風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

登る喜び

2010年01月13日 | スピリチュアル
今日は朝早めに起きたら外は一面の銀世界。
九州に来て初めての本格的な雪景色のような気がします。
本格的といっても5センチくらいの積雪でしかないのですが。
明日の朝が寒波のピークとなるそうです。
今朝もベランダの水溜りが凍っていましたから、明日予定していた滝行は中止します。
水が冷たいのは仕方がないのですが、道の凍結で山の中まで車で入れないだろうと思うんです。
でも、明日滝に入っていないと、日曜日の菅生での滝、厳しいだろうなぁ・・・
まぁ、そういう流れなのだから、流れに任せるしかありません。

先日も紹介した「宇宙となかよし」の著者でもあるQちゃんが坐禅会に出て、そのレポートをブログで書いてあるので読んでみてください。
Qちゃんは何事によらずなんでも真正面から物事を捉え、捉えたものをそのまま正直に書きますから、禅のレポートなんかはホント適役です。

>一つだけ問題点をあげるとすれば、それは「楽しくない」こと(爆)。

ここは笑いました。
ぼくの行っている道場では、昔はもっと厳しかったらしく、接心中は一切の私語が禁じられていたそうですし、
「他人に気に入ってもらおうと思うな」という標語があったほど、媚びへつらいが嫌われていたそうです。
ですから、新到者(初心者)なんかは大変です。
なにをどうすればいいのか皆目見当がつかないまま、誰からも言葉を掛けられず、見よう見まねで道場で坐るというところから始まったらしいです。
参禅(老師と相見すること)が許されるのも、今みたいに門を叩いたその日からなんていうものではなく、半年なり一年なりその修業振りを見て、
見込みありと判断されて初めて許されるものだったらしいです。

確かに一般的な意味ではまったく楽しくないです。
特に最初のうちはすることなすことすべてが苦痛といってもいいかもしれません。
でも、その雰囲気に慣れ、坐禅に集中できるようになりますと、誰かと世間話しようとも思わなくなります。
余計な配慮をするのもされるのも邪魔になるようになります。

ただ、接心が終わり、親睦会が開かれると様相は一変します。
ただの酔っ払いどもの集団になります(笑)
そこがまたいいところです。

道場で同じ釜の飯を食い、一緒に修業する仲間ではありますが、その道のりも、歩む速度も、たどる境涯も、みな人それぞれなのが禅です。
人みなそれぞれというところが禅の広さ、深さ、公平無私なところです。
もちろん言葉にすれば、同じ道程を目指し、同じ境涯を目指すのですが、あくまでも今ここに生きている人間が歩くのですから、
速度も道のりも見る風景も違ってくるわけです。
あくまでも生きている人間が主体であるということから決して外れないのが、禅の道です。

Qちゃんのブログは読者数が多いですから、あのブログがきっかけで禅に入門する人が増えるかもしれません。
ぼくは縁がある人には片っ端から禅道場に通うことを勧めています。
誰でも彼でも声を掛けているわけではありませんが、今のところ声を掛けて行かないと言い張ったのは一人だけです。

本物の世界に触れるチャンスというのはそうそうあるものではありません。
近所に歴史ある本格的な道場があり、格安で食と寝床を提供してもらい、命がけで真剣勝負をしてくださる老師や諸先輩方がいる。
もう行かないのがもったいないとしか思えません。

ただ、老師のスケジュールをみると、驚くほど過密です。
あのご高齢を考え合わせますと、これ以上むやみやたらと初心者を増やすのは身体に毒ではないかとどうしても要らぬ心配をしてしまいます。
全国の道場で待ちわびる何十人もの修業者一人ひとりと毎朝、毎晩、真剣勝負に命を掛けておられます。
右も左も分からないきょろきょろと落ち着かない初心者ども(笑)がやたら増えるのも困りものかもしれません。
それでも、行きたいと思う人はどんどん遠慮せず門を叩けばいいのです。
老師は自分の身体よりもなによりも、禅の道を歩む人が一人でも多くなることを祈願していることは間違いありません。

まぁ、ぼくも新参者なんで、あんまり偉そうな口はききますまい。
ただ、本気で登り甲斐がある、本当の山に出会ったという揺るぎのない感触がぼくの中にあります。
もう頂上に辿り着けるかどうかなどはどうでもいいことです。
登ることの出来る喜びがあるだけです。