風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

所有

2010年01月05日 | 雑感
与える、貰うという行為はなかなか難しいものがあります。
どちらかが引け目を負ったり、負わしたりというという関係になりがちです。
貨幣経済のなかで生きていますと、どうしても「所有」という概念から離れられません。
どちらかが所有しているものを、善意なり、哀れみなり、計算なりで他人に与えてやるという感覚になります。

でもこれは天の摂理からは外れている心のシステムなんだと思います。
太陽が輝き、植物が育ち、その植物を食べ動物が育ち、その動植物を人間が食べ、その排泄物は大地に帰って肥やしとなる。
そこにはエネルギーの「循環」があるだけで、どこにも「所有」という滞りがありません。
人間だけが作物を所有し、土地を所有し、権利を所有します。

よく熊やら猪やら猿らが山から下りてきて害獣として駆除されますが、「所有」という概念のない熊や猪や猿からすれば、
なんで殺されるのかさっぱり分からないまま殺されていきます。

別に共産主義を推奨するわけではありません。
ぼくとしてはいかなる「~主義」という概念体系からも自由でいたいです。
でも、否応なしに資本主義という概念体系からは抜け出すことの出来ないのが、今に生きるということです。

すべての生命が生きていくために必要なものは十分に地球上にはあるではないか、という趣旨のことが日月神示には書いてあります。
その十分な食料の循環を妨げているのが、人間の「我欲」に根ざした資本主義経済です。
誰かが自然界からの贈り物である食物なり貴金属なりを独り占めし、それを元手に困った人に貸し出しを行い、利子を取り始めました。
それが金融ということの事の起こりです。
今や経済の主流産業は金融です。
金融とは利子を奪い合う業態に他なりません。

いまさら資本主義を否定したところで、暴力的金融業界に支配された世界は行くところまで行くでしょう。
ただ、心はその激流に巻き込まれないことは出来ます。

太陽は来る日も来る日も黙って地に降り注ぐ。
月も沈黙のうちに空に上って闇夜に浮かぶ。
植物はありのままに生き、ありのままに花を咲かせて実を太らす。

そこには「与える」などという意識すら存在しません。
生命の輝きがあるだけです。
なにかの、だれかの、すべての生命の輝きを、誰かの「所有」にされてたまるものか、と思えばいいのです。