マネー資本主義は経済の退歩
これまで4回ほどで、マネー資本主義が今の世界経済に何をもたらしているかを見てきたつもりです。
もちろん本来の金融は、実体経済を助けて生産性を上げ、付加価値を増やし、それを労働と資本で分け合い、その資本分配の中から金利を得るというのが仕事です。この場合金融機関の所得はインカムゲイン(付加価値)の分配です。
金融機関はこれで十分儲かるようにできているのですが、金融業界に経済・経営に関わる情報が集中し、経済や経営の先行きが読めるようになればなるほど、株などを自分で売買し、直接値上がりや値下がりを利用して儲けた方が簡単だ、と考えるようになります。
こうして運用預かり、自己売買、投資ファンドなどへの傾斜が大きくなり、キャピタルゲイン中心経営に堕していきます。
例えば、ある企業で画期的な技術開発があれば、その会社に金を貸して、その会社が収益を上げる中で金利をもらうより、その会社の株を買って、技術革新の新聞報道で値上がりしたら、すぐ売る方が早いですね。労力も時間もかからず、儲けも大きいでしょう。
こうした儲けは日本では昔から「あぶく銭」と言って蔑んで来ました。住友家の家憲では「浮利に逸らず」と言っています。
今のアメリカの「ボルカールール」も基本的には同じ考え方によるものでしょう。しかし歴史的に見ると、種々の金融問題が起こるたびに反省はあるのですが、こうしたマネー経済はだんだん大規模なものに進化して、金融工学にまで至っています。
かつても触れさせていただきましたが、アダム・スミスが、レッセフェール言いながら「道徳情操論 」を書き、渋沢栄一が「論語とそろばん」といったように、ビジネスは、常に倫理と共存する必要があるようです。
付加価値を作らないビジネスはギャンブルに堕し、そこで経済成長は止まります 。今回もギャンブル経済への反省は生まれています。この反省も一時的なものにとどまるのでしょうか。
戦後世界が学んだ「生産性を上げれば、いくらでも豊かで快適な社会を作れる」が忘れられ、先進国経済は、生産性よりマネーゲーム、現有の豊かさを分捕りあうというwin=loseの世界に退歩しつつあるようです。
これまで4回ほどで、マネー資本主義が今の世界経済に何をもたらしているかを見てきたつもりです。
もちろん本来の金融は、実体経済を助けて生産性を上げ、付加価値を増やし、それを労働と資本で分け合い、その資本分配の中から金利を得るというのが仕事です。この場合金融機関の所得はインカムゲイン(付加価値)の分配です。
金融機関はこれで十分儲かるようにできているのですが、金融業界に経済・経営に関わる情報が集中し、経済や経営の先行きが読めるようになればなるほど、株などを自分で売買し、直接値上がりや値下がりを利用して儲けた方が簡単だ、と考えるようになります。
こうして運用預かり、自己売買、投資ファンドなどへの傾斜が大きくなり、キャピタルゲイン中心経営に堕していきます。
例えば、ある企業で画期的な技術開発があれば、その会社に金を貸して、その会社が収益を上げる中で金利をもらうより、その会社の株を買って、技術革新の新聞報道で値上がりしたら、すぐ売る方が早いですね。労力も時間もかからず、儲けも大きいでしょう。
こうした儲けは日本では昔から「あぶく銭」と言って蔑んで来ました。住友家の家憲では「浮利に逸らず」と言っています。
今のアメリカの「ボルカールール」も基本的には同じ考え方によるものでしょう。しかし歴史的に見ると、種々の金融問題が起こるたびに反省はあるのですが、こうしたマネー経済はだんだん大規模なものに進化して、金融工学にまで至っています。
かつても触れさせていただきましたが、アダム・スミスが、レッセフェール言いながら「道徳情操論 」を書き、渋沢栄一が「論語とそろばん」といったように、ビジネスは、常に倫理と共存する必要があるようです。
付加価値を作らないビジネスはギャンブルに堕し、そこで経済成長は止まります 。今回もギャンブル経済への反省は生まれています。この反省も一時的なものにとどまるのでしょうか。
戦後世界が学んだ「生産性を上げれば、いくらでも豊かで快適な社会を作れる」が忘れられ、先進国経済は、生産性よりマネーゲーム、現有の豊かさを分捕りあうというwin=loseの世界に退歩しつつあるようです。