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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その208 『川越・小江戸』 その1

2017年08月14日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
平成25年に、鉄道5社による相互直通運転が開始され、横浜方面から川越へのアクセスが便利になりました。
一度訪問しようと思っていた小江戸と呼ばれる川越へ、猛暑の負けず出掛けてきました。
川越駅より、小江戸循環バスが出ているので早速一日券を購入し散策開始です。



国の重要文化財に指定されている喜多院(きたいん)山門です。
良源(慈恵大師、元三大師)を祀り川越大師の別名で知られています。
天海が1632年に建立したものです。
喜多院は、1638年(寛永15年)におきた大火により、伽藍のほとんどを焼失しました。
奇跡的に焼失を免れた山門は、喜多院で現存する最古の建造物になっています。



境内です。 正面にある建物が、本堂、慈恵堂(じえどう)です。
喜多院は江戸城ゆかりの建造物が多く、山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されています。
また隣接して、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された日本三大東照宮の一つである仙波東照宮もあり、江戸時代の香りを色濃く残す徳川家とゆかりの深い寺です。
喜多院に由来する人物は、天海大僧正、徳川家康、徳川家光、春日局などです。



江戸時代初期、名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三代将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院は、埼玉県を代表する寺院として全国的にも有名です。
本堂は、別名「大師堂」と呼ばれます。
これは慈恵大師を祀ったお堂で、このお堂に座り耳を澄ますと、何処からともなく波の音が聞こえるという言い伝えから、潮音殿とも呼ばれています。



前方三間を外陣、後方二間を内陣とする喜多院の本堂です。
慈恵大師、不動明王、阿弥陀如来をお祀りし、左右に不動明王をまつっています。
建物は1639年(寛永16年)建立され、入母屋造、銅板葺、向拝付、桁行9間、梁間6間です。



喜多院境内の小高い丘の上にある、天海僧正をまつる慈眼堂(じげんどう)です。
天海僧正が亡くなった3年後の1645年(天保2年)に、徳川家光の命令により建てられたものです。
禅宗様式に和様を折り込んだ造りで、方3間、宝形造り、本瓦葺。背面に1間の通り庇(ひさし)付きです。



江戸時代の喜多院の寺域は現在より相当広く、往時は境内のほぼ中央にあった鐘楼門です。
昔は慈眼堂へ向かう参道の門と位置づけられていました。
当初は慈眼堂の場所に、東照宮が建てられていましたが、寛永の大火により、東照宮が現在の位置に移動し、跡に現在の慈眼堂が建
てられました。



1702年(元禄15年)の刻名がある鋳工椎名伊予藤原重休作の胴鐘を吊っています。
銅鐘は、鐘楼門とともに重要文化財に指定されています。
鐘楼門は桁行3間、梁行2間の入母屋造、本瓦葺きで腰袴がついています。
正面中央間を花頭窓とし、両脇間に極彩色仕上げの雲龍の彫り物が飾られています。



慈恵堂に向かって右側に、川越七福神めぐりの一つ、大黒天を祀る大黒堂があります。
大黒天は古代インドの闇黒の神で、仏教での戦闘神です。
平安以後食を司る台所の神と崇められました。



寛永の大火によって現存の山門を除く諸堂は焼失したため、その後江戸城紅葉山の別殿を移して客殿と書院にあてました。
こちらが庫裏で、現在拝観の入口となっていて、奥の客殿、書院とにつながります。(客殿と書院は小江戸循環バスの時間もあり、またの機会に紹介します。)
徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築されました。



続く................................................................