風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ぼやぼや

2005年07月06日 | スピリチュアル
心がスカッと晴れません。
これは自分を小賢しくコントロールしようと思いがあるからだと、うすうす気がついています。
自分を丸ごと委ねるということがどうも下手です。

今日店に新しいお客様が来ました。
このあたりで手広く気功の先生をしている方です。
北極で天使を見たり、月の横に光の球を見たり、マリア様を見たり、たくさんのお導きが次から次へと身辺に起きているそうです。
マリア様のお話は感動的でした。
すべての人間のあらゆる経験はすべて神の愛の導きなのだと、マリア様が涙をぼろぼろ流しながらおっしゃるのだそうです。
その経験で傷ついたり、苦しんだりするのも、すべて見守りつつも、超えていってくれと、涙を流すのだそうです。

こう書くと、なんか限りなくサイコパスに近づくようにしか思われないかもしれませんが、
彼女が自発的に話したというよりは、ぼくが根掘り葉掘り聞いたことに彼女が淡々と答えてくれた話です。
普段はこんな話をしないが、ぼくが滝の話やなんかを振って、聞き出したというほうが近いです。

すべての人間は偶発的に生まれてきたのではなく、頑張ってこいよとこの世に送り出されてきたのだという話は、
ニューエイジ風の軽いイメージではなく、「慈悲」のトーンが話の基調になっていました。

こういう話はもちろんすんなり受け入れられるものではありません。
彼女ももちろんそういう現実に生きているわけですから、ぼくが根掘り葉掘り聞かなければ語らなかったでしょう。
事実、店内を一通り見て帰ろうとした彼女を、ぼくが引き止めて、コーヒーを飲ませて、いろいろ詮索したのです。

ぼくは話を聞きながら、仏様の慈悲、菩薩の慈悲というものと全く重なるなと思って聞いていました。
それから、彼女とぼくとの違いについても考えていました。
彼女はそういう体験をすることに対する恐れはもう捨て、体験し感じたことをそのまま伝える決心をしているということ。
ぼくはそれほど深く強烈な経験もしていないし、体験したところでそれをいちいち解釈したり、分析したりしているということ。
勇気と潔さの違いかもしれません。

一時代前には、「気」ということさへ、胡散臭く思われていました。
今ではぼくでさえ、頼まれれば「気」を当てるような真似事をします。

ぼやぼやしている時間はないのだそうです。
現実的に見ても、世界がこのまま順調に推移する可能性は限りなく低いです。
資源は枯渇に向かい、人口は増え続け、環境は悪化します。
「生きる」という意味を、本気で探し当てないと、この悪循環は止まりません。

ぼやぼやしている時間はない、ですね。