先日、ジョニー大倉さんが亡くなった。
キャロルが解散したあと、ソロになったジョニーさんも、矢沢永吉さんも、北海道では、まず、わたしがプロモーターだった。
そのことは、前にも書いた。
1976年のことだ。
パイオニア函館営業所の笹島正司くんから、パイオニアが北斗電気のイベントの幹事になって、本社から予算をもらったので、なにか企画してくれませんか? と、連絡がきた。
その当時、道南の一番店だったその電気量販店は、各メーカーから協賛金をとって、年に一度、函館・拓銀ホールを一週間借り切って、さまざまなイベントを開催している、という。
パイオニアが、その、一週間のフェスティバルの1日を担当した。
北斗電気の(パイオニアの)、予算の金額をきいて、わたしは、ジョニーさんの事務所にオファーした。
そんなわけで、ジョニーさんのバンドとの出演契約はでき、わたしは、ぜひ、浜田省吾をいっしょに出演させたい、と思った。
浜田省吾は、前座ではない。ジョニー大倉バンドと浜田省吾バンド、ジョイント・コンサートだ。
それを、やりたい!
そんなわけで、わたしは、帯広バンドを組んで、函館にいった。
この予算を組んでくれたのは、浜田省吾さんのCBSソニーでも、ジョニー大倉さんの日本フォノグラムでもない。
パイオニアだ。
ジョニーさんのバンドのギャラ・あごあし、浜田さんと町支さん、帯広バンドの経費。
函館・サウンド・パパのスタジオ代。
このすべてを出してくれたのは、パイオニアなのだ。
そのとき、”北斗電気祭” の幹事社だ。
担当が、笹島正司くんだった。
つまり、笹島正司くんこそ、浜田省吾さんの思い出の”函館”、そもそもをつくった営業マンだ。
ジョニーさんのライブは、メチャクチャうけたから、主催者も、予算をつけたパイオニアも、担当した笹島正司くんも、勝者だが、このすべて仕込みをした、わたしは、なにかココロ残りだった。
浜田省吾だ、ほんとうに、俺がうりたいのは! すごい、と思っているのは………………ぜんぜ、ダメじゃないか………しかし、おれは、やる、浜田省吾だ……………………
ともかく、最初、”浜田省吾 with 帯広バンド” 函館ライヴのお金を作ってくれたのは、パイオニアの笹島正司くんだ。