tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

時間と宗教について考えてみました

2023年07月15日 13時33分38秒 | 文化社会
今日は土曜日、世界も日本も多事多端ですが、少し勝手なことを考えてみたいと思っています。

というのは、先月5日に、折口信夫の言った「類化性能」と「別化性能」について書きながら、何と無くこんな事を書いていました。

「原始の時代から人間には宗教がありました。これは人間だけのものでしょう。人間の脳が時間の概念を持っているからかもしれません。」

後から何故あんなことを書いたのだろうと気になっていたのですが、理由は、宗教を持っているのは人間だけだという事、そして時間の概念を持っているのも多分人間だけだろうという事からの連想だったのだと思います。

考えてみますと、人間以外の動物は「今」を生きているようです。もちろん犬や猫にも記憶装置はあるでしょう、「餌を呉れる人はこの人」とかです。
しかしそれは壁に記憶した絵が貼ってあるようなもので自分にとっての重要性によって絵の大小はあってもあくまで平面的なものだろうと思います。

人間も、やっぱり「今を生きている」のですが、その記憶は、「昨日のこと」「去年のこと」小学生の時のこと」というように、総て時間軸の中で整理されています。
これが出来ているのは人間だけでしょう。

つまり、人間は時間の概念、大変精密で正確な「時間という概念と組合わされた記憶の整理機能を持っているという事になります。

「今」という瞬間は1秒であっても、その背後には自分の年齢だけの時間=記憶の蓄積があるのです。

哲学者はその記憶をしっかり持ちながら、しかし自分が死ねば、それは全て無くなる。この世は本当に存在するのか、「自分は現実に存在しているのか」などと思索し、こんなこと考えているのは「自分」なんだ、だから『われ思う、故に我在り』なのだ、などと考えたのではないでしょうか。

しかし「今」は記憶の終点で、未来は解りません。「今」が時間軸上を進んで行って、未来が今になり、過去になって記憶に蓄積されるのです。

それが人生ですが、問題は死です。こうして生きてきた自分が死後はどうなるのか、臨死体験などはあっても、死後は解りません。

しかし、解らなくても、人間はそこまで「考える」ことは出来るのです。そこに生まれるのが宗教なのではないでしょうか。
ある意味では、哲学(自分の存在)を死後にまで延長して思索するところに必然的に宗教が生まれるということなのではないでしょうか。

そう考えれば、人間だけが哲学を持ち、宗教を持つことが出来るという事、それは、人間が時間軸という概念を意識出来るからという所に行きつくように思われます。

人間の脳がそれを可能にしている、人間の脳だけが時間軸を意識できるのであれば、人間の脳がいかなる形でそれを可能にしているかが問題です。この研究は、「人間の脳と時間概念」という形で、今、研究が進んでいるようです。