風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

コミュニケーション

2006年03月16日 | 雑感
野球、負けました。
ネットで実況(文字のみ)を見てました。
いい試合だったみたいけど、勝負事は勝たないと切ないです。

毎月1日と15日に花屋さんが神棚に飾る榊を持ってきてくれるのですが、昨日は持ってきてくれませんでした。
いつも虫食いの跡があるような貧相な榊ばかりですので、花屋さんを変えようと思っていた矢先でした。
ということで、今日はまだ神棚に拍手を打っていません。
今、打ちました。

言葉が通じない関係というのは疲れます。
これは何も外国語で会話するとか、鹿児島弁と津軽弁の人が会話するとか、そういうことではありません。
発せられた言葉に含まれる諸々の感情、意志、裏の意思などなどを読み取る力の有無に関わることです。
言葉の表層しか汲み取れないと、誤解ばかりします。
そしてその誤解に自ら気が付くということがありません。

言葉が通じる関係であればあるほど、言葉自体の数は減らすことが出来ます。
要するに「あうん」の呼吸になっていきます。

私見では、親とのコミュニケーションが十分なものでなかった人ほど、言葉に対する感受性が弱いです。
驚くほどその感受性が鈍い人を何人か知っています。
そういう人は、身の回りを飛び交う意義深い言葉や、面白い言葉に全然気が付きません。
表面的な常識や規則などはきちんと理解しているのですが、常識や規則といった規範をはみ出した、
ユーモアや悲しみや怒りや絶望ということを理解しません。

言葉に対する感受性が弱いと、自ずから自分の発する言葉も不正確で、曖昧なものとなります。
内省するとは、自らの内面に渦巻く言葉を一つ一つより正確に点検することにほかなりませんから、内省力にも劣ってきます。

言葉というのは重要です。
一つの言葉にどれだけの思いを込め、そして相手に受け入れられるように言葉を適切な文脈で、適切なタイミングで発せられるかで、コミュニケーションの質が全然違ってきます。
自分の言葉に神経を使わない人は、相手の言葉を聞くにも神経を使いようがありません。
神経を使わないと、ヴォキャブラリーも増えません。

で、性格の良さとコミュニケーション能力というのはあまり連動していません。
ただ、コミュニケーション能力が低いがために、せっかく持っている良い性格が発展開花しません。
言葉の能力が低いと、どうしても自分を客観的に分析する能力が欠けてしまうからです。
要するに、「空気を読めない」ということは、言葉を読み取る力の不足です。
社会生活で円滑に快適な位置に入っていくには、どうしてもその場その場の空気を読んでいく必要があります。
その場に入るにも、去るにも、その場を読めなければどうしようもありませんから。

更に更に言葉=コミュニケーション能力が飛躍的に発達すると、言葉が要らなくなります。
無と有の境涯を自在に往復するからです。
禅の世界ですね。

ま、何を言いたいのかというと、最近コミュニケーションの上で疲れることが多かったものですから、要するに愚痴です(笑)
ぼくはと言えば、空気を中途半端に読んで笑ってごまかすというのが得意なだけです。








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