tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

NGR再論

2013年11月12日 14時26分32秒 | 社会

NGR再論
 NGRというのは、かつて、CSR(Corporate Social Responsibility)と並べて論じましたが、私の勝手な造語で、Nation’s Global Responsibility の頭文字です。
 個人に道徳が言われ、欧米ではCitizen's Social Responsibilityなどが云われ、企業レベルでは最近のようにCSRが強調されるのであれば、国レベルでも基本的は同じ行動基準があるはずだという考え方によるものです。

 人間以外の動物には,当然のことながら、こうした考え方、概念、コンセプトはないでしょう。人間も、本能に従って行動している嬰児の時期にはないでしょう。もの心がついて一人の人間として社会の中で生き、社会との関係、具体的には他人との関係が意識されて、はじめて「道徳」や「倫理」といった考え方が生まれるのでしょう。

 企業などもこうしたプロセスを辿って来たようです。CSRの起源を1920年代のキリスト教会による武器、たばこ、酒、ギャンブルなどへの投資はすべきでないといった主張に求める人は多いようですが、その後、公害問題、地球環境、気候変動等に関連して、地球人類のサステイナビリティーを尊重するという考え方から、企業のかかわる多くのステイクホルダーズに十分配慮すべきという、今日のCSRの考え方に進化してきたようです。

 しかし、個人の犯罪が後を絶たないように、企業のCSRに従わない行動も後を絶ちません。だからこそ、個人の倫理観や企業のCSRが強く言われるわけで、これは、人間社会としては極めて健全な動きだと思っています。

 一方、国レベルのNGRはどうでしょうか。未だ、ほとんど影も形もありません。もっともプリミティブなことで言えば、個人でも企業でも「あなたと私」、「貴社と当社」と並べるのが礼儀として当然ですが、国の場合は必ず自国の方を先にします。日本で言えば、「日米」「日中」「日独」「日伯」などなど。
 他の国の場合でも、相手国を先に置く用例は見ません。

 この辺りは小さなことかもしれませんが、基本的な考え方は自国中心という天動説的思考形態が国の場合には未だに平然と罷り通っているという事でしょう。
 これがそのまま発展していくと、個人や企業ではサステイナビリティーがないということで当然否定されるべき行動が、そのまま肯定されることに繋がります。

 軍備増強競争などもそうですが、経済で言えば、赤字の連続で借金を続けるといった、いつかは行詰まる経済運営が大手を振って罷り通り、一時的にでもそれを可能にするための金融経済学や金融工学などというものが、国際的な学問として成り立ち、それを主唱する学者がノーベル賞を貰うといった、個人や企業レベルでは考えられないことが現実に起きています。

 個人の倫理観は大昔から、企業の倫理観は最近のCSR意識として強調されている中で、国レベルでは全く違った価値基準が相変わらず当たり前、といった未開な状態がいつまで続くのでしょうか。