風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

信仰心

2008年12月09日 | スピリチュアル
ご無沙汰してしまいました。
厳しいながらも、状況から逃げまいと日々やれることをやろうとしている毎日です。

さて、以前に、ぼくは愛が分からないと書きました。
それも当然なのでしょう。
自我からは愛というエネルギーは出てきません。
自我から出てくるのは、執着とその反対の無関心だけでしょう。

愛というものを自我の都合で解釈しようとしても、愛というエネルギーは解釈・分析の網の目をすり抜けます。
愛というのは、生命エネルギーそのものであり、そのエネルギーの向う先は成長と調和であり、人間はそのエネルギーを
地上に流す最もパワフルで洗練された媒介のはずだったみたいです。
自らに流れ込む生命エネルギーを信頼しきって、心を解放すれば、自ずと愛のエネルギーがその人から流れ出すはずなのです。
その流れを阻害するのが、例によって、自我、我執です。

エネルギーというのは循環しますから、鉱物、植物、動物、人間のエネルギーは互恵的に交流して
生命体系は螺旋的に進化を進めます。
ところが、生命体系の頂点に立つ人間が自分さえよければよいという我執の迷路に迷い込んだために、
生命体系は混乱し、ご覧のような地球の状態になったわけです。

人が自らを生命体系から分離独立した特権的な存在と考える限り、生命体系の衰弱とほころびは拡大していくでしょう。
人は生命体系から大いなる恵みを受けてこそ存在を許されているわけですが、
本来ならは人は生命体系全体に対する奉仕者となってこそ、生命体系全体の豊かな進化が可能となるみたいです。

愛のエネルギーの循環を滞らせず、潤滑に循環させることが、どうやら天の摂理、神の摂理と呼ばれる宇宙の摂理みたいです。

人は自我で埋まった心を何かのエネルギーや摂理やなにがしかに明け渡すということが、大変ヘタになりました。
場合によっては、心を何かに明け渡すということが、屈辱的なものでさえあるという風潮もあります。
個人というものを「ある」と仮定し、心というものを「ある」と仮定し、頭脳が苦し紛れに割り出した理屈を
合理的だとする底の浅い科学が、現代人間の常識ある考え方の基盤とすべきだという風潮があります。

元に戻りますが、頭脳や科学や個人という枠組みの中では、「愛」は捉えられません。
そういう枠組みをぶち壊せば「愛」が分かるのか。
ぶち壊すことではないのでしょう。
頭脳や科学や個人という観念を作るような意識作用は、それなりに必要性のあるものです。
そういう枠組みをぶち壊すのではなく、そういう枠組みを越え出て行こうとする意志と勇気が必要なのかもしれません。

その越え出て行こうとする意志と勇気を、信仰心というのでしょう。
一つの恐れを前提にした偽善的な世界観に捉われることを教え導くような宗教組織に属することを信仰心とは言わないでしょう。
何か人為的な組織に属して安心するような心は、明らかに自我の都合の範疇です。

愛のエネルギーの奔流を心の扉を明け渡して受け入れ、溜め込まずに心の扉から外に奔出させれば、
生命エネルギーとの一体、愛と一体という法悦を感じることができるのかもしれません。

ま、偉そうなことを書いていますが、まだ「愛」という実感がつかめずにいるのが実情ですが。

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