tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

難民問題へのアプローチ:1

2018年12月12日 23時38分47秒 | 国際政治
難民問題へのアプローチ:1
 この所、難民・移民の問題で世界中が大騒ぎです。ヨーロッパには地中海を命がけで渡ってくる難民、アメリカには中米から列をなしてアメリカで働きたい移民希望者が、政権の安定を脅かすまでに深刻になっています。

 難民・移民に対して寛容な姿勢を維持してきた国々で、今、難民・移民の受けりれに反対する人々が急速に力を持ってきているようです。
 理由はどうも「数」の問題のようです。

 難民・移民の問題は慈善事業に似ているように思えてなりません。
 ある程度までは、喜んで慈善事業に協力する人は少なくないと思いますが、その人の善意の範囲を超えて拠出額が要求されるようになると、「ちょっと待って。私にも私なりの生活があるのですよ」という事になります。

 国と家族は最大と最小の社会単位ですが、よく似ていて、どこに所属するかは生まれた時に決まっています。原則は勝手に移動できないことになっています。
 そして、通常は自分の家族を愛し、協力してより良い生活のために努力し、余裕があれば、気の毒なっ方のために慈善活動をしています。

 家庭も国も、よい家庭、よい国になるのは成員の心掛け次第です。時には天災や戦争の被害もありますが、成員の協力と努力で克服し、よい生活を目指します。そしてそれぞれに、目標やそこに行きつくための計画を持っています。

 慈善事業の要請がその目標や計画を壊してしまうと感じる所までが、慈善事業ㇸの協力の限度でしょう。
 この間まで難民・移民の受け入れに寛容だった、国が「もう御免だ」と言い出すのは、その限界を超え始めたという事でしょう。

 その際の理屈は多分こうでしょう。「自分たちは歳月をかけ、努力して国づくりをしてきた。今の生活はその成果だ。あなたたちも努力して自分たちの国づくりをするべきだ」「多少の事なら面倒を見るが、我々の生活を壊されるのは御免だ。」

 これは家族でも同じでしょう。居候が増えては家族の生活は成り立ちません。(注:日本の技能労働力の場合は働いてくれるのですからその点は問題ないのですが、仕事がなくなった時のことが確り考えられていないことが問題という事でしょう。)

 難民・移民のほうから言わせれば、「俺たちの国の惨状を見てくれ。内戦や、暴力の横行で、殺されかねない、命がけで逃げ出してきたのだから、何とかしてくれ。国内で解決しろと言われても、俺たちの力ではどうにもならない。」ということになるのでしょう。

 さて、これをどう裁く?という事になるのですが、家庭に置き換えてみたらどうでしょうか。
 家庭内暴力や、育児放棄の場合は、昔なら駆け込み寺でしょう。近所のお金持ちの家に駆けこんでも、多分厄介払いでしょう。
今は当然のことですが、駆け込む先は行政機関です。行政機関が家族の中に立ち入って、解決のために、家族の問題点を調べ、出来れば、家族内での解決を求め、どうにも不可能な場合には行政の責任で適切な処置をとる事になるでしょう。

国の場合に話を戻しますと、行政機関に相当するのは国連でしょう。そして確かに国連には「難民高等弁務官事務所」(UNHCR)があります。
しかし、今起きている問題は、とてもUNHCRの手におえる問題ではないようです。そして結局、難民・移民の流入する国の政治問題に転嫁されているという事でしょう。
 次回、もう少し先まで(私の勝手な考えで恐縮ですが)考えていってみたいと思います。