今日は土曜日です。言葉か概念の遊びをと思いましたが、書き始めるとそうもいかないようです。
まずは夏目漱石の「虞美人草」の一節です。
「粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織(つづれおり)か繻紾(しゅちん)か、これも喜劇である。英語かドイツ語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。生か死か。これが悲劇である。」
やっぱり人間にとって最も大切なのは生命でしょう。与えられた命をその可能性を出来るだけ生かすように生きる。
本能に従ってか、大脳で考えてか、よく解りませんが、人間はそうあるべきなのでしょう。
それを知っているからでしょう、政府は「国民の生命と財産を守る」ことを第一の目的にしているようです。
生命だけでなく財産も守ってくれるというのは有難いことです。
戦前、戦中にかけて、「お国の為に命を捧げる事が最も良い事」と教わり、私もそう信じていました。
1945年の8月15日を境にこの価値観は雲散霧消し、「自分の思うようにいきなさい」という事になりました。
この解放感は今もはっきりと覚えています。「そうか、これが本来の人間が生きるという事だったのか」そして自分の生き方を、自分なりに考えるようになりました。
冒頭の「虞美人草」の一節は、人生は自分なりに選ぶもので、大方は喜劇である。しかし、せいか死かの選択は、そこで人生がなくなるという意味で、人間にとって最も重要な意味を持つ事でしょう。
しかし、いま世界を見渡せば、この重要な生と死の問題を物の破壊と同じようなレベルで考えている国のリーダーが未だに存在するのです。
それだけではありません、いまの日本においても、部分的にそうした可能性が起きることを認める動きがあり、それが「新しい戦前」などという言葉で話されているのです。
更にこうした動きの原因を探っていきますと、かつてこのブログで提起し、折に触れてれて取り上げている「争いの文化」の存在があるようです。
「争いの文化」の対極は「競いの文化」です。「争いの文化」は相手を倒して自分が生き残ろうとする文化、「競いの文化」いつかは相手を超えようと励む文化です。
そして、政治的、社会現象的には、「争いの文化」は、競うべき相手を倒し、専制・独裁という社会を作ります。
一方「競いの文化」は民主制を善しとし、共存と切磋琢磨によって可能性に挑戦し向上を目指す社会を作ります。
現に存在する「争いの文化」の典型はプーチンの目指すロシアの文化であり。「競いの文化」は、本来の国連の求める文化であり、スポーツではオリンピックの文化です。
最後に一つ、先ほども触れた問題を指摘しますと、日本社会の中にも、自民党が安倍政権になって以来、「争いの文化」に与する要素が顕著に増殖している事です。「争いの文化」は往々にして戦争を肯定します(平和のための戦争という詭弁)。
相手を倒し、自分が生き残ると、結局進歩が止まり衰退する社会になります。日本人として心しなければならない状態ではないでしょうか。
まずは夏目漱石の「虞美人草」の一節です。
「粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織(つづれおり)か繻紾(しゅちん)か、これも喜劇である。英語かドイツ語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。生か死か。これが悲劇である。」
やっぱり人間にとって最も大切なのは生命でしょう。与えられた命をその可能性を出来るだけ生かすように生きる。
本能に従ってか、大脳で考えてか、よく解りませんが、人間はそうあるべきなのでしょう。
それを知っているからでしょう、政府は「国民の生命と財産を守る」ことを第一の目的にしているようです。
生命だけでなく財産も守ってくれるというのは有難いことです。
戦前、戦中にかけて、「お国の為に命を捧げる事が最も良い事」と教わり、私もそう信じていました。
1945年の8月15日を境にこの価値観は雲散霧消し、「自分の思うようにいきなさい」という事になりました。
この解放感は今もはっきりと覚えています。「そうか、これが本来の人間が生きるという事だったのか」そして自分の生き方を、自分なりに考えるようになりました。
冒頭の「虞美人草」の一節は、人生は自分なりに選ぶもので、大方は喜劇である。しかし、せいか死かの選択は、そこで人生がなくなるという意味で、人間にとって最も重要な意味を持つ事でしょう。
しかし、いま世界を見渡せば、この重要な生と死の問題を物の破壊と同じようなレベルで考えている国のリーダーが未だに存在するのです。
それだけではありません、いまの日本においても、部分的にそうした可能性が起きることを認める動きがあり、それが「新しい戦前」などという言葉で話されているのです。
更にこうした動きの原因を探っていきますと、かつてこのブログで提起し、折に触れてれて取り上げている「争いの文化」の存在があるようです。
「争いの文化」の対極は「競いの文化」です。「争いの文化」は相手を倒して自分が生き残ろうとする文化、「競いの文化」いつかは相手を超えようと励む文化です。
そして、政治的、社会現象的には、「争いの文化」は、競うべき相手を倒し、専制・独裁という社会を作ります。
一方「競いの文化」は民主制を善しとし、共存と切磋琢磨によって可能性に挑戦し向上を目指す社会を作ります。
現に存在する「争いの文化」の典型はプーチンの目指すロシアの文化であり。「競いの文化」は、本来の国連の求める文化であり、スポーツではオリンピックの文化です。
最後に一つ、先ほども触れた問題を指摘しますと、日本社会の中にも、自民党が安倍政権になって以来、「争いの文化」に与する要素が顕著に増殖している事です。「争いの文化」は往々にして戦争を肯定します(平和のための戦争という詭弁)。
相手を倒し、自分が生き残ると、結局進歩が止まり衰退する社会になります。日本人として心しなければならない状態ではないでしょうか。