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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR狩留家駅と中郡古道

2020年09月22日 | 日記
JR芸備線の駅、狩留家(かるが)駅です。最初は駅名の読み方がわかりませんでした。調べてみると、「狩留家」の地名の発祥は、「『広島県町村合併史』によれば、狩留家は昔、皇室の領地で稲置狩倉が置かれたことによるとある。『稲置』とは郷程度の皇室領を管理する職名で、『狩倉』は御領地の荘園領主が鹿皮や干し肉などの安定確保のために設けられた狩り場のことで、庫裡が設けられており宿泊施設もあった」という。もののふが『狩』をして『留』まる『家』、すなわち『狩留家』となったのが地名の由来とされている」(NPO狩留家「狩留家の歴史」)とのこと。また、「『狩留家』の名前は、平安時代の保延5(1139)年に初めて文献に登場した」そうです。 長い歴史をもつ町にある駅、JR狩留家駅を訪ねることにしました。

広島駅から三次駅行きの芸備線の列車に乗車しました。キハ40系のワンマン運転の列車でした。

広島駅から1時間程度で、狩留家駅の1番ホームに到着しました。1面2線の狩留家駅のホームから見た三次駅方面です。駅舎は左側にあり、下車した乗客は、ホームの端にある構内踏切で駅舎に向かうようになっています。やがて、乗車してきた列車は、次の白木山(しらきやま)駅に向かって出発して行きました。
島式ホームから見た広島駅方面です。右側が、上り(三次駅方面行き)列車が発着する1番ホーム。左側が広島駅方面に向かう下り列車が停車する2番ホームです。しかし、狩留家駅で引き返す広島駅行きの列車も多数運行されており、1番ホームに到着した折り返しの列車が、そのまま1番ホームから出発して行くケースもあるようです。
狩留家駅の駅名標です。狩留家駅は、広島市安佐北区狩留家に設置されています。広島駅側のかみふかわ(上深川)駅から2.2km、次のしらきやま(白木山)駅まで2.2kmのところ、上深川駅と白木山駅の中間点にある駅のようです。 狩留家駅は、広島シティネットワークエリヤの北端の駅で、芸備線ではICOCAが利用できるのはこの駅までだそうです。

長いホームを歩いて広島駅側の端まで来ました。。線路は右にカーブしながら上深川駅に向かっています。
広島駅側の端から見た駅舎側です。ホームと切妻屋根の駅舎の間に引き込み線と車止めが見えました。JR芸備線は、広島駅から三次駅、備後落合駅を経由して伯備線の備中神代駅を結ぶ全長159.1kmの路線です。広島駅から岡山県の備中神代駅まで直通する列車はなく、広島駅・三次駅間、三次駅・備後落合駅間、備後落合駅・備中神代駅を経て新見駅までの3区間に分かれて運行されています。

引き込み線の向こうに自転車置き場と民家の屋根が見えました。JR芸備線の広島駅~三次駅間は、大正4(1915)年4月28日、芸備鉄道として、東広島駅(現在の広島駅から640m離れたところにあった)・志和地(しわち)駅間が開業したときに始まりました。このとき、狩留家駅も開業しています。

芸備鉄道はさらに延伸を続け、大正4(1915)年6月1日には三次駅(現在の西三次駅)まで開業し、その後、大正9(1920)年には広島駅への乗り入れが始まりました。 国有化されたのは、昭和12(1937)年7月のことでした。 2番ホーム側の周辺の光景です。なだらかな傾斜地に集落が広がっています。
2番ホームのすぐ前の畑に「狩留家なす」とかかれた幕が見えました。「狩留家なす」は緑色をしたなすで、広島県のブランド野菜だそうです。1980年代、自家用として作り始めたのが始まりだそうで、現在は、平成24(2012)年6月、55人で立ち上げた「NPO法人狩留家減農薬農園」に所属する農家の皆さんが栽培されているそうです。
ホームから見たJR狩留家駅の駅舎です。駅舎の左側、かつて駅員の宿直室だったスペースは、高齢者の交流施設「夢かるが」として使用されているようです。

ホームの三次駅側の端まで来ました。遮断機のついた構内踏切がありました。
構内踏切から駅舎に向かいます。
駅舎の前まで来ました。待合スペースの前にベンチが3脚設置されていました。この駅の1日平均の乗車人員は、平成29(2017)年には185人だったそうです。
自動改札機が設置された改札口から駅舎内に入ります。狩留家駅は、昭和58(1983)年に簡易委託駅となり、平成19(2007)年には完全な無人駅になりました。乗車券の発券は駅舎内にある自動券売機で行うようになっています。
入って右側にはベンチとテーブルが置かれており、広々とした空間になっていました。
待合スペースにあった狩留家駅の説明板です。地元の狩小川(かこがわ)郷土史研究会の方がつくられたもののようです。それには、大正4(1915)年の「開業当時、駅長など11人の駅員が常駐した。最盛期には1日平均450人の乗降客があったという。ここは、皇室のお狩場で、鹿皮、肉などの供給、また、戦闘訓練も行われ、一般人は入ることができなかった。宿泊施設もあり「場のまる」が地名の由来」と書かれていました。
駅舎から出ました。駅舎の右側のスペースは交流施設「夢かるが」になっています。駅舎の入口にポストが見えました。
ポストの後ろの柱に建物財産標がありました。狩留家駅の駅舎は、「昭和28(1953)年竣工の木造瓦葺き」といわれていますが・・

よく見えなかったのですが、「建物財産標 日本国有鉄道 財第5号 鉄 
駅本屋 昭和○○年11月30日」と書かれていました。年号の部分だけは、23年なのか28年なのかはっきり読めませんでした。おそらく、28年なのでしょう。

駅への取付道路です。右側の広場はちびっこ広場です。

ちびっこ広場の前にあった「散策マップ」です。
狩留家の名は、荘園時代に稲置狩倉が置かれたことに由来すると最初に書きましたが、江戸時代後期には、三篠(みささ)川を上下する三田船を利用して、三篠川沿いの20ヶ村から送られてくる物資の集散地として栄えたところでした。

「散策マップ」にあった地図です。中央がJR狩留家駅と芸備線です。その西を流れるのが三篠川。赤い線で示されているのが中郡道です。豊臣秀吉による天下統一後、安芸国を領地として与えられた毛利輝元が、広島城の築城にあたり、吉田郡山城から広島まで、人や資材の往来のため、三篠川沿いに整備したといわれる街道です。街道の道幅は3尺から6尺で一定していませんでしたが、天正19(1591)年には整備が完了していたといわれています。

駅前からまっすぐ進みと、左右の通り(県道37号広島・三次線)と合流します。この左右の通りが毛利輝元が整備した中郡道です。道路脇につくられていた「夢街道 ルネサンス」の碑です。これは、国土交通省中国地方整備局が歴史や文化を今に伝える街道を「ルネサンス認定地区」として認定しているものです。中郡道は、平成25年度に「中郡古道」として「夢街道 ルネサンス」に認定されました。
中郡道に沿って歩いてみようと思いました。右折して三篠川の上流に向かって歩きます。
中郡道は三篠川の堤に上っていきます。その先に三篠川を渡る上西橋が見えてきました。
上西橋のところで右折すると、芸備線の坊地(ぼうじ)踏切があります。「白木山駅ー狩留家駅 138K012M」と書かれていました。備中神代からの距離でしょうか?
芸備線の三次駅方面への列車は、この先で三篠川を渡る「第1三篠川橋梁(全長88m)」を渡り、次の白木山駅に向かって進みます。 平成30(2018)年7月、西日本豪雨による濁流により、第1三篠川橋梁の5本あった橋脚のうち三次側の2本が流され不通となりました。三次側の2本の橋脚は、大正14(1915)年つくられた石積みで、広島側の橋脚はコンクリート製だったそうです。 復旧したのは、1年3ヶ月後の令和元(2019)年10月のことでした。

上西橋を渡ります。「中郡道」と手書きされた案内標識がありました。かつて三篠川に架かっていた橋は、これより少し下流(左側)にあったようです。

上西橋から見た三篠川の上流部です。三篠川は写真のように、この先で右にカーブしています。第1三篠川橋梁は、カーブした先にあります。対岸の堤の上に緑色の「三篠川」の標識が見えました。

上西橋を渡り、三篠川の対岸に着きました。中郡道は手前の川沿いの道かその先の田んぼの中の道なのかわかりませんでした。近くの畑で作業をしておられた女性に教えていただこうと声をかけましたら、地域の歴史を研究しておられる方を紹介してくださり、たくさんの資料をいただき、説明もしていただきました。教えていただいたとおり、上西橋からまっすぐ進み、田んぼの向こうの道を右折して進むことにしました。

旧街道がつくられた頃、三篠川を渡る橋は、「こちら側から正面の白壁のお宅の前に向かって架けられていた」そうです。
中郡道は道幅3尺から6尺ぐらいだったそうです。旧街道の雰囲気を残す通りを進んでいきます。遠くに「三篠川」の標識が見えます。
「三篠川」の標識が見えるようになりました。中郡道は、白壁のお宅の先から、堤防上の道を吉田方面に向かっていました。

駅への取付道路の入口にあった「夢街道 ルネサンス」の碑まで帰って来ました。JR狩留家駅を左に見ながら中郡道(現在は広島県道37号)を進みます。

江戸時代、狩留家の町は三田船による舟運と油絞り業で栄えたところです。中郡道の街道筋には両替商、酒屋、醤油屋、油問屋、宿屋、鍛冶屋などの商家が立ち並んでいたそうです。

中郡道の左側に旧芸備銀行の建物がありました。「商業の中心地であった狩留家に、大正2(1913)年、広島商業銀行の狩留家出張所として設立され、後に、芸備銀行狩留家出張所になった(狩小川郷土史研究会の説明)」建物です。

旧街道の右側に、手作りの道標がありました。中郡道はここで、左折して進んでいました。来た道をまっすぐ進む通りは、狩留家の本陣に向かう道でした。左折しないでまっすぐ進みます。

長町橋を渡ります。

長町橋の下を流れる湯坂川です。この先で三篠川に合流しています。先ほど、中郡道と分かれてきましたが、中郡道はこの湯坂川に沿って進んで行くことになります。

右側に、郵便局がありました。その脇に「胡子(えびす)神社」が祀られています。明治22(1889)年、街道筋の商人たちが商売繁盛を願って、出雲大社から事代主命(えびす信仰の御祭神)を勧請してお祀りしたそうです。郵便局の前では狭いと思って移そうとしたら、工事に携わった人がけがをしたため、そのままこの地に祀られた(狩小川郷土史研究会)」そうです。

その先で通りは、右にカーブします。その先に、狩留家の本陣、黒川家がありました。徳川家康が江戸幕府を開くと、関ヶ原の戦いで西軍で戦った毛利氏は山口に移り、替って広島藩には福島正則、続いて浅野長晟が入封してきました。黒川本陣は、藩主が狩猟などで狩留家に来たときの宿舎や休憩所として使われていました。

中郡道との分岐点まで引き返してきました。ここから、中郡道をたどってみることにします。

湯坂川沿って進みます。JR芸備線のアンダークロスを抜けます。
旧街道の雰囲気を残す通りを歩きます。
県道37号のバイパスの下をくぐります。
バイパスを抜けると、中郡道は山裾を通る道になりました。

名前に惹かれてやってきたJR狩留家駅でしたが、狩留家の町の歴史をたどる旅になりました。

日本一短い県道とJR安登駅

2020年08月27日 | 日記
JR呉線の安登(あと)駅の駅前に設置されている「日本一短い県道」についての説明板です。「総延長10.5m」の広島県道204号、安登停車場線の説明が書かれています。
この日は、「日本一短い県道」のあるJR安登駅を訪ねるため、JR山陽本線の三原駅に向かいました。三原駅の1番ホームで出発を待っていたのは、227系3両編成の広駅行きの電車でした。227系の電車は、2015年3月のダイヤ改正により、広島地区の在来線で運行を始めたJR広島支社の誇る最新車両です。
三原駅から1時間20分ぐらいで、相対式2面2線の長いホームをもつ安登駅に着きました。電車の前方に、反対側のホームにある白い駅舎が見えました。この駅は、行き違い設備を備えており、広・呉駅方面行きの電車は、駅舎の反対側のホームに停車しています。ホームの番号標は見つかりませんでした。

広駅行きの電車が出発して行きました。ホームの広駅方面に上屋が見えました。 JR呉線は、明治36(1903)年12月27日、海田市駅・呉駅間が開業したことに始まります。三原駅側からの呉線は、昭和5(1930)年3月19日、三原駅・須波駅間が三呉線として開業してから、西に向かって延伸を続けていきました。 安登駅が開業したのは、昭和10(1935)年11月24日。 安浦駅(当時は三津内海駅=みつうちのうみえき)・広駅間が延伸開業したときでした。

安登駅は、三原駅側の安浦駅から4.5Km、次の安芸川尻駅まで4.1kmのところ、呉市安浦町安登西五丁目にあります。 同じ呉市安浦町にある安浦駅まで海岸線に沿って走って来た呉線の電車は、安浦駅からは、少し内陸部を走るようになりました。安登駅は、周囲を山に囲まれた緑濃い地域に設置されていました。

ホームのようすを確認することにしました。
ホームの上屋の内部です。3脚のイスが設置されているだけのシンプルな待合いスペースになっています。 この駅の1日平均乗車人員は、平成30(2018)年には338人だったそうですが、この日、乗車して来た電車から下車したのは、私一人でした。
 
待合スペースの向かい側、三原駅行きの電車が停車するホームに接して、駅舎がありました。

ホームの広駅側の端からは、跡条(あとじょう)第一踏切が見えました。

三原駅側に向かって、ホームを引き返します。駅舎側のホームへは、屋根のない跨線橋を渡っていくことになります。手前にある掲示には、安登駅の西にある瀬戸内海国立公園の野呂山(標高840m)の案内が書かれていました。野呂山は瀬戸内海の展望地、ハイキングコースとして知られています。ちなみに、瀬戸内海国立公園は、昭和9(1934)年3月16日、雲仙、霧島とともに、当時の内務省によって第1号として指定されたそうです。

跨線橋を過ぎてさらに歩きます。三原駅側の光景です。長い長いホームですが、ここまで、人の姿はまったく見えません。

ところで、「安登」という珍しい地名は、どのようにして名づけられたのでしょうか? 踏切に「跡条第一」と名付けられているように、「跡」が語源だそうです。「平家の落人伝説が多く残る地で、その『跡』に由来する地名」(「難読・誤読の駅名の事典」浅井建爾著)だといわれています。

明治22(1889)年に町村制が施行されたとき、この地は「賀茂郡内海跡村」でした。その後、昭和4(1929)年に、村名を「内海跡村」から「安登村」に変更して、現在の駅名になったようです。
写真は、跨線橋の裏側からの駅舎側の光景です。駅名標がぽつんと立っています。

跨線橋から駅舎側のホームに向かいます。跨線橋の上からは、駅舎とその向こうの「安登駅自転車等駐車場」と書かれた建物が見えました。

駅舎付近までやって来ました。駅舎の手前には、トイレが設置されています。
呉線は、平成30年7月5日からの西日本豪雨により甚大な被害を受け、163日間運休しました。安登駅の近くでは、隣駅の安浦駅は冠水し、安登駅と次の安芸川尻駅の間で斜面が崩壊するという被害を受けました。10月28日に安浦駅~安芸川尻駅間が復旧し、12月25日に全線で運転再開となりました。
自動改札機が置かれている駅舎への入口から駅舎に入ります。 安登駅は、昭和45(1970)年から無人駅になっています。

駅舎に入って右側のスペースは待合室になっています。作り付けのベンチと飲み物の自動販売機がありました。正面の壁面の向こう側はトイレになっています。 乗車される人が1日平均338人おられる駅にしては、少し狭い感じでした。

ホームへの出口にある自動改札機のそばに自動券売機が設置されています。

駅前広場への出口に置かれていた時刻表です。

駅前広場から見たJR安登駅です。呉線の電車が到着しています。「日本一短い県道」を確認することにしました。カメラを持った男性の姿が見えました。
駅の出口のすぐそばに作られていた小さな庭園です。

跨線橋から見えた「安登駅自転車等駐車場」の前で、安浦交通のバスが出発を待っていました。駐車場は、現在では、生涯学習施設として使用されているようで、テーブルや卓球台などが置かれていました。

駐車場の先に、「日本一短い県道」の説明板がありました。めざす、県道204号安登停車場線は、すぐ目の前にありました。
掲示板には、 「起点 安登駅前」、「終点 国道185号交点」、
「総延長 10.5m  」、 「幅員  18.7m  」 と書かれています。「日本一短い県道」は、長さが、わずか、10.5mしかない道路でした。
掲示板の前の駅前のようすです。信号機のある左右の通りは、国道185号。右が安浦駅方面、左が安芸川尻駅方面への道路になります。国道の両側には横断歩道が設けられています。国道185号から手前の10.5mまでが「日本一短い県道」になるはずです。

これは、説明版に書かれていた県道204号の概念図です。ピンク色の部分が県道204号にあたるそうです。「現在地」は説明板のある場所を示しています。
県道(ピンク色の部分)の両側に幅員が示されています。
 左側は w:15.8m   右側は w:18.7m と書かれています。 
平成13(2001)年に、県道の拡幅工事が行われ、駅前広場と道路の幅が同じなりました。 従来の幅員が左側で、右側が、平成13(2001)年以降の幅員になります。いずれにしても、長さよりも幅の方が広い道路ということになります。

この資料も説明板に書かれていたものですが、JA芸南安登支所の建物から見た、県道204号にあたる部分(ピンク色の部分)を示しています。

安登駅の周辺のようすを見ることにしました。駅側から国道185号を渡り、その次の通りを、西岡商店のところで右折して上っていきます。

正面に安登小学校と安登保育所の正門と校舎、グランドが見えました。

駅前広場に戻り、国道185号の交差点を安芸川尻駅方面に向かって進みます。右側にある郵便局の先で左折します。
安登駅に到着したとき前方に見えた「跡条第一踏切」がありました。「跡条第一踏切 48K817M」と書かれています。三原駅からの距離のようです。ここで、上下二つの線路を渡るようになっています。

跡条第一踏切から見た、安芸川尻駅方面です。

こちらは、安登駅方面です。長いホームと跨線橋が見えました。

総延長10.5mの「日本一短い県道」を訪ねるために、JR安登駅までやって来ました。「日本一短い県道」は、国道と駅を結ぶ取付道路でしたが、長さよりも道路の幅の方が広いという、道路というより駅前広場の一部のスペースという感覚の道路でした。
ずいぶん前に、「日本一短い国道」を見るために、神戸市にある国道147号(総延長187m)を訪ねたことがありますが、今回の広島県道204号(安登停車場線)も、その時と同じように、興味深い時間を過ごすことができました。








JR風早駅と万葉陶壁

2020年06月28日 | 日記
車窓から見える瀬戸内海の風景を思い出しては、乗ってみたくなる鉄道がJR呉線です。 この日は、東広島市にある呉線の駅、風早(かざはや)駅を訪ねることにしました。
東広島市安芸津町風早の祝詞山八幡神社にある万葉陶壁です。平成2(1990)年に、当時の豊田郡安芸津町と八幡神社が、「町づくり事業」の一環として建立したものだそうです。 奈良時代、朝鮮半島にあった新羅の国に送られた使節の役人と奈良の都で夫の無事を祈る妻の愛の歌をもとに制作されました。

JR風早駅を訪ねるため、JR山陽本線三原駅に向かいました。 1番ホームに広駅行の電車が入線していました。JR西日本広島支社の誇る最新車両、227系3両編成の電車でした。 227系は、平成27(2015)年3月14日のダイヤ改正で広島地区の在来線で運行を開始し、平成31(2019)年の春から、広島地区のすべての列車で運行されています。

三原駅から1時間ほどで風早駅に着きました。 2面2線のホームを持つ風早駅ですが、広駅行きの列車は、駅舎側のホームに到着しました。 下車したとき、跨線橋で結ばれた向かいのホームに、三原駅行きの列車が到着しました。 ホームの番号の標示は見つかりませんでした。 地元の方、お二人とともに下車しました。
風早駅の駅標です。 風早駅は、東広島市安芸津町風早に設置されています。 三原駅側の一つ前の駅、安芸津駅から3.2km、次の安浦駅まで6.3kmのところにあります。

二つの列車が出発した後の三原駅方面の光景です。ホームはゆるやかに左にカーブしています。 
跨線橋を渡って、向かい側のホームに降りました。 ホームの上屋が設置されていました。 呉線は、三原駅と山陽本線海田市駅を結ぶ87kmの鉄道です。 明治36(1903)年、軍港のあった呉駅と海田市駅間が開通したことに始まります。 

広島県東部の起点三原駅からは、昭和5(1930)年、須波駅までが三呉線として開通し、その後、延伸を続けます。そして、昭和10(1935)年11月24日、呉駅までが全通し、呉線となりました。 風早駅は、昭和10(1035)年2月17日、三呉線の竹原駅と三津内海駅(みつうちのうみ駅・現在の安浦駅)間が開業したのに伴って開業しました。
写真は、ホームの上屋の下のようすです。 ベンチが3脚だけという簡素なつくりになっています。
ホームの上屋付近から見た駅舎です。 ホームにはベンチが置かれています。 風早駅の1日平均の乗車人員は、平成29(2017)年には、217人だったそうです。
駅舎に向かうため、跨線橋を上ります。 跨線橋の上から見た駅舎とホームの上屋です。 線路は、ゆるやかに右カーブしながら広駅方面に向かって延びています。 風早駅は海に向かって張り出した尾根を囲むようにつくられたようです。 写真の左側には瀬戸内海が広がっています。
跨線橋の上から見た瀬戸内海です。 穏やかな海の向こうに瀬戸内の島々が見えます。 筏が見えるあたりでは、カキの養殖が行われています。
広駅方面行きの列車が停車するホームの脇の小高い所に、神社の本殿と拝殿が見えました。 地図で確認すると、「銭神神社」と書かれていました。 お金儲けに御利益のある神社なのでしょうか。
駅舎の前に来ました。 駅舎に接してベンチが置かれています。 駅舎への入口には、ICOCA専用の改札機と、使用済み切符の回収箱が設置されています。 ICOCAの改札機は、平成19(2007)年から使用されているそうです
駅舎内です。長いベンチが置かれています。 風早駅は、国鉄時代の昭和35(1960)年に貨物扱いが廃止され、10年後の昭和45(1970)年10月1日には無人駅化され、簡易委託駅となりました。
ベンチの向かい側です。 時刻表や自動券売機など駅らしい風景が広がった一角になっています。 広島県立豊田高校が近くにあり、平日には高校生の姿も多く見られるはずです。 
ホームから駅舎への入口からまっすぐ進むと、駅舎からの出口があります。待合のスペースの向かいは駅事務所の跡なのでしょうか。 駅舎から出ます。

駅前広場から見た駅舎です。 スレート葺きの屋根に白壁という風早駅の駅舎です。 風早の地名については、地元の自治会がつくられた資料には、「伊予国の中部(現在の愛媛県松山市北条付近)の有力者だった風早氏が6世紀ごろに北上し、安芸国のこの付近や島々に勢力を広げ、その一族がこの地に住み着くようになった」といわれ、「風早氏に因んでこの地を『風早』と称するようになったともいわれている」(シリーズ「風早ものがたり」)と書かれています。

駅舎に並んで建つのはトイレです。 その周囲は自転車置き場として使われているようです。
駅前広場と駅への取付道路です。 その向こうに、瀬戸内海が見えます。 無人駅(簡易委託駅)となってからは、道路の左側のお店で乗車券の販売が行われていました。 
この後、万葉時代の風早の歴史に触れるため、祝詞山八幡神社にある万葉陶壁を訪ねるつもりでした。 正面のお宅に向かって歩きます。

駅舎の正面にあるお宅の前で、買い物を終えた地元の方に、祝詞山八幡神社に行く道をお尋ねしますと、「じゃあ、一緒に行きましょう」とのこと。 正面にあったお宅の前で左折して、ご一緒に祝詞山八幡神社まで歩くことにしました。 
広島県道206号(風早停車場線)を進みます。
 商店街を抜けると、左側に急傾斜の石段がありました。 登り切ったところに、鳥居がありましたので、跨線橋から見た「銭神神社」の参道のようです。

その先で、歩いてきた県道は、海岸沿いを走る国道185号(芸南街道)に接近します。 しかし、合流しないで左方向に向かいます。 左側にレンガ造りの「登り窯」のような構造物がありました。 ご一緒に歩いてくださった方は、「たこつぼを製造していたところですよ」と、説明してくださいました。
さらに進むと、県道は呉線のアンダークロスとなります。 抜けると右方向に道なりに進みました。

安芸津風早郵便局を左側に見ながら進むと、右側に風早地域センターの建物がありました。 その先で、県道353号(内海三津線)との交差点を渡ります。
交差点をまっすぐ進みます。

すぐに、祝詞山八幡神社の下に着きました。
伊予国からこの地に移り住んだ豪族の風早氏が、豊後国の宇佐八幡宮から分霊し、祀った神社だといわれています。 駅からゆっくり歩いて、20分ぐらいで、ここまでやって来ました。 ここで、案内してくださった方にお礼を申し上げてお別れしました。 迷わずに来られたのはこの方のおかげでした。  
石段の次の道を上ります。その先の小高いところに、万葉陶壁と万葉歌碑が見えました。
天平8(736)年6月、奈良の都を旅立った、遣新羅使(けんしらぎし)の一行(大使:阿倍継麻呂 副使:大伴三中)が、風除けのできる穏やかな海であった風早の浦に停泊していた船の中で、宿泊したときに作られた歌が、「万葉集」に載せられています。 「風早の浦」は、JR風早駅一帯の呼称とされていたそうです。
歌碑には、「風早の浦に船泊りする夜に作れる歌」として、次の二首が刻まれていました。 
   わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり
   沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを
これは、都を出るとき、妻から送られた歌
  君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ
に、答えて歌ったものだといわれています。
万葉陶壁です。 遣新羅使として、潮の流れや、風、波など、危険を伴う長旅を続ける夫と、留守を守る妻との愛の歌に因んでつくられたものです。 山下真一画伯の原画をもとに、陶芸作家の財満進氏が制作された陶壁といわれています。
風早駅に戻って来る途中で、風早駅の後ろにそびえる保野山(地図には「灘山」と書かれています)の山頂付近の斜面に、「万」の字が見えました。毎年11月の第2土・日曜日の「火とグルメの祭典あきつフェスティバル」の夜、風早小学校、安芸津中学校、県立豊田高校の児童生徒や地域の有志300名の人々が運び上げた薪を焚き、縦110メートル、横58メートルの「万」の字を浮かび上がらせる「万文字焼(まんもじやき)」の舞台です。地元の消防団員の人たちが、地域に対する恩返しにと計画したもので、平成2(1990)年から始まったそうです。保野山は、もともと「狼煙(のろし)」を上げる火の山だったそうで、遠くからでも見通すことができる位置にあるそうです。

JR風早駅への旅は、祝詞山八幡神社に作られた万葉歌碑と万葉陶壁を見る旅になりました。 ご案内くださった地元の方の温かさに触れる旅にもなりました。
思い出深い旅でした。



香川県最南端の駅JR讃岐財田駅

2020年04月02日 | 日記
香川県から県境の讃岐山脈を抜けて徳島県に向かう鉄道には、JR高徳線とJR土讃線があります。 JR高徳線の讃岐相生駅とJR土讃線の讃岐財田(さぬきさいだ)駅が、それぞれ香川県側の県境の駅になっています。
讃岐相生駅は北緯34度12分43秒、讃岐財田駅は北緯34度7分3秒に位置しています。 ”香川県最南端の駅”は、JR土讃線の讃岐財田駅ということになります。 
その讃岐財田駅です。駅舎の入口に増設されたゲートが印象的です。
讃岐財田駅前に聳えるタブノキの大木です。 樹齢700年とも800年とも伝えられ、「香川県保存木」に指定されています。 イヌグスとも呼ばれるクスノキ科の高木で、樹高20メートルにも達するそうです。 
JR土讃線は、香川県多度津駅と高知県の窪川駅を結ぶ鉄道です。 明治22(1889)年、讃岐鉄道によって、丸亀駅・多度津駅・琴平駅間が開業したことに始まります。 その後、山陽鉄道に買収され、明治39(1906)年に国有化されました。

この日は、土讃線の列車で、”香川県最南端の駅”、讃岐財田駅を訪ねることにしました。 その前に寄るところがあり、土讃線の善通寺駅からスタートしました。 土讃線の起点であるJR多度津駅始発の阿波池田駅行きの普通列車がやって来ました。 土讃線の多度津駅と琴平駅間は電化区間になっていますが、 この列車は、琴平駅から非電化区間に入るため、ワンマン運転のデーゼルカーによる運用になっています。

讃岐財田駅が開業したのは、大正12(1923)年5月21日。 琴平駅・讃岐財田駅間が讃予線として開業したときでした。 そして、昭和4(1929)年、徳島県の阿波池田駅まで延伸しました。 讃岐財田駅は、多度津駅寄りの一つ手前のJR黒川駅から2.3km、次の徳島県のJR坪尻駅まで8.2kmのところ、香川県三豊市財田(さいた)町財田上にあります。 「さいた」の地名は「狭井田」(さいた)が語源で「地下水が湧き出して、田畑が潤される土地に由来している」そうです(「難読・誤読駅名の事典」浅井建爾著)。 地名は「さいた」ですが、駅名は「さいだ」だそうです。 

JR善通寺駅で、普通列車に乗車してから、約20分ぐらいで、2面3線の讃岐財田駅の2番ホームに着きました。 停車している2番線は下り列車の副本線として使用されており、行き違いや特急列車の追い抜きの時に使用されています。 下車したのは、私のほかには高校生風の人が一人だけでした。 この駅の一日平均乗車人員は2014年には30人おられたそうです、 「山間にある無人駅」の雰囲気を感じました。

2番ホームの徳島県寄りに、駅舎に向かうときに利用する構内踏切があります。
やがて、駅舎側の1番線を、高知駅行きの南風7号(”アンパンマン列車”)が追い抜き、その先で大きく左にカーブしながら進んで行きました。 このあたりは、半径604mの急カーブ、3.3パーミルの急勾配になっているそうです。 このように、1番線は、上下線の本線になっており、いわゆる”一線スルー”になっています。  特急”南風”は、岡山駅から瀬戸大橋を渡り、JR宇多津駅から予讃線に入り、多度津駅からは土讃線を走る列車です。 阿波池田駅方面への制限速度は、時速85kmだそうです。 

その後、乗車してきた阿波池田行きの普通列車が出発していきました。 この先、猪ノ鼻トンネルなどで讃岐山脈を越え、スイッチバックで、”秘境駅”として人気の高い坪尻(つぼじり)駅に向かって進んで行くことになります。 ホームを、乗車して来た琴平駅側に向かって歩きます。

ホームの端から見た黒川駅方面です。 讃岐財田駅は2面3線のホームになっています。 駅の入り口にある黒部踏切とそれぞれのホームに向かう3本の線路、線路の左側に側線が見えます。

ホームを坪尻駅方面に向かって歩きます。島式ホームの中央に待合いのスペースがあります。右側に、駅舎とそれを覆うように聳えるタブノキが見えました。

ホームにあった待合いのスペースです。広々とした内部に長いベンチが2脚設置されています。 掲示物の上にあった「建物財産標」には、「国鉄 建物財産標 鉄 B停 旅客上屋1号 S29年12月」と書かれていました。 昭和29(1954)年に設置されたもののようです。

ホームから見た駅舎です。駅舎の右側の部分は駅の事務所になっていたところです。 今はドアが閉められ、カーテンで内部が見えない状態になっています。切妻屋根のホーム側にあったトイレも使用停止になっています。
阿波池田駅行きの列車が停車していたあたりまで戻ってきました。 もう一つ小さな上屋がありました。 この建物財産標には、「国鉄 建物財産標 鉄 B停 諸舎1号 S60年12月19日」と書かれていました。 構内踏切で駅舎に向かいます。

構内踏切は、20メートルぐらい坪尻駅側に移設されたそうです。 線路に降りる階段もその時廃止されたそうです。 20メートル移設ということですので、昭和60年設置の上屋があるあたりに、構内踏切があったようですね。

構内踏切からの駅舎側ホームです。 正面の線路は、上下線の本線で1線スルーになっており、行き違いや追い抜きがないときには、すべての列車がこの線を通過して行きます。 ちなみに2番線は下りの副本線で、下り列車が行き違いなどで停止する際に使用し、島式ホームの反対側の3番線は、上下副本線で上り列車でも下り列車でも、通過する列車を待避するときに使用されるそうです。
駅舎側のホームに上っていきます。

駅舎前の1番ホームです。
かつて改札口になっていたあたりから、駅舎内に入ります。 讃岐財田駅は、昭和60年(1985)年から無人駅になっています。 もともと、財田町の中心は瀬戸内海の海岸線を通る予讃線沿線の高瀬駅周辺でした。 中心地から遠く離れた南の端に設けられた駅であり、利用される方もさほど多くはなかったのではないでしょうか。
駅舎の中は右側に駅事務所があったところ、左側が待合室になっています。第一印象は、ずばり、「きれいな駅」。 文字通りちり一つない、もっといえば磨き込まれた雰囲気を感じる待合室でした。 駅舎からの出口の外側に「建物財産標」がありました。 「建物財産標 鉄 C停 本屋1号 T12年3月」と書かれていました。 大正12(1923)年は、讃岐財田駅の開業の年です。 開業当初からの駅舎のようです。

長いベンチの後ろの出窓には、花が飾ってありました。 地元の方のご尽力の賜物です。 気持ちよく過ごさせていただきました。 
 
ホーム側の壁面に合った時刻表です。 この駅に停車する列車は1日7往復ありますが、日中の運行は2往復半になっています。 私は12時18分着の列車で来ましたが、その前の列車は7時24分着。その次は14時41分着の列車までありません。 14時14分発の列車で琴平方面に帰るつもりでしたが、その前の列車は8時42分発の列車でした。その次の列車は17時17分になります。 訪ねて来るのも、この地に滞在するのも難しい状況になっています。

こちらは、ホームから見て右側の光景です。 窓口のカウンターとその先の掃除用具入れ、そして、平成24(2012)年の国土交通大臣からの表彰状が見えます。地元の「タブの木会」の皆様が駅の施設等の環境美化に努められたことに対する表彰状でした。  

駅舎の出入り口のドアから駅舎の外へ出ました。駅舎の前にゲートがつくられています。
駅前広場から見える駅舎です。 駅舎前にある大きなタブノキが、多い被さるように生えています。 タブノキの脇には小さな公園が整備されており、地元の和光中学校の「まちづくり推進隊」の方々がつくられた説明板がありました。

「駅舎建設にあたり、このタブノキは切り倒されることになった。 当時ここに祠があり、地元では『タブノキはご神木で霊が宿っており、タブノキを切るとたたりが起こる』と信じられていた。 鉄道建設のため、成り行きを見守っていた工事関係者に不慮の事故による負傷者が相次いだため、ご神木のタブノキは手をつけずに残されることになった」と、説明板には書かれていました。

タブノキの向かい側、駅舎に向かって左側に、黒部踏切の近くで本線から分離した側線の車止めがありました。 かつては、このあたりは貨物ホームだったのでしょうか。 左側には広い空き地があります。
駅前広場の右側にあった四国のみちの案内です。 讃岐財田駅は、讃岐山脈北麓の丘陵上にありますが、讃岐山脈を越えた徳島県側にある箸蔵寺(はしくらじ)へ向かう信仰の道、箸蔵道が描かれています。箸蔵寺は、金刀比羅宮の奥の院で、江戸時代から、金刀比羅宮に参拝した人たちは、その後、箸蔵寺へも足を延ばしたといわれています。 
 
案内板の近くにあった「四国のみち」の石碑です。 ここから讃岐財田駅への入口にある黒部踏切まで行ってみることにしました。

右側に讃岐財田駅の線路を見ながら10分ぐらいで、黒部踏切に着きました。 「黒部踏切 23K593M」と書かれています。土讃線の起点、多度津駅からの距離のようです。 その時、南風9号が通過して行きました。

黒部踏切から見た讃岐財田駅方面です。 1番線がまっすぐ駅舎前に向かっています。すぐ先で分岐した2番線は、その先の島式ホームの手前で3番線と分岐しています。

踏切の脇に立つ道標です。 土讃線の線路を黒部踏切で渡って進んで行く道が箸蔵道です。
信仰の道であった箸蔵道は、行程約11km。 道の途中には里程を示す道標が立ち、平成8年に改築された二軒茶屋などもあります。 信仰の道としてだけでなく、阿波と讃岐の交易の道としても重要な役割を果たしてきました。

土讃線の県境の駅であり、香川県最南端の駅である讃岐財田駅を訪ねてきました。
静かな山間の無人駅ですが、地元の人たちのお力で美しく保たれている、居心地のいい駅でした。


廃止から復活した駅、JR芸備線上三田駅を訪ねる

2020年03月25日 | 日記
 JR芸備線は、広島駅から三次駅・備後落合駅を経由して、岡山県の備中神代駅を結ぶ、全長159.1kmの鉄道です。 その間を結ぶ列車は、広島駅・三次駅間、三次駅・備後落合間と、備後落合駅・備中神代間の3区間に分かれて、運行されています。

JR芸備線の上三田(かみみた)駅です。 写真で見たこの駅から、山間の駅にみられる独特の雰囲気を感じて、いつか訪ねてみたいと思っていました。 芸備線の井原市(いばらいち)駅を訪ねた日、広島駅に向かう途中で立ち寄ることにしました。

広島駅行きの2両編成の列車で、井原市駅を出て10分ぐらいで、上三田駅に着きました。 井原市駅から2つ目の駅でした。 3、4人の若い人とともに、下車しました。 乗車された方は2人おられました。 この駅の1日平均の乗車人員は、平成29(2017)年には89人おられたそうです。

盛り土の上につくられたホームは、周囲の集落より高いところにありました。 出発した列車は、正面の山の手前で左にカーブし、山の麓を広島方面に向かって進んで行きました。

こちらは、井原市駅方面です。1面1線のホームですが、貨物列車も走っていた時代の名残か、長いホームが、周囲の民家の屋根の高さにありました。

ホームから駅舎に降りて行くところにあった駅名標です。 上三田駅は、三次駅側の志和口駅から4.5km、広島駅側の中三田駅まで3.5kmのところ、安佐北区白木町大字三田にあります。 階段の先に、スレート葺きの駅舎が見えました。

階段を下ります。 盛り土の上のホームは、レール材で支えられています。 
広島駅・三次駅間の芸備線は、大正4(1915)年4月28日に、芸備鉄道として、東広島駅(現在の広島駅から640m程離れたところにありました)と志和地駅間が開業したことに始まります。 そして、その年の6月1日には、三次駅(現在の西三次駅)まで延伸開業しています。 広島駅に乗り入れを始めたのは、大正9(1920)年、そして、国有化されたのは、昭和12(1937)年7月1日のことでした。

下から見た石段です、25段ぐらいでホームに上ることができます。 
広島駅・三次駅間を走る芸備鉄道は、並行して走るバス事業との競合が続いていました。芸備鉄道では、昭和4(1929)年に、ガソリン動力併用の認可を受けて、新たにガソリンカーでの運行を始めました。 こうして、上三田駅は、翌年の昭和5(1930)年に、ガソリンカー1両分のホームで開業しました。 この駅は、駅舎のあるところの集落の名前をとって、「三田吉永駅」と命名されました。 このときの駅舎は、現在地から150mぐらい広島寄りのところにあったそうです。 その後、三田吉永駅は、昭和12(1937)年、芸備鉄道の国有化に伴い、現在の「上三田駅」と改称されました。 


上三田駅が、現在の地に移って来たのは、太平洋戦争の終戦後の昭和23(1948)年のことでした。 
写真は、ホームへ上がる階段を側面から見たものです。 大小さまざまな石がぎっしり積みあげられています。 見ていて飽かない光景です。 
先に、上三田駅が、終戦後に、この地に駅が移って来たと書きましたが、 戦前に、上三田駅は、廃止されていたのです。
日本が、太平洋戦争に突入した昭和16(1941)年、ガソリンカーが使用停止となり、蒸気機関車が牽引する列車だけが運行されることになりました。昭和16(1941)年8月10日、ガソリンカー1両分のホームしかもたない(ガソリンカー専用)駅が廃止されることになり、上三田駅など11駅が廃止されたのです。 
写真は、上三田駅の待合室前の通路です。

駅事務所前の軒下には、この駅を利用されている方々の自転車が置かれています。
太平洋戦争後、戦後の復興が進むにつれて、地元では、廃止されている上三田駅の復活を求める運動が盛り上がって行きました。その運動の高まりにより、地元で建設費を負担することで、昭和23(1948)年8月10日、現在地に上三田駅を復活させることができました。 
 
上三田駅は、昭和46(1971)年から無人駅になっています。
 駅舎内に入ります。待合室の右側には、座布団が置かれた、造り付けのベンチがあります。その上の窓があった部分は掲示スペースになっています。

出口付近に写真が掲示されていました。  「祝! 芸備線復活 JRありがとう 令和元年10月23日」と書かれた横断幕と、列車に向かって手を振る地元の人たちの喜びの表情が見えます。 平成30(2018)年の7月豪雨により、狩留家(かるが)駅と白木山(しらきやま)駅間の三篠(みささ)川に架かる橋梁が、橋脚ごと流されてしまいました。それ以後、不通になっていた芸備線が復旧し、令和元(2019)年10月23日に、全線が開通しました。写真は、それを祝う人たちの姿を伝えてくれています。
 
 向かい側には、自動券売機が設置されています。 カウンターの上には、時刻表が置かれていました。 
 
 駅舎から出ました。入口の庇を支える虎カラーの柱の右側に、建物財産標がありました。    「国鉄 建物財産標 財第1号 鉄 C停待合室 S23年3月」と書かれていました。 現存している駅舎は、地元の人たちの運動によって駅が復活したときに建設されたもののようです。 左側の柱の上には、「スレート管理標」がありました。 それには、「北側全面 平成15年5月19日」と記されていました。このとき、スレートが葺かれたのは、屋根の手前側の全面だったということのようです。 
 
 駅への取付道路です。左側には民家が、右側には「売地」と書かれた空き地がありました。 

地元の人々の建設費によって建設された上三田駅の駅舎です。 上三田駅がこの地に移って来てから、すでに71年が経過しました。 駅は無人駅となり、不要になった事務所部分には、板が打ち付けられています。 
駅舎は少しさみしい状況になっていますが、駅の復活に尽力された地元の人々にとって、いつまでも心のよりどころになる駅であってほしいと願ったものでした。
 
 

 
 

JR芸備線井原市駅を訪ねる

2020年03月24日 | 日記
第三セクターの井原鉄道の井原駅です。 岡山県の西部、井原市にある駅です。 1999(平成11)年に、井原鉄道の開業と同時に設けられました。内部は、駅とともに、デニムなど井原市の特産品の展示場や売店、飲食店などが並ぶ井原市のコミュニティホールとしても使用されています。

駅舎のデザインは、源平の戦いで知られる那須与一に因み、弓と矢を模しているそうです。 那須与一は、元暦2(1185)年、屋島の戦いで、扇の的を一矢で射落とした軍功により、井原市のエリア内にあった備中国荏原荘など5ヶ所の領地を得たことで、よく知られています。
井原駅に対し、「井原市駅」という駅があります。 JR広島駅と岡山県の備中神代駅を結ぶJR芸備線の井原市(いばらいち)駅です。 この日は、JR芸備線の井原市駅を訪ねてきました。 JR広島駅の9番乗り場から出発する、三次(みよし)駅行きの列車に乗車しました。 キハ40形とキハ47形の3両編成の列車でした。

広島駅から太田川、そして三篠(みささ)川に沿って北に進み、1時間ぐらいで、井原市駅に着きました。 進行方向の右側にある1面1線のホームに、3人ほどの方とともに降り立ちました。 この駅の1日平均乗車人員は、2017年には90人だったそうです。 井原市駅は、一つ前の志和口駅から4.0km、次の向原駅まで5.9kmのところ、広島市安佐北区白木町大字井原にあります。広島市内の最北端の駅といわれています。 井原市駅という駅名は、江戸時代から市場町として栄えていたところということで、名づけられたそうですが、かつてはいばら(茨)の生えていた野原が広がっていたところだったのでしょう。

ホームの左側の光景です。 周囲の山の麓にある集落まで広々とした農地が続いています。

ホームを広島駅方面の端まで歩いて来ました。 長いホームは、かつては貨物を取り扱っていた頃の名残だそうです。 線路の先に志路(しじ)踏切が見えます。

志路踏切から見た井原市駅方面です。 井原市駅は、大正4(1915)年4月28日に、芸備鉄道が開業したときに、当時の高田郡井原村に設置されました。 そして、昭和12(1937)年に国有化されました。 その後、昭和55(1980)年、広島市が政令指定都市に昇格したのに伴い、現在の所在地に変わっています。無人駅になったのは、昭和61(1986)年のことでした。

三次駅方面に向かって引き返します。 現在は撤去されていますが、かつて、線路が敷設されていたと思われる跡が残っており、以前は、島式ホームの1面2線で運用されていたそうです。 また、右側の駐車場になっているところでは、かつては貨物の取扱いが行われていたようです。
下車したあたりまで戻ってきました。駅舎は撤去され、その跡に小さな待合室が設置されています。

三次駅方面にさらに歩くと、駅名標が設置されていました。 長い年月、風雪に耐えて来たことがうかがえる駅名標でした。 「広」のマークは、「広島市内駅」であることを表しているそうですが、その北限の駅になっています。
ホームの三次駅方面です。ホームの先にあるのは日詰第2踏切。線路はその先で右にカーブして、次の向原駅に向かって敷設されています。このことからも、かつて1面2線のホームだったことがうかがえます。踏切の手前は民家がホームに接して並んでいます。

ホームの真ん中あたりにホームから降りる階段が設置されています。その先が、待合室になっています。 平成31(2019)年2月25日に、それまであった木造駅舎の撤去が始まりました。 「平成29(2017)年1月18日(水)の午前9時40分頃、改札口前の屋根(庇)が落下した」とのことで、老朽化による撤去ということになったそうです。

駅舎が撤去された後につくられた待合室です。間口1間半に、奥行き1間ぐらいの広さで、右側に設置されている3脚のベンチが見えました。

ベンチの上にあった地元の白木中学校区の中学生が作った「ふれあい標語」です。 平成31年度の優秀作品を紹介する掲示でした。


待合室の内部です。ベンチの向かいにあった自動券売機、運賃表と時刻表です。

待合室から見たホームです。

駅前広場にあった案内板です。神ノ倉山(かんのくらやま)を中心にした山歩きのコースを紹介しています。 井原市駅の周辺を歩いてみることにしました。
駅への取り付け道路です。家並みの向こうに標高561.5mの神ノ倉山が見えます。 旧街道との三差路を右折して進みます。
取り付け道路から見た駅方面です。 待合室がずいぶん小さく見えます。

古くから市場町の中心地として栄えた旧街道を進みます。やがて、右側に「高田鶴特約店」と書かれた看板が見えて来ました。 江戸時代に広島藩領だったこの地は、明治11(1878)年の郡区町村編成法の施行時に、高田郡が発足し、続いて、明治22(1889)年の町村制の施行時に、高田郡井原村となりました。 高田郡の地酒として多くの人に親しまれて来たブランドなのでしょう。
このお宅のすぐ先にある「井原老人集会所」の前で左折して進みます。

この町を流れる三篠川に架かる井原大橋の西詰めに出ます。 三篠川の堤防上を走る広島県道37号を渡ります。 神ノ倉山が見えます。

井原大橋の上からの三篠川です。向こう岸に、桜並木がありました。

井原大橋の東詰です。桜の木が植えられた堤防に石碑がありました。 「西暦2000年記念櫻」、 「白木町井原 原爆被爆者の会」と刻まれていました。

旧街道に戻ってきました。 さらに、その先に進んで行きます。 栄堂(えいどう)川に架かる旭橋を渡って、右に進んでいきます。

7メートルぐらいの長さの芸備線の橋梁がありました。橋桁に書かれた「塗装管理標」には、「橋梁名 旭川B 6M66」と書かれていました。 橋梁の先には、志路踏切があります。

岡山県の西部の井原市と、伯備線の清音(きよね)駅、西は広島県の福塩線の神辺(かんなべ)駅を結ぶ第三セクター鉄道の井原鉄道。 その中心駅は井原(いばら)駅です。 この日は、JR芸備線の井原市(いばらいち)駅を訪ねてきました。 井原市(いばらいち)駅の存在は前から知っていたのですが、訪ねるのが遅れ、木造駅舎はすでに撤去されていました。もっと早く訪ねていればと悔やまれました。
以前、訪ねたJR呉線の須波(すなみ)駅(「レトロな駅舎が撤去されていた JR須波駅」 2019年1月25日の日記)と、同じ体験をすることになりました。


香川県最東端の駅、JR讃岐相生駅

2020年01月24日 | 日記

JR高徳線の讃岐相生駅です。香川県と徳島県の県境の香川県側にある駅です。前回は、香川県最西端にあるJR箕浦(みのうら)駅を訪ねてきました(「香川県最西端の駅、JR箕浦駅」2020年1月6日の日記)。 今回は、香川県最東端の駅とされるJR讃岐相生(さぬきあいおい)駅を訪ねることにしました。

JR高松駅の1番ホームで出発を待つ徳島駅行きの列車です。1560号車と1253号車のワンマン運転の2両編成でしたが、後ろの車両(1253号車)は回送扱いでしたので、先頭車両の1500系気動車に乗車しました。 エコ車両として知られる1500系は2006年からの8年間で34両が製造され、1560号車は2011年にデビューしています。

讃岐相生駅の2番ホームに到着しました。 高徳線は単線のため、行き違い列車との交換や特急列車の追い抜きによる停車時間があったため、高松駅から約1時間50分ぐらいかかってしまいました。 讃岐相生駅は駅舎寄りの1番線が「一線スルー」になっています。 ここでも行き違いか、特急列車の追い抜きがあるはずです。 讃岐相生駅は引田(ひけた)駅から2.5km、次の徳島県阿波大宮駅まで5.6kmのところ、香川県東かがわ市南野にありました。 

ホームから見た徳島駅方面の風景です。 このとき、徳島駅行きの”特急うずしお”が1番線を通過して行きました。 讃岐相生駅を出た列車は、徳島県との県境にある讃岐山脈を、最大25パーミルの急勾配を登り、大小合わせて11のトンネルを抜けて進んで行くことになります。 
讃岐相生駅は高徳線の香川県最南端の駅になっていますが、JR土讃線の讃岐財田(さぬきさいだ)駅の方が少し南に位置しているため、「香川県最南端の駅」の座を、讃岐財田駅に譲っています。 

ホームのようすを見て回ることにしました。 2番ホームの待ち合いのスペースです。上屋の下にベンチが設置されています。 グリーンとホワイトのツートンカラーが鮮やかでした。

2番ホームの駅名標のところに、線路と並行して走る道路からホームに上がる階段
がありました。
 
乗車して来た列車が出発して行った後の高松駅方面の光景です。駅舎側へは跨線橋で移動する構造になっています。

2番ホームから見た駅舎です。 白一色の瀟洒な建物ですが、ドアも窓も閉まっていて、人の気配がまったくありません。 そういえば、下車したのは私だけ、乗車した人もおられませんでした。 ちなみに、讃岐相生駅の1日平均乗車人員は2014年には18人だったそうです。

跨線橋の上から見た駅の全景です。 上下2本の線路に2番ホームの上屋、ホームに並行して走る道路、駅名標と跨線橋、1番ホームの跨線橋と駅舎、ホームの上屋が見えました。 駅舎の手前にトイレもありましたが、現在は入口が閉じられていました。 

駅舎の入口は閉まっていましたが、施錠はされていませんでした。 駅舎の内部に入りました。 内部は、ごみ一つない清潔な空間になっています。 灯りは点っていませんでしたが、ホームに向かって右側にベンチが2脚と窓がありました。 正面に掲示されていた時刻表には、上り(高松駅行き)、下り(徳島行き)とも、1日9本の列車の出発時刻が書かれていました。 

左側には、駅事務所の跡がありました。 JR讃岐相生駅が開業したのは、昭和10(1935)年でした。 引田駅と徳島県の板西(現・板野)駅間と、吉成駅と佐古駅間が開業し、高徳本線(当時、現高徳線)が全通したときでした。 その後、讃岐相生駅は、国鉄時代の昭和47(1972)年から無人化され、簡易委託駅(切符の販売のみを委託)となりました。 現在は、簡易委託も廃止され、完全な無人駅になっています。

駅舎から外に出ました。駅舎の正面です。 人の気配がありませんでした。 これは、隣の引田駅が特急停車駅で、高松駅から発車する普通列車の半数が引田駅までの運行であることが影響しているようです。 3kmぐらいで、利便性の高い引田駅に行くことができるという地理的な条件によるものだそうです。 

駅の周辺を歩いてみようと思いました。 駅舎に向かって左側に讃岐相生駅周辺の案内板(昭和61年香川県作成)がありました。 寿永年間(1182年~1185年)、源平の合戦で、讃岐国屋島に陣を敷いていた平氏を追討するため、源義経が率いる源氏の軍勢が阿波国から大坂峠を越えて讃岐国に入ったとき、初めて人馬を休めたのが、讃岐相生駅から西に1kmのところにある馬宿という集落だったそうです。
こちらの案内図も駅前にあったものです。表面がかなり傷んでおりましたが、源義経が兵馬を休ませた馬宿は、引田駅へ行く途中にある馬宿川に近いところにあったようです。 

讃岐相生駅から駅前の取り付け道路を進みます。少し離れたところから見た駅舎です。 駅舎前の2本の大木に守られているようにも見えます。 駅前からまっすぐ進み、国道11号を横断しました。
国道11号の先は相生漁港でした。 漁船や渡船が停泊しています。その向こうに、国道11号の標識や東かがわ市南野の集落が見えます。 この地は、漁業も盛んですが、和三盆(わさんぼん)の製糖でも広く知られています。駅前にあった案内によれば、「和三盆」は、”讃岐三白”(砂糖・塩・綿)の一つで、「キビをしぼって作った白下糖を手作業で漂白し製造する白糖で、高級和菓子の原料になる」のだそうです。 また、塩については、江戸時代末期に、久米栄左衛門通賢が塩田開発を主導し、”讃岐の塩田開発の祖” と称えられているそうです。

相生漁港から見た播磨灘です。沖合に浮かぶ、左から毛無島、通念島、そして松島です。 

「讃岐相生駅」「四国のみち」と書かれた道標がある国道11号と讃岐相生駅との分岐点まで戻ってきました。 「四国のみち」とは全長1545.6kmの四国自然歩道のこと。 四国八十八ヶ所霊場や各地に点在する身近な自然や歴史に親しみながら、四国を歩いて一周することができるように指定されているそうです。 かつて、源義経の軍勢が越えて来た大坂峠への入口まで行って見ることにしました。 道標から、国道11号を徳島方面に向かって歩きます。

峠道は、3ルートあるそうです。 一つは江戸時代以前につくられた道、明治時代初期につくられた道、明治時代後期につくられた道の3ルートです。 道標にあった「四国のみち」には、「明治時代初期につくられたルート」が指定されているそうです。 国道11号を進むと右側に道標がありました。「右大坂道」「四国のみち」と書かれています。 「大坂道」は赤字で書かれていて、四国八十八ヶ所霊場への遍路道の案内だそうです。この先はこの「遍路道」に沿って歩くことにしました。 ここを右折します。

右折するとすぐ、左側に坂元川に架かる井関橋があります。 井関橋を渡って進みます。

その先、左側に「坂元集落センター」がありました。大きな石碑の先に石灯籠が見えます。 ここで、出会った地元の方は、「以前、この道をバスが通っていたんだよ」とおっしゃっていました。
その先で、国道11号から分岐した道に合流します。道なりに進みます。

その先で、通りが分岐します。 電柱の脇に「大正10年10月建立」と刻まれた道標が残っていました。 まっすぐ進みます

集落の中に「大坂峠」と書かれた遍路道の案内がありました。道なりに進みます。
左側に、地主神社の参道を見ながら進みます。
その先で、通りはJR高徳線とアンダークロスすることになります。
アンダークロスを抜けると道標があります。通りがかった方にお聞きすると「遍路道は高徳線に沿って行く道ですよ」とのこと。 山に向かって歩きます。
遍路道はここから山道に入ります。 大坂峠への道になります。

香川県最東端の駅、JR讃岐相生駅を訪ねて来ました。 
無人駅の讃岐相生駅では、誰とも出会うことができませんでしたが、駅舎もホームも跨線橋も管理が行き届いている美しい駅でした。






香川県最西端の駅、JR箕浦駅

2020年01月06日 | 日記

JR予讃線の箕浦(みのうら)駅です。貨車を改造した駅舎(待合室)をもつ無人駅で、香川県観音寺市豊浜町箕浦にあります。香川県高松駅と、愛媛県松山駅を経て宇和島駅を結ぶJR予讃線の香川県側の最後の駅になっています。

この日は、JR坂出駅から普通列車で多度津駅へ、そこから伊予西条駅行きの普通列車に乗り継ぎ1時間15分ぐらいで、箕浦駅に着きました。 予想以上に時間を要したのは、途中駅での行き違いや特急列車の追い抜きのための停車時間が多かったからです。箕浦駅は、豊浜駅から4.4km、次の愛媛県側の最初の駅、川之江駅まで5.8kmのところに設置されています。箕浦駅に入る手前から、右側に海が見えるようになりました。 列車は3分の2以上の座席が埋まっていましたが、ここで下車したのは、私一人でした。

1面2線の島式ホームの愛媛県方面に向かって左側、2番ホームに到着しました。2番線が1線スルーになっており、行き違いのある場合を除き、上り列車(高松駅方面行き)、下り列車(松山駅方面行き)ともに、このホームに到着しています。 乗車して来た列車は、すぐに出発して行きました。 列車は、この先で県境の鳥越トンネルを抜けて愛媛県に入り、次の停車駅、川之江駅に向かって進んで行きます。

長いホームの松山駅側の端で降車しましたが、「通行禁止」の看板のある反対側、高松駅側のホームの端にやってきました。予讃線は、JR土讃線と分岐するJR多度津駅から先は、単線区間になっています。右側が2番線で、左側の1番線から側線が分岐しています。

ホームの松山駅側のようすです。ホームのすぐ脇が1番線。1番線から分岐した側線は車庫につながっています。ホームは上屋があるだけのシンプルなつくりになっていました。

ホームの上屋です。ブロックの仕切りの両側にベンチがあるだけで、時刻表や運賃表も掲示されていませんでした。

ホームの端から構内踏切を渡ります。正面に貨車を改造した駅舎(待合室)と左側にトイレ、右側に倉庫として使用されているらしい建物が見えます。そして、待合室の出入口を通して燧灘(ひうちなだ)の青い海も見えました。

箕浦駅は、大正5(1916)年4月1日、予讃線の観音寺駅と川之江駅間が開業したときに、中間駅として開業しました。

待合室の内部です。ここには駅らしい雰囲気が漂っています。ベンチが設置されており、時刻表や運賃表、その他さまざまな「お知らせ」が掲示されていました。時刻表から、日中は特急列車と普通列車が1本ずつ運行されていることがわかります。

海側に白いベンチが設置され、ホーム側の壁面に時刻表や運賃表が掲示されています。広くはない室内ですが、快適な空間になっていました。明るい日差しが差し込みまぶしいぐらいでした。しかし、私の滞在中に駅に来られた方は、一人もおられませんでした。ちなみに、箕浦駅の1日平均の乗車人員は、2018年には15人だったそうです。


待合室から駅前広場に出ました。海をイメージしたダークグリーンと黄色のラインが鮮やかな駅舎の外観です。 「JR箕浦駅」と書かれたプレートの横の出入口の屋根の下に白く見えているところに、「建物財産標」がありました。

この待合室は、国鉄時代の昭和59(1984)年11月26日に設置されたようです。



駅前広場から一段低いところに、国道11号があり、多くの車両が行き来しています。駅の並びに、讃岐うどんのお店がありました。 「西端手打うどん 上戸うどん」です。 国道の脇に「う(うどん)」と見える看板がありますが、それには「燧(ひうち)のいりこは日本一」と書かれてありました。地元の燧灘で獲れるいりこ(カタクチイワシ)から取ったうどんだしが売り物のお店のようです。ちょうど昼時でしたので、駐車場にはたくさんの車が並んでいました。 県境に近いところだけに「香川」ナンバーと「愛媛」ナンバーの自家用車でやって来るたくさんの家族連れで賑わっていました。


箕浦駅前に広がる燧灘です。駅の待合室からもこの広々とした姿を見ることができます。 波除けブロックの向こうに見える島が、「いりこの島」として知られる伊吹島です。島の周辺で漁獲されたカタクチイワシは、30分以内に海岸にある加工工場で洗浄、選別され、すぐに煮沸、機械乾燥されて、翌日には出荷が始まると言われています。 この一貫体制によって、鮮度が維持できることが、上質ないりこの秘密だそうです。

 

うどんのお店から愛媛県の側を見ると、海に向かって突き出した突堤が見えました。箕浦漁港を訪ねてみようと思いました。


上戸うどんのお店の「讃岐最西端駅饂飩」と書かれた看板を見ながら歩き始めました。 

国道11号を愛媛県方面に向かって15分ぐらい歩くと箕浦漁港に着きました。 元禄(1688~1704)年間、防波堤と荷揚げ場を築き、商業港、漁港として整備され、大正時代まで、多くの水揚げ高を誇る漁港として栄えました。

しかし、波が運ぶ土砂によって、船舶の出入りが困難な状態になったため、昭和5(1930)年に当時の箕浦漁協組合長、田中愛二郎氏が私財を投じて、外港を整備されたそうです。箕浦漁港は、「未来に残したい漁業、漁村の歴史文化財産百選」に認定されています。 (観音寺市ホームページより)


箕浦港の常夜灯の脇には、私財を投じて港の整備を行った田中愛二郎氏の顕彰碑が残っており、その功績を今に伝えています。

JR予讃線の香川県と愛媛県の県境近くにある無人駅、JR箕浦駅を訪ねてきました。
貨車を改造した駅舎の前には、美しい燧灘の風景が広がる駅でした。



”秘境駅”上古沢駅から中古沢橋梁を訪ねる

2019年10月02日 | 日記

南海電鉄高野線には、牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”にランクインしている駅が、3つあります。 その中で、67位にランクインしている紀伊神谷駅(「南海電鉄の秘境駅(1)紀伊神谷駅を訪ねる」2019年8月27日の日記)と、147位の紀伊細川駅(「南海電鉄高野線の秘境駅(2)紀伊細川駅を訪ねる」2019年9月7日の日記)は、すでに訪ねて来ました。

この日は、もう一つの”秘境駅”、187位にランクインしている上古沢(かみこさわ)駅を訪ねることにしました。
南海電鉄橋本駅から、極楽橋駅行きの各停の電車に乗車しました。
25分ぐらいで、下古沢駅に着きました。「3本の列車との行き違いのため、15分ぐらい停車します」という車内アナウンスがありました。 ホームに出て、対向列車の写真を撮ることにしました。先頭車両の近くのホームで待っていると、「長くお待たせしてすみませんね」と、運転士さんが声をかけてくださいました。 「停車時間を楽しんでいますので・・・」とお返ししましたが、このようなお気遣いをいただいたのは、初めてのことでした。

最初の行き違い列車が来ました。橋本駅行きの各停です。下古沢駅は、もともとは、2面2線のホームでしたが、平成14(2002)年に、列車の交換設備が撤去され棒状駅になりました。そのため、橋本駅方面行きの電車が通る線路は撤去され、砂利に覆われた状態になっていました。
二本目の行き違い列車は、特急こうや号でした。 ところが、平成29(2017)年10月22日の台風21号の影響により、上古沢駅構内で起こった地すべりのため、行き違いの機能が下古沢駅に移設されることになりました。 現在では、2面2線の対面式ホームをもつ駅に戻っています。
最後に、回送列車の2300系の電車が通過して行きました。この車両は「人と環境にやさしい車両」をコンセプトに、平成17(2005)年にデビューしました。広い窓を持つズームカー。 2両編成4本が運行されています。この編成は、2301号車と2351号車で、「さくら」の愛称で呼ばれています。
標高177mの下古沢駅から、3,4分ぐらいで、標高230mの上古沢駅に着きました。 50パーミルの急勾配、曲線半径100m以下という急曲線のルートを、制限時速33kmで、中古沢橋梁を渡り、3つのトンネルを抜けて上って来ました。 運転士さんに「お気をつけて」とお気遣いのお礼をすると、すぐに、次の紀伊細川駅に向かって出発して行きました。電車の最後尾に駅舎に向かう構内踏切が見えました。

反対方向の橋本駅方面のホームの全景です。上屋と駅名標があるだけのシンプルなつくりになっていますが、駅名標は、高野線の旅の魅力向上のための「こうや花プロジェクト」の一環として、シンボルマークの緑・赤・ゴールドを使ったものにリニューアルされています。 線路に合わせて、ホームも大きく左にカーブしていました。


ホームの橋本駅方面の端から見た極楽橋駅方面のようすです。
平成29(2017)年10月22日に襲来した台風21号の影響で、駅の橋本駅方面で地滑りが発生し、運転見合わせとなりました。平成30(2018)年2月に、南海電鉄では、早期の復旧のため、橋本駅方面行きのホームの使用を休止し、行き違いの設備を下古沢駅に移設することにして、3月31日に運転を再開しました。 それ以後、1面1線の棒状のホームになりました。 2面2線のホームだった頃、橋本駅行きの電車が通っていた線路は撤去され、砂利に覆われています。 
使用休止になっているホームの先に、上古沢駅の駅舎の屋根が見えました。

以前、橋本駅方面に向かう列車が停車したホームの末端部分です。ホームの向こうの斜面の下に、上古沢の集落が広がっているのが見えます。 
極楽橋駅方面のホームの端まで戻ってきました。構内踏切と駅舎が見えます。
秘境駅ランキングを主宰されている牛山隆信氏は、上古沢駅を「人家の少ない地域の、山深い急斜面にある有人駅、古い駅舎が傾いている」と記録されています。牛山氏が「有人駅」と書かれているように、上古沢駅は、平成12(2000)年から業務委託駅になっていましたが、平成30(2018)年3月31日、橋本駅・極楽橋駅間が台風による被害から復旧したときからは、無人駅になっていました。
構内踏切を渡って駅舎に向かいます。撤去された線路跡です。 


極楽橋駅方面の線路跡です。牛山氏が「古い駅舎が傾いている」と書かれていましたが、右側にある駅舎を支える柱が右側の谷に向かって傾いているように見えます。

構内踏切と、使用休止になっているホームへの階段です。階段の上り口は鎖で封鎖されています。
駅舎に向かいます。白い駅舎の手前にグレーに見える建物が増築されています。近くで見ると、駅舎部分がかなり右側に傾いているのがわかります。
上古沢駅は、昭和3(1928)年、高野山電気鉄道が、高野下(こうやした)駅と神谷駅(現・紀伊神谷駅)間を開業させたときに開業しました。南海電鉄の駅になったのは、戦後の昭和22(1947)年3月のことでした。
キップを自動改札機に通して駅舎に入りました。その向こうに、造り付けのベンチが見えます。これまで訪ねてきた紀伊神谷駅や紀伊細川駅と同じ規格で建てられた駅舎だと感じました。 開業当時の駅舎が今も使用されているようです。
上古沢駅の中に入りました。自動改札機の向こうに駅舎の上屋や高野線の線路が見えました。 駅舎は2間四方ぐらいの広さです。 駅には自動発券機が設置されていないため、オレンジ色の「乗車駅証明書」の発券機が設置されていました。その後ろの壁面には、経済産業省の「近代化産業遺産」の認定書がありました。
平成21(2009)年に紀伊清水駅・極楽橋駅間の各駅、紀の川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線と高野山駅とともに、上古沢駅も「近代化産業遺産」に認定されました。

無人駅のためか、紀伊神谷駅や紀伊細川駅にはなかった、南海電車の運行状況を示すモニターが設置されていました。このときは、南海本線の和泉大津駅と忠岡駅の間で発生した事故によるダイヤの乱れを伝えていました。
駅舎への出入口から見た駅舎内です。 清掃が行き届いており、清潔感あるれる駅舎になっていました。この駅の1日平均の乗降客は14人(2017年)で、南海電鉄の100駅中の99位、紀伊神谷駅に次いで利用者の少ない駅になっているようです。

駅舎の正面です。こうして、正面から見ると、谷側に傾いているようには見えませんでした。 正面左側の通路から裏に回ってみます。

こちらから見ると、やはりかなり傾いており、4本の柱で駅舎を支えているようです。

この日は、もう一つ、中古沢橋梁を訪ねようと思っていました。
「中古沢橋梁へいく道は駅に資料がありますから大丈夫。よくわからなければ、駅に設置されているインターホンスピーカー(遠隔対応装置)を利用すれば教えてくれますから・・」と、橋本駅から乗った電車の運転士さんに教えていただいていました。

駅舎に掲示されていた「防災マップ」です。この中に中古沢橋梁へ行く道が書かれていました。マップの右下が上古沢駅でそこから上に向かって高野線が延びています。左右に延びている道が高野線と交差するところが中古沢橋梁のあるところのようです。
中古沢橋梁をめざして歩きます。マップの案内にしたがって、駅前にあるトイレの脇を下って行きます。降りたところで、昭和43(1968)年に廃止された高野山森林鉄道の跡地に合流するようです。 高野山森林鉄道(以下「森林鉄道」)は、明治42(1909)年に九度山・高野山間が開通しました。運営は、大阪営林局高野営林署が担っていました。ルートは、ほぼ現在の南海電鉄高野線の九度山駅・極楽橋駅間と並行しており、全長45kmを超える路線だったようです。
坂を下りきったところで、写真の向こう側から伸びている森林鉄道の線路跡と合流します。ここを右の方に進んで行きます。

森林鉄道の跡地を下古沢駅方面に向かって進みます。上古沢駅よりもさらに進んだところに、「上古沢駅」 「古峠 二ツ鳥居を経て 丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」と書かれた道標がありました。写真の右の細い急坂の道が上古沢駅に通じる道です。ここはまっすぐに進んで行きます。

平成29(2017)年に起きた地すべりの復旧工事の跡が、右側の斜面に見えています。 この先は、森林鉄道のトンネル跡まで、道なりに進んで行きます。
右側にトンネルが見えました。左の道を進むと、災害時の避難場所である中古沢の集会所に行くことができます。 トンネルに入ります。
トンネルを抜けると線路跡は大きく右にカーブする道になりました。

日当たりがよくないせいか、ぬかるみのような道になっていましたが、そのまま進むと左にカーブしながら橋を渡ります。 ガードレールの部分にあった4つのプレートには、「渕ノ上橋」 「ふちのうえはし」 「エリ谷川」 「昭和58年3月架橋」と書かれていました。

大きく左にカーブしながら下ると目の前に車庫がありました。歩いてきた森林鉄道跡地は車庫の左側をさらに下っていたようです。 このとき、ちょうど目の前の車庫に軽自動車に乗った方が入って来られました。 駐車された後、お尋ねすると「中古沢橋梁はこの道を山の方に向かって降りて行けば、中古沢橋梁に行けますよ」とのこと。
ここで、森林鉄道の跡地から離れ、180度回って左の道に入り坂道を下って進みました。

やがて、道は登り坂になりました。先ほど渡って来た「渕ノ上橋」(かつての森林鉄道跡)の下をくぐります。 中古沢橋梁の建設資材は、木材を降ろした空のトロッコを使って運ばれたといわれています。 この道は、トロッコから降ろした建設資材を運んだ道だったのではないでしょうか。
その先に、九度山猟友会と九度山町の連名で、「イノシシ、ニホンジカの捕獲のため、『くくりなわ』をしかけているのでご注意を」という「お願い」が掲示されていました。

上古沢駅から20分ぐらい歩いて、中古沢橋梁を見上げるための「中古沢橋梁展望デッキ」(以下「お立ち台」)に着きました。 南海電鉄が推進している「こうや花鉄道プロジェクト」の一環として、平成22(2010)年2月につくられたそうです。
「お立ち台」の上に、「トレッスル橋」の中古沢橋梁が見えました。日本の「トレッスル橋」としては、JR山陰本線の余部(あまるべ)橋梁が最もよく知られています。
トレッスル橋は19世紀から20世紀にかけて、アメリカ合衆国では、谷を渡る橋梁によく採用されており、「お立ち台」にあった「説明」によれば、建設した高野山電軌鉄道は、「トンネルとトンネルの間の深い谷という地形に合わせて組み立ての容易なトレッスル橋を採用した」そうです。

また、「橋脚と橋桁を一体構造の鋼テラスで組み上げたπ(パイ)の形をしている。これは日本でも他に例を見ない珍しい形式の橋梁」だとも書かれていました。

「当時珍しかったコンクリートブロックを大量に使用し、森林鉄道を使って運んだことで、工期の大幅な短縮が図られ、3年の工期を経て、昭和2(1927)年に竣工しました。 全長67.6m、 高さ33.4m のトレッスル橋です」(「説明」より)。
極楽橋駅方面に向かう電車が、33.4m上方の橋梁の中央部を通過しています。

今回は、南海電鉄高野線の”秘境駅”上古沢駅を訪ねてきました。
上古沢駅は、牛山隆信氏の主宰する”秘境駅ランキング”の187位に位置づけられています。 牛山氏の評価では、秘境度 2ポイント(P) 雰囲気 1P 列車到達難易度 1P 外部到達難易度 2P 鉄道遺産指数 1P のトータル18Pを獲得しています。
人家の少ない地域の山深い急斜面にある駅でしたが、明るい日射しが注ぐ、美しい駅でした。 傾いた駅舎が、90年にわたるこの駅の歴史を静かに伝えていました。


南海電鉄高野線の秘境駅(2) 紀伊細川駅

2019年09月07日 | 日記

南海電鉄高野線の紀伊細川駅です。この駅は、牛山隆信氏が主宰されている秘境駅ランキングの147位にランクインしている秘境駅です。橋本駅から50パーミル(‰)の急勾配を、曲線半径100m以下という急カーブで上った山間にあります。今回は、前回訪ねた紀伊神谷駅(「南海電鉄の秘境駅(1)紀伊神谷駅」2019年8月27日の日記)に引き続き、南海電鉄高野線にある秘境駅、紀伊細川駅を訪ねることにしました。

橋本駅で乗車した2000系4両編成の電車は、行き違いのためのやや長い停車時間も含めて35分ぐらいで、”秘境駅” 紀伊細川駅に着きました。このとき下車したのは私一人でした。車体長17m・2扉車の乗車してきた電車は、構内踏切を通過して、次の紀伊神谷駅に向かって出発して行きました。

紀伊細川駅のホームからの橋本駅方面です。大きくカーブした、行き違いのできる2面2線の相対式ホームが見えます。到着したホームの上屋と駅名標以外には何も設置されていないシンプルな駅になっています。

上屋の先にあった駅名標です。「こうや花鉄道プロジェクト」の一環で作成された洒落たデザインです。紀伊細川駅は、標高363m。標高92mの橋本駅から260mほど上って来ました。電車は、この先標高535mの終着駅である極楽橋駅まで、さらに、275m上っていくことになります。紀伊細川駅は、橋本駅側の上古沢(かみこさわ)駅から3.0km、次の紀伊神谷駅まで2.4kmのところ、和歌山県伊都郡高野町細川にあります。

ホームの端から見た橋本駅側です。通り抜けてきた入谷トンネル(11番の番号が見えます)と時速33kmの制限速度表示、左側に引き込み線の車止めが見えます。南海電鉄高野線は、高野下駅を過ぎてからのトンネルには番号が振られています。入谷トンネルは11番目のトンネルになります。多くが100m台のトンネルですが、399mの椎出(しいで)トンネルが高野線の最長トンネルとされています。椎出トンネルは、高野下駅の橋本駅寄りにあるトンネルです。どのトンネルも50パーミルの急勾配に設けられているそうです。

構内踏切に、向かって引き返します。対面する狭いホームの裏に、駅舎の白い建物がありました。紀伊細川駅周辺は静かです。山深いところにある駅だと感じさせてくれます。

ホームの上屋まで戻って来ました。構内踏切を渡って駅舎に向かいます。紀伊細川駅は、昭和3(1928)年6月18日、高野山電気鉄道が高野下駅・神谷駅(現・紀伊神谷駅)間を開業させたときに、「細川駅」として開業しました。現在の「紀伊細川駅」に改称されたのは、昭和5(1930)年のことでした。そして、戦後の昭和22(1947)年には、南海電鉄の駅となりました。

構内踏切からの紀伊神谷駅方面です。本線に戻った高野線の線路は左に大きくカーブしています。

構内踏切から駅舎側のホームに上がります。ホームの向こうの通路を通れば、駅舎の自動改札機の前まで行くことができます。

これは、極楽橋行きの電車が停車するホームから撮影したものです。ホームから平屋建ての駅舎に行く階段のあたりのようすです。橋本駅方面行きのホームも、駅名標以外は何も設置されていないシンプルなつくりでした。

ホームから降りて駅舎の橋本駅側にあった駅事務所です。紀伊細川駅の一日平均乗降人員は21人(2017年)だそうです。これは南海電鉄の百駅中の98位に当たります。前回訪ねた紀伊神谷駅(100位)と上古沢(かみこさわ)駅(99位)に次ぐ3番目の少なさだそうです。でも、無人駅ではありません。業務委託駅になっており、駅事務所には電灯が灯り、駅スタッフの方が勤務についておられます。

自動改札機を抜けて駅舎内に入りました。緑の庭園の中に、駅舎からホームに上がる階段が見えます。

紀伊細川駅の駅舎は、昭和3(1928)年の開業時に建設されたもののようです。これは待合室の内部で、2間四方の広さでした。駅舎への出入口付近から撮影しました。正面に時計、時刻表、運賃表と出札窓口が見えます。左側に見える造りつけのベンチや出札窓口は、少年時代の駅を思い出させるつくりになっています。ただ、乗車券の販売はなされておらず、「乗車駅証明書」で乗車し、下車駅で精算するシステムになっています。

駅舎からホームへの出入口に掲示されていた経済産業省の「近代化産業遺産」の認定書です。平成21(2009)年、紀伊細川駅は、紀伊清水駅、学文路駅、久度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、鋼索線の高野山駅の9駅、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁の2つの橋梁、鋼索線と共に、近代化産業遺産に認定されました。

平成16(2004)年、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。紀伊山地にある吉野、大峰、熊野三山とともに、「高野山石道と金剛峯寺境内」も登録されました。高野山への参道である「町石道(ちょういしみち)」を通るハイキングコースの案内が窓に掲示してありました。紀伊細川駅から矢立を経由して高野山に向かう「高野山町石道」の短縮モデルコース(約9.9km)としてハイキングをする人が増えているとのことです。

南海電鉄では、世界遺産高野山への旅を魅力あるものにすることを目標に、「こうや花鉄道プロジェクト」と名付けた企画を推進しています。

駅舎から出ると左側にトイレがありました。

駅舎から狭い駅前広場に出ました。はるか下に、高野町の町営住宅などの集落が見えました。町営住宅の近くには、ここから見えるプールのほか、公園、集会所なども整備されています。
駅舎の出入口から5.6歩ぐらいで、下の集落から駅舎に上ってくる階段に着きました。急勾配の階段でしたので、下ってみようと思いました。町石道のハイキングコースで向かう「矢立」への案内看板もありました。

 すごい急勾配です。


コンクリート階段が終わるとさらに細い未整備の道になりました。さらに道は集落に向けて下っていきます。

急な階段を上って、再度、駅舎に戻ってきました。駅舎の出入口付近に掲示してあった「防災マップ」です。「マップ」の左下にある廃校になった西細川小学校の跡地が災害時の避難場所になっています。そこまで赤い色で示されたのが「避難誘導経路」です。左右に流れる不動谷川を渡ったところに細川変電所があるようです。

紀伊細川駅周辺を歩いてみることにしました。駅前広場にあった「矢立」の案内にしたがって、今度は、駅舎から橋本駅側に下っていきます。
この時、極楽橋駅方面に向かって、特急”こうや”が通過して行きました。
谷側に設置されていた案内板です。「近畿自然歩道 高野山町石道」の説明が書かれています。「弘法大師、空海が平安時代に、高野山に真言密教の根本道場を開設してから信仰を集めるようになった。各地から高野山に行く道はいつしか7本(「七口」という)に集約された。その一つの九度山の慈尊院から山上の大門に至る表参道が高野山石道」で、ユネスコの世界遺産に登録されました。この道には、「空海が1町ごとに木製の卒塔婆を建てて道しるべをつくった」が、「鎌倉時代から1町ごとに石造りの五輪塔形の町石(ちょういし)が建てられた」と書かれていました。この町石が建てられた道を「町石道(ちょういしみち)」と呼んでいるそうです。
「町石道」に向かって、広い道を下っていきます。
下りきると、変形した四差路に出ます。ここで、写真の左方面に向かって進みます。地元で厚い信仰を集める八坂神社に行くことにしました。
八坂神社へ向かう道です。正面の山の中腹に「紀伊細川駅」の白い建物が見えました。
右側の前方にあった八坂神社です。拝殿とその裏の本殿が見えます。弘法大師がこの地に、病気除けや農耕の神として知られる素□鳴命(すさのおの命)を祀ったと伝えられている神社です。
参道です。不動谷川に架かる社前橋(しゃぜんばし)を渡ってお詣りしました。
先ほどの変形四差路に戻ってきました。駅から下って来た道の側壁に大きな道路標識が描かれていました。四差路を左折して、「矢立 高野山町石道」という案内にしたがって進みます。廃校となった西細川小学校を訪ねるつもりでした。
不動谷川と細川の出会う出会橋を渡って進みます。右側に細川変電所があります。通りの右側を下って流れる細川に沿って歩きます。

「高野山町石道」と書かれた道標にしたがって矢立に向かって進みます。
やがて、通りの左側に「西細川多目的集会所」と書かれた白い建物の屋根の上に、旧小学校の校舎跡が見えるようになりました。
着きました。災害の際の避難場所になっている旧西細川小学校の校舎跡に着きました。玄関前の石段の脇に「高野町立西細川小学校 創立百周年記念碑 昭和55年12月末日 高野町長 徳富義孝書」という記念碑が残っていました。その後ろの木製の碑には「和紙の会 第一土曜日午後」と書かれています。「和紙」とは「高野紙」。約1200年前、弘法大師によって伝えられ、高野山の寺院の出版物に使用されたといわれる丈夫な和紙だそうです。衰退し伝統文化が消えそうになったとき、女性の方が、最後の職人から技術を受け継ぎ、今も紙漉(かみすき)の修行を続けておられるそうです。ここで、毎月第一土曜日に、紙漉教室が行われています。
駅舎に戻ってきました。一つだけ気になることがありました。写真のように、トイレ前には餌と水は置いてありましたが、紀伊細川駅にたくさんいるはずの猫の姿を、訪問してからまったく見ていなかったからです。駅のスタッフの方は「駅が飼っているわけではないのですよ」とのことでしたが・・。
駅舎の周囲を探していたら、庭の近くに2匹見つかりました。ほっとしましたが、私は、たくさんの猫が占拠している駅だと思い込んでいたようです。

牛山隆信氏が主宰されている秘境駅ランキングの147位にランクインしている紀伊細川駅を訪ねて来ました。牛山氏は「秘境度4ポイント(以下「P」)、雰囲気3P、列車到達難易度1P、外部到達難易度4P 鉄道遺産指数3Pの合計15P」と評価されています。そして「古い駅舎で、眼下に集落を臨み、急な階段で上る駅」だとコメントを寄せておられます。高い山の中腹にあり、駅に行くためには急な坂道を登って行かなければならないというロケーションが、秘境駅の雰囲気を強めているように感じました。