
駅舎から出ました。上屋が大きく外に張り出し、その奧に、飲物の自動販売機が設置されています。駅舎前にはタクシーが待機していました。
タクシーの脇の柱に、建物財産標がありました。
読みづらい写真ですが、「 建物財産標  財 第5号 鉄 C停 本屋1
S10 . 2 」 と書かれています。駅本屋も開業時のもののようです。

駅舎前の取付道路です。すぐ前に「安浦駅前交差点」があります。交差点の右側の樹木が茂っているところには、呉市立安浦中学校がありました。
駅舎前から駅前交差点に向かって右側(西側)の風景です。右側に見えるのは、駅の表側と裏側を結ぶ横断陸橋。近くに、安浦交通が運行する乗り合いバスが待機していました。
交差点に向かって左側です。安浦町の地図が掲示してありました。

安浦町の観光地図では、めざす武智丸は、安浦駅前交差点を左折して進み、国道185号(芸南街道)に出て、まっすぐ東に進んで行くとたどり着けるようです。
安浦駅前から見た駅舎の全景です。駅舎を出て、取付道路を駅前交差点に進みます。
交差点を左折して進みます。正面に、ホームで見た飯野山の姿がありました。この先で、国道185号に合流します。
国道185号の右側には細長く船溜まりが続いています。その右側に、広い土地が広がっています。地元の方は「かつて、塩田があったところだ」と言われていました。

やがて、三津口湾の沖合に、めざす防波堤が見えてきました。第一武智丸と第二武智丸の二隻のコンクリート船でつくられた防波堤です。 太平洋戦争の終戦直後の昭和20(1945)年9月、枕崎台風により三津口湾は甚大な被害を受けました。三津口湾には、防波堤がなく、それまでに何回も被害を受けていたため、この地の漁業協同組合の菅田国光会長は、昭和22(1947)年、県に防災のための防波堤を建設することを陳情しました。しかし、当時の技術では、軟弱な港の地盤に防波堤をつくることは技術的に難しかったので、戦争中に航行していたコンクリート船を使用することに変更し、払い下げを要請しました。

国道185号の脇に立つ菅田国光会長の顕彰碑です。菅田会長が要請した2籍のコンクリート船の払い下げが認められたため、海底を浚渫し、その上にコンクリート船を沈め、置き石をおいて固定したそうです。経費は、当時のお金で800万円だったそうです。
菅田会長の碑は、この日も、三津口湾の防波堤を見守っていました。
国道を右折して、「生かき」を扱うお店が並んでいる通りを進みます。
コンクリート船が置かれている手前に、公園風の広場がありました。
コンクリート船の脇を通って防波堤に向かう通路がつくられていましたが、「危険につき立入禁止」の標示が貼られていました。柵の手前から、武智丸を撮影することにしました。

手前に置かれていた第一武智丸の船首部分です。海の向こうに飯野山が見えます。海側には波消しブロックが敷き詰められていました。

太平洋戦争が始まる直前の昭和16(1941)年、欧米各国からの鉄や銅の輸入が途絶えてしまったため、その代替として、建造されたのがコンクリート船でした。

大阪で土木工事会社を経営していた武智昭次郎氏が、兵庫県高砂市で「武智造船所」を立ち上げ、コンクリートの「貨物船」を造り上げました。その後、三井造船玉野工場でエンジンやクレーンを装備し、海軍輸送船として、昭和19(1944)年6月に竣工しました。第二・第三武智丸も続いて竣工したそうです。 写真は第一武智丸の船首側から船尾側を撮影したものです。

広場にあった説明板には「海の守り神 武智丸」と題して、「2300排水トン(800総トン) 船長64m 船幅10m 昭和19~20年にかけて4隻建造、3隻就航」とありました。  写真は第一武智丸の船尾部分です。

第一武智丸(手前)と第二武智丸の接合部分です。 竣工していた3隻のコンクリート船は、呉鎮守府、横須賀、佐世保鎮守府にそれぞれ配備されました。他の1隻は建造の途中で終戦を迎えたようです。呉鎮守府に配備された第一武智丸には、船長ほか20名の乗組員が乗務していたそうです。また、第三武智丸は、小豆島沖で機雷に触れ沈没したといわれています。
沖側にある第二武智丸には「海の守り神 武智丸」「港内減速」と書かれていました。 漁港にはたくさんの漁船が停泊していました。


水害から復活した呉線と安浦駅。
太平洋戦争中に建造され、今も安浦漁港で防波堤として余生を送る武智丸。 
考えさせられることの多い旅でした。