法律によれば、3親等以上は婚姻を認めているので、3親等以上を
超えれば、親族と見なさなくても良いのかも。
ただし、世間?は、3親等の家族の連れ合いが従兄弟であっても親戚
扱いするほどの冗長性は、あるらしい。従兄弟の嫁さんの従姉妹は
従兄弟には親戚でも我が家には、ほぼ無縁です・・・その息子は?
さらに無縁でしょう・・・
さて、地元に、従兄弟(父の姉を通して)の家族がある。
こちらも、あちらも、樺太引上げ者です。
あちらは、樺太→北海道→秋田県八幡平→栃木県日光市のルート。
こちたは、樺太→北海道→秋田県八幡平→秋田県矢島町→栃木県日光市
のルートです。
矢島町の開拓は、秋田県矢島町の町から10km以上ある山中~鳥海山の
何合目かを超えた数キロメ-トル先にあります。
このブログ内にもありますが、交通は徒歩しか無く冬は雪で閉ざされて動け
なくなる地域を開拓にした理由もわかりません。
ここに2家+1家+5家+3家+1家が開拓したのは今では残念と言うしか
ないです。
1家は数ヶ月で逃げ出しました。次の1家は1年ほどで逃げ出せました。
残りの10家は9年弱は、頑張ったのです。
小学校通学(1年から4年生)には、近い家でも1km、次が2km、遠いのが
3kmの分校通学です。本校へは歩きでは山道が可能なので分校からの距離は多分
一番遠くても2km弱です。冬季は小中ともに分校通学になりました。5、6年は
従来の1~4年に併合、中学1~3年はまとめて1学級です。
で、遂に全家が我慢の域を超えました。
全家、離農を決定したのです。
山中というか高山地帯であったため、野菜生産には無理がありました。
そもそも、搾乳できるまでの放牧場の目的がすでに成立していました。
よって開拓に求められる意味はすでに存在していなかったのです。
各家庭は、それぞれ親戚あるいは樺太時代のつながりで住む地域への勧誘がありました。
秋田県矢島町は将来性ゼロとされ、全家が離農の道を選択しました。
~このしかえしが、墓場を植林可能地にされ実際植林されてしまったことだと思います。
さて、主題から離れました。
で、父は、義理の兄から旧今市市への転入を勧められました。
~父は、宇都宮市の新興住宅の購入は可能なだけの資産を持っていたのですが押し
切られたようです。で、その後、地域の墓場をもらえないことで、このやろうと
はなったようです。墓場の隣の地を購入したので墓場に変えてやるとまで計画
したようですが、隣の地域の墓に空きがあり、そこを貰ってなんとか収まった
ようです。
父の義理の兄は墓場の地域の権利を保有していました。5人ほどいた娘たちの
誰かが墓を欲しがった時のためなようです。誰もここには墓を作りませんでしたけど。
~おまけ:家を継がない息子・娘で墓を当地に作ったのは娘の1家だけでした。
さて、親戚の伯父・伯母がなくなった後、こちらには、相手にとっての叔父・叔母が
生存していたわけなんだけど、相手からのあいさつは一切なかった。
こちらから家の篝をお参りする方式しかなかったのです。
婿殿の義父・義母(こちらには従弟とその妻)の法事にも全く声がかからなかった。
同じ地域の数人は呼ばれているので、なぜ俺がいないんだと不思議に思われたようです。
そもそも。相手が、こちらを親戚扱いしなかった時をもって親戚扱いをやめるべきだったようです。
親戚扱いを全くされていなかったのに、金を貸してしまったのが問題です。
隣の奥さんに一括されました。
話すと、相談されたら即刻金貸すなと言うよと断言されました。
あんたあいつと仲良くしているから同類だと思ってたと言われました。
うむむ、従弟の娘までは理解できても婿養子は無理です。
しかも彼が満州起源となると理解が及びません。
彼の実兄が栃木北部で危ない経営状態にあるようです。
新聞記事でも、息子を飛ばして孫に経営権を渡すということも
新聞記事になる程のようです。
超えれば、親族と見なさなくても良いのかも。
ただし、世間?は、3親等の家族の連れ合いが従兄弟であっても親戚
扱いするほどの冗長性は、あるらしい。従兄弟の嫁さんの従姉妹は
従兄弟には親戚でも我が家には、ほぼ無縁です・・・その息子は?
さらに無縁でしょう・・・
さて、地元に、従兄弟(父の姉を通して)の家族がある。
こちらも、あちらも、樺太引上げ者です。
あちらは、樺太→北海道→秋田県八幡平→栃木県日光市のルート。
こちたは、樺太→北海道→秋田県八幡平→秋田県矢島町→栃木県日光市
のルートです。
矢島町の開拓は、秋田県矢島町の町から10km以上ある山中~鳥海山の
何合目かを超えた数キロメ-トル先にあります。
このブログ内にもありますが、交通は徒歩しか無く冬は雪で閉ざされて動け
なくなる地域を開拓にした理由もわかりません。
ここに2家+1家+5家+3家+1家が開拓したのは今では残念と言うしか
ないです。
1家は数ヶ月で逃げ出しました。次の1家は1年ほどで逃げ出せました。
残りの10家は9年弱は、頑張ったのです。
小学校通学(1年から4年生)には、近い家でも1km、次が2km、遠いのが
3kmの分校通学です。本校へは歩きでは山道が可能なので分校からの距離は多分
一番遠くても2km弱です。冬季は小中ともに分校通学になりました。5、6年は
従来の1~4年に併合、中学1~3年はまとめて1学級です。
で、遂に全家が我慢の域を超えました。
全家、離農を決定したのです。
山中というか高山地帯であったため、野菜生産には無理がありました。
そもそも、搾乳できるまでの放牧場の目的がすでに成立していました。
よって開拓に求められる意味はすでに存在していなかったのです。
各家庭は、それぞれ親戚あるいは樺太時代のつながりで住む地域への勧誘がありました。
秋田県矢島町は将来性ゼロとされ、全家が離農の道を選択しました。
~このしかえしが、墓場を植林可能地にされ実際植林されてしまったことだと思います。
さて、主題から離れました。
で、父は、義理の兄から旧今市市への転入を勧められました。
~父は、宇都宮市の新興住宅の購入は可能なだけの資産を持っていたのですが押し
切られたようです。で、その後、地域の墓場をもらえないことで、このやろうと
はなったようです。墓場の隣の地を購入したので墓場に変えてやるとまで計画
したようですが、隣の地域の墓に空きがあり、そこを貰ってなんとか収まった
ようです。
父の義理の兄は墓場の地域の権利を保有していました。5人ほどいた娘たちの
誰かが墓を欲しがった時のためなようです。誰もここには墓を作りませんでしたけど。
~おまけ:家を継がない息子・娘で墓を当地に作ったのは娘の1家だけでした。
さて、親戚の伯父・伯母がなくなった後、こちらには、相手にとっての叔父・叔母が
生存していたわけなんだけど、相手からのあいさつは一切なかった。
こちらから家の篝をお参りする方式しかなかったのです。
婿殿の義父・義母(こちらには従弟とその妻)の法事にも全く声がかからなかった。
同じ地域の数人は呼ばれているので、なぜ俺がいないんだと不思議に思われたようです。
そもそも。相手が、こちらを親戚扱いしなかった時をもって親戚扱いをやめるべきだったようです。
親戚扱いを全くされていなかったのに、金を貸してしまったのが問題です。
隣の奥さんに一括されました。
話すと、相談されたら即刻金貸すなと言うよと断言されました。
あんたあいつと仲良くしているから同類だと思ってたと言われました。
うむむ、従弟の娘までは理解できても婿養子は無理です。
しかも彼が満州起源となると理解が及びません。
彼の実兄が栃木北部で危ない経営状態にあるようです。
新聞記事でも、息子を飛ばして孫に経営権を渡すということも
新聞記事になる程のようです。