風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

偶然と必然

2005年07月04日 | スピリチュアル
どちらもたまたま偶然なのですが、男女のウィンブルドンの決勝戦を見ました。
テニスという競技をしたこともないし、興味もなかったのですが、最後の最後まで真剣勝負で面白かったです。
男顔で、花がないと評してしまって、ごめんなさい>ダベンポート
試合が終わったあなたの顔はとても穏やかで、きれいでした。

女子バレーの日米戦も見ました。
日本、強くなりましたね。
もう少しこづるさが身につけば、いけるでしょう。

土曜日、店を閉めた後ブログを書いていたら、お客様がふらりとやってきました。
娘が見合いをするのでうまくいくように祈ってほしいというのです。
確かに、店には手作りの神棚がありますが、ぼくが祈ってどうなるわけでもないのですが、
是非にというので、大祓詞を上げ、娘さんの前途にお力添えを祈りました。
気持ちが清々したと帰っていかれましたが、なんかいいことをしたような、不遜なことをしたような、複雑な気がしました。

店のお神様は、導師のお導きによって、美保の恵比寿様なのですが、
次の日(昨日)、ほんの偶然、何の気なしに若松の恵比寿様にお参りに行きました。
神社仏閣によっては、お参りした後、頭がくらくらすることがあります。
立ちくらみの軽いような感じです。
そういう感じになりました。
不遜なことをして、叱られたというような感じはありませんでした。

偶然、偶然と書いていますが、意識に上ってこない=意図していないという意味では偶然なのですが、
ウィンブルドンの決勝戦を見たのも、お客様の祈念の依頼も、若松の恵比寿様への参拝も、偶然ではないのでしょう。
その必然を、その因果、縁起を分かりもしないのに、必然とする確信を差し控えようと思っているだけです。

それぞれの人間に、それぞれの生き方の流れというのがあります。
その流れ自体は必然ですが、流れの中で何と出会い、何を見逃すかは、「意識」が働きます。
その「意識」の作用の及ばないところを、人は偶然と呼びます。
「意識」が全く開放されれば、偶然はなくなり、すべては必然の流れとともにあるわけなのでしょう。

仏教では、意識も「空」です。
対象も、認識作用も、認識したと思う心も「空」です。
徹底して、世界は空だ(色即是空)と認識尽くしたあとに、空即是色がドカンとやってきます。

何かが固定した形での存在というのはすべては幻(空)だ。
しかし、その幻の時空間は、すべてが存在することを可能にする、無色透明の「可能性の大海」だ。
可能性の結果としての「もの」や「こと」が存在するのではなく、無限の可能性のみが存在する。
可能性=思い=念のみが存在する。
その思いや念にとらわれた瞬間、可能性は消え、存在し得ない幻が存在するかのように人間に認識され、その認識に縛られる。

言葉が追いつきませんが、そんな感じなのだと思います。
思いや念からも解き放たれた境地というのは、語ることができない境地でしょう。
そういう境地の一端を垣間見るために滝に入っているのかもしれません。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿