風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

パッション

2008年09月25日 | スピリチュアル
彼岸花の季節です。
田んぼの畦道や、土地の境界線に集中して咲いています。
その群生を遠めに観ると大変美しい色をしています。
刈り終えたばかりの田んぼをパパラチア色に縁取っています。

昨日は休みを取って、お気に入りの小さな神社に行ってきました。
神社の前の茶店はお休みで、楽しみにしていたうどん定食は食べることができませんでした。
どこもかしこも彼岸花が咲き誇っていました。
刈り入れの大事なときに、先祖の霊たちが末裔たちの田んぼの実り具合を確かめにこの世に降りてくる時期なのかもしれません。
先祖が日々踏みしめた畦道や、大事にした土地の境界線に彼岸花が群生するのもそのせいなのかもしれません。

近代以降の思考のあり方というのは、言葉を積み重ねることです。
言葉の積み重ねに矛盾がないかどうかをチェックしつつ、全体的な整合性を保つことができることを意見といい、論説といいます。
でも、おそらく、インパクトを持った想念とか、ヴィジョンというのは言葉の合理性を軽々と越えるのだろうと思います。
「~をしたい」という思いは、いかなる合理性とは無縁です。
言葉の合理性を無視した情熱を無条件に肯定したときに、その情熱はパッションという言葉に昇華します。

パッション
(1)情熱。激情。
(2)キリストの受難。また、それを主題にした受難曲。

情熱と受難が同じ言葉で表現されるところが面白いです。
身を震わせるような情熱に身を投じる時、その後の行為は「受難」となります。
困難をあえて受けていく行為となります。

情熱をもった生き方は美しいのですが、そこには「受難」という局面も確かにあるのでしょう。
受け切手こその情熱でもあるでしょう。
逆に言えば、受難=艱難を身を持って引き受けることを避ければ、情熱的な生き方はできないということかもしれません。

困難を遠目に困難だとするのは容易です。
貧乏、失恋、失敗、挫折、裏切り、絶望、困難のリストは無数にあります。
それらの困難を引き受けるというのはどういうことでしょうか。
困難の渦中に生きることによって、何が見えるのでしょうか。

おそらく、何か素晴らしい教訓とか境地が見えるわけではないのだと思います。
ただ、「生きる」ということが見えてくるのだと思います。
生きるということの馬鹿ばかしさと、崇高さとが、同時に見えてくるのだと思います。
どんな目に会おうとも、にこりと笑える余裕がそこから生まれてくるのだと思います。

矛盾を前提にするというのはある意味苦痛なのですが、矛盾を前提としない合理主義に貫かれた生というのは、
おそらく地獄をはるかに超えた苦痛以外のなにものでもないと言えるかも知れません。
思うことすることすべてに超越的な理性の検閲を受けるということは、人の心の自由というものを手放すことです。
いかなる形にせよ、自由を手放した人の心というのは、魂の喜びから遮断するということです。
自由のない成長ということはありえません。
だれかにどこかに連れて行かれることを成長とは言いません。
自らの意志で、観たい景色を見、会いたい人に会い、身を置きたい風の中に身を置くだけです。

そのためには、「パッション」が必要なのかもしれません。
艱難を受ける。
どうせ受けるなら、顔を上げて、正面から受ければいいのでしょう。