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ジョニー大倉&浜田省吾が、なぜに函館だったのか?………函館に、笹島正司くんがいたからだよ。

2014-12-22 | 日記・エッセイ・コラム

 

 先日、ジョニー大倉さんが亡くなった。

  

 キャロルが解散したあと、ソロになったジョニーさんも、矢沢永吉さんも、北海道では、まず、わたしがプロモーターだった。

 そのことは、前にも書いた。

  

 

 1976年のことだ。

 パイオニア函館営業所の笹島正司くんから、パイオニアが北斗電気のイベントの幹事になって、本社から予算をもらったので、なにか企画してくれませんか? と、連絡がきた。

 その当時、道南の一番店だったその電気量販店は、各メーカーから協賛金をとって、年に一度、函館・拓銀ホールを一週間借り切って、さまざまなイベントを開催している、という。

 パイオニアが、その、一週間のフェスティバルの1日を担当した。

 

 北斗電気の(パイオニアの)、予算の金額をきいて、わたしは、ジョニーさんの事務所にオファーした。

 

 そんなわけで、ジョニーさんのバンドとの出演契約はでき、わたしは、ぜひ、浜田省吾をいっしょに出演させたい、と思った。

 浜田省吾は、前座ではない。ジョニー大倉バンドと浜田省吾バンド、ジョイント・コンサートだ。

 それを、やりたい!

 

 そんなわけで、わたしは、帯広バンドを組んで、函館にいった。

 

 

 この予算を組んでくれたのは、浜田省吾さんのCBSソニーでも、ジョニー大倉さんの日本フォノグラムでもない。

 パイオニアだ。

 ジョニーさんのバンドのギャラ・あごあし、浜田さんと町支さん、帯広バンドの経費。

 函館・サウンド・パパのスタジオ代。

 

 このすべてを出してくれたのは、パイオニアなのだ。

 そのとき、”北斗電気祭” の幹事社だ。

 担当が、笹島正司くんだった。

 

 つまり、笹島正司くんこそ、浜田省吾さんの思い出の”函館”、そもそもをつくった営業マンだ。

 

 

 ジョニーさんのライブは、メチャクチャうけたから、主催者も、予算をつけたパイオニアも、担当した笹島正司くんも、勝者だが、このすべて仕込みをした、わたしは、なにかココロ残りだった。

 浜田省吾だ、ほんとうに、俺がうりたいのは! すごい、と思っているのは………………ぜんぜ、ダメじゃないか………しかし、おれは、やる、浜田省吾だ……………………

 

 ともかく、最初、”浜田省吾 with 帯広バンド” 函館ライヴのお金を作ってくれたのは、パイオニアの笹島正司くんだ。

 

 

 

 

 

 

 


1 コメント

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笹島君との接点 (シロクマ)
2014-12-23 18:19:40
高校同期であった笹島君との直接的な接点は残念ながら無かったが、札幌で勤めて相当の年数が経ったある日、敬愛する元上司から「君はパイオニアの笹島君と同期だったのかい?」と突然聞かれて驚いたことがあります。その時は「本人とは名前と顔を知っている程度ですが、妹さんには高校の合唱部で伴奏をして頂いたことがあります」と返答してから数年の後、また元上司から「笹島君が亡くなったよ!」と連絡があり、あまりの若さに大変切ない思いをしました。元上司は宮の森で彼とご近所という縁で世代を超えて交流があり、ガーデンパーティなどを楽しんでいたとのこと。全く世間は狭いものです。
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