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Altered Notes

Something New.

“NO MUSIC, NO LIFE.”

2023-11-03 10:45:00 | 音楽
タワーレコードの宣伝コピーで有名になった文言だが、これは真理と言って過言ではない本質を語っていると思う。

人間は誰でも音楽を必要としている。本能的にそうなのだろう。音楽を受け取る方のレベルや嗜好によって、どんな音楽が好まれるかは様々だが、何しろ結果的に音楽が人生、或いは生活の一部を構成するようになるのは人間の性(さが)なのであろう。

意識的に音楽に携わる人は自分で楽器を演奏するなり、正式な歌唱で音楽を楽しむであろう。では、普段音楽を意識的に捉えていない一般の人々はどうなのか?

そうした人々に音楽をイージーに楽しむ機会を与えたのが「カラオケ」である。カラオケは誰でも参加可能であり、何しろ演奏中(歌唱中)は一人なので、誰にも邪魔されず他人と合奏(合唱)する技術もセンスも必要ない。日本発祥のこのシステムは今や全世界に広がっているが、プロの世界にまでカラオケが入ってくるのは当初は意外であった。

昭和の昔なら、歌手の公演はバックバンドが生演奏で参加するのが当たり前であった。音楽なのだから伴奏も生演奏であることを誰でも普通に捉えていた。だが、1980年代頃だったろうか。美空ひばりさん恒例の新宿コマ劇場公演においてそれは突然出現した。ひばりさんは熱唱しているのだが、バックバンドの姿がない。伴奏はカラオケに置き換わっていたのであった。当然バンドが居て生演奏してくれるものだと思っていた観客は喫驚した。音楽のあり方をどう捉えるのかによって意見はまちまちだが、公演を主催して利益を狙う興行主にしてみれば、演奏してくれるバンドの経費が丸々無くなるのであるから、音楽的には「?」だが、ビジネスの観点から見れば、これは興行主にとっては大きなコストカットになる訳で、飛躍的に利益が増えてありがたや、な話になるだろう。

現代ではすっかり市民権を得たカラオケだが、本当のプロのミュージシャンは意外にカラオケには行かない。

なぜか。

普段から楽器を通して「これでもか」というくらいに音楽に触れているので、わざわざカラオケに行って音楽体験をする必要が無いからである。歌唱のプロの場合も自分の喉や身体が楽器なのであって、一般の人が考える程にはカラオケを必要としていない。


やや余談だが、最近発売されたオタク用語辞典「大限界」の中に「口から音源」という言葉が紹介されている。例えばアイドルグループの中にも歌唱技術に優れた人物が居るが、その人が歌い始めると、CD音源と同じ歌声がすぐに響き渡る事で「口から音源」という言葉が広まったそうだ。逆に言えば、アイドルグループを構成するメンバーのほとんどは歌唱が下手くそだったりする訳で、素人が玄人を礼賛するような言葉としても捉えられる。また、今の歌手のコンサートの多くはバックの音楽がカラオケで済ませられるし、それが当たり前な時代になっている。さらに、アイドルの場合はスタジアムコンサートで数万人の観客を相手にそのまんまCD音源を流して口パクしながらダンスだけに集中してステージしたりもする。これにも(悪しき意味で)喫驚するが、「口から音源」という言葉が普通に拡散している実態を見ると、プロの歌手とされている人々のレベルが著しく下がっている実情をも感じざるを得ない。


話を戻すが、誰でもその生命と音楽は切り離せないものがある…「NO MUSIC~」のコピーを見ると、改めてそれを実感するものである。






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音楽を語れないアイドル(歌手)

2023-10-22 09:06:09 | 音楽
「アイドル」と呼ばれる人々は昔はいなかった。昔はまず「歌手」であり、その中でもいわゆる顔面偏差値の高い人が「アイドル」的な存在として認知されたのだが、当時は未だ「アイドル」という職掌は確立されていなかった。現在言われている意味でのアイドルの元祖的な存在として女優の吉永小百合さんが居るが、この人が若い頃に歌手としてデビューした時には「アイドル」ではなく「可愛い子ちゃん歌手」などと呼ばれていたのだ。「歌手」であるよりも「可愛い子ちゃん」であることに価値があった、ということだ。

何を言っておるのだ?と思われるだろうが、「歌手」という謂わば「音楽家」であった筈の存在が、いつの間にか「アイドル」と化してしまい、基本的にただそこに居るだけで商売が成立するような形になってしまった。要するに「歌」だの「音楽」だのといった要素は横に置いて、その存在のセクシャリティー的な魅力(*1)が商品価値として認知されるようになっていったのだ。だから、現代の「アイドル」と呼ばれる人たちの中には正しい音程すら取れないような素人以下の「歌手」がごまんと存在する。(*2) それでもビジネスが成立するのは、その人の外見(ビジュアル)のセクシャリティー的要素が一般大衆から求められるからであり、芸能マスコミがその傾向をさらに煽るのである。

「ただそこに居るだけで商売になる」のは「握手会」だの、オンラインでの「ミート&グリート」などが立派にビジネスになっており、主催者はそれで多額の利益を得ている事からも分かるように、もう「そこに居てくれればいい」だけの存在なのである。写真集を出すのも同じであり、これが基本だ。

しかしながら、「ただそこに居るだけ」ではあまりにも間が持たないのも確かである。それで現代のアイドルは一応「歌手」というレッテルを貼ってもらってCDを売ったりコンサートをしたり配信ビジネスをしたりもする。年末には各種の音楽賞を受賞しただの、紅白歌合戦に出るだの落ちただの、が話題になることからも分かるように、一応「音楽をやってます」という体を保持しているのも事実である。

だがしかし・・・。

「歌手やってます」「音楽してます」という割には、アイドル達が肝心の「音楽」について語っているところを見た(聞いた)事がない。アイドルが曲について語る時の切り口は「踊り」「歌詞」しかない。「踊り」も「歌詞」も「音楽」ではない。アイドル達は決してその曲の「音楽面」については語らないのである。「音楽」を語る言葉を全く知らないからであろう。例えば、そもそもAKBや坂道グループを作ったプロデューサー自身が「音楽を語る言葉」を知らず、音楽を単に曲のパーツの一つとしか捉えていない、かのように見えるのである。(*3) 要するに、プロデューサーにとって音楽は一種のブラックボックスであって、その中味については分からないので議論することは出来ず、だからただ感覚的に(パーツとして)選んでいるだけなのだろう。

当ブログではかなり前に爆笑問題の二人が音楽家・坂本龍一氏と鼎談した時の内容について書いたことがある。その時に、坂本氏が「音楽を聞く時に歌詞は全く聞いてない、意識してない。音楽だけを聴いている」と語った事に爆笑問題の二人は本気で驚いていた。爆笑問題の二人もまた「音楽を語る」事の意味が全然判っていないのである。太田光氏は曲の「歌詞」を語ることで「その曲を語った」つもりになっているのだが、歌詞は言葉であり音楽そのものではない。「歌詞」だけ語っても、その曲(音楽)を語った事にはならない。全然ならないのだ。逆に音楽家の坂本龍一氏は歌詞という余計なものを除外し、純粋に曲の音楽面を聴き込む事に集中する…それは音楽家として普通のこと、当たり前な事なのである。(*4)
歌曲全体として評価するなら確かに歌詞も無視できない要素の一つであることは間違いないが、しかし「歌詞だけ語り、音楽面は一切語れない」のはどう考えてもおかしい、と言わざるを得ない。それは曲の一方のサイドだけを語ったに過ぎず、もう一方は無視しているということに他ならない。

もし心に染みるような良曲があって、歌詞も印象的だったとしたら、その評価・印象の中には「歌詞を彩る旋律があり、それを支える和音やリズムがある筈」なのだ。それがあっての「歌詞」なのだが、アイドル達はこの音楽面を全然語れないし、語ろうとしない。ひたすら「歌詞」という言葉についてだけを語る。上述のように「音楽を語る為の言葉」を持っていない(知らない・無知)だからである。一般大衆、いわゆる素人ならともかく、一応お金をもらって歌を歌っている立場の人間がこの程度…というのはいかがなものだろうか?

女性アイドルの会話などを聞くと、普通に「曲を踊る」という言い方をする事に気づくだろう。彼女たちにとって曲は「歌う」ものではなく「踊る」ものなのである。「どうやって歌うのか」よりも「どうやって踊るのか」に関心があるのであり、その曲の音楽的な成り立ちなど大した関心事ではないのだろう…ということがつぶさに分かるのである。

それこそ昭和の昔には歌を立派に音楽的に歌い上げる事ができる、まさに「歌手」と呼べる人々がたくさん居たのだが、現代は上記のような「音楽を知らない若年層」の踊りが中心の曲を見せられる(聴かされるのではなく)事が中心になってしまった。1980年代頃までは歌手が歌う時にはバックバンドが居て、きちんと生演奏と共に聴かせる事が普通だったのだが、今のアイドルは平然とカラオケで歌う。さらにカラオケどころか「歌入りのCD」をそのまま流すことでアイドル自身は口パクをしながら、ただダンスだけをするのだ。

なぜか。

踊りに集中していれば、本来集中すべき「歌(音楽)」へまわすエネルギーはなくなる。だから、踊りに集中する為にアイドルは「歌入りのCD」をそのまま流して自分達は口パクしながら踊るだけ、になってしまうのだ。こうした事実は「歌手」を名乗るにはあまりにも片手落ちで貧弱で致命的である。だから彼女たちには「歌手(音楽家)」ではなく「アイドル」という職掌が与えられたのである。「歌手」ではないのだ。「アイドルだから許してね」という音楽を舐めた姿勢が当たり前となってしまった現代である。「音楽」は既に脇に追いやられており「添え物」としての価値しか与えられていない。

アイドルに振り付けする振付師も「このグループ史上、最高難度の振り付けです」などと得意げに自慢するのだが、そんな難度の高いダンスをやらせるから、だから本来「歌唱」にまわされるべきエネルギーを奪ってしまうのである。結局歌唱がいい加減になってしまい、「音楽が蔑ろにされてしまう」のである。「最高難度です」と自慢する振付師は自分のせいで「歌手」が「歌唱」にまわすべき精神力・集中力を全て奪ってしまっている事に気が付かない。音楽側から見れば迷惑この上ない話、なのである。

これらの現象・事象の背後にはその国の民衆の文化レベルが反映している。観客側がそれを許してしまっているからこんな悪行が通用しているのである。かつてジャズ・ピアニストの菊地雅章氏は「日本は文化果つる国だね」と言ったが、音楽文化の程度が低い日本だからこそこうした体たらくが常態化してしまったのだろう。程度が低いのは民衆だけでなく、マスコミも同罪だ。マスコミもまた無知・無学・無教養な人間の巣窟である。むしろマスコミが率先して民衆の文化レベルを下げている、と言っても過言ではないだろう。これが日本の実態なのである。



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(*1)
男性ファンから見た女性アイドル、女性ファンから見た男性アイドルは、各々ファンの側から見た「理想の異性像」として受け止められる。深層心理学者ユングが言うところの「アニマ」「アニムス」の投影先としての存在となる。世俗的な言い方で言えば「疑似恋愛」的な世界に顧客を引き込む事で成立するビジネスである。
以前、AKB48が全盛の時代にプロデューサーの秋元康氏が外国のメディアから「少女の性(女性的なるもの)を商品化(搾取)しているビジネスではないか」といった疑問が呈されたことがある。秋元氏は否定したが、実態はそういう側面を多とするのが実態と言えよう。少なくとも「音楽」の良し悪しで稼いでいるビジネスではない。

(*2)
そんな「歌手」が紅白歌合戦に出演したりするのだから、そりゃ音楽番組としてのステータスは下がるだろうし視聴率も下がるだろう、と容易に推察できる。

(*3)
プロデューサーにとっては大切なのは「音楽」ではなくビジネスとして「利益」「収益」をあげる事だけであろうから仕方がないのだろう。その程度の人、ということだ。実際、このプロデューサーが関わった曲の中には音楽的に悪くないものもあるにはあるが、多くの場合は平凡でただ騒々しいだけの曲である。つまり全然「音楽的ではない」曲が多い、ということ。聴いていて、「もしもこの曲を作曲コンテストに出したら一次審査(譜面審査)で落ちるだろう」、というほど凡庸な曲が多い。また、平然と他人の曲をパクっているケースも見かける。前述のコンテストだったらパクリなど言語道断だ。本当の音楽家だったら恥ずかしくてこんなことできないだろう、というような事をも平気で仕出かすくらいだから、このプロデューサーは本当に音楽の「お」も理解していないのだろう、と容易に推察できる、というものだ。要するに「芸術面」よりも「収益」を重要視する「商売人」に過ぎない、ということだ。

(*4)
歌手の場合は歌われる旋律が「どのように(音楽的に)歌い上げるか」等が観点となる。この場合も歌詞ではなく音楽面を聴いているのだ。







ウェザーニュース新CMの音楽

2023-06-23 22:00:00 | 音楽
ウェザーニュースの新しいCMが放送され始めている。広瀬すずさんが出演しており、新しく作られたサウンドロゴが印象的である。下記を参照されたい。


『広瀬すず出演「いちばん当たるアプリ」篇/ウェザーニュースTVCM②』

『広瀬すず出演「私はこっち!」篇/ウェザーニュースTVCM⑥』


広瀬すずさんが歌う、たった1小節のサウンドロゴである。 この短い旋律をウェザーニュースライブの女性キャスターさん達も番組中に時々歌ったりするのだが、誰一人として正しい音程・正しい旋律で歌えていないのは驚きである。CM中の「♪ ウェザァニュース」という歌の部分だ。案外、バックの和音(コード)との兼ね合いで音程が掴みにくいのかもしれない。なにしろ、この短い旋律の中で転調もしているし。(*1)(*2)

そのサウンドロゴの部分は譜面にすると下記のようになる。



バックのコードは最初が Am7(Bass C) 、次が E♭M7 である。メロディーは最初が3連符で「シドミ」と上がってきて、「ソー」で解決する、そういう旋律だ。



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(*1)
広瀬すずさんは、この短い旋律を丁寧に歌っており、当然だが音程も正しい。

(*2)
このメロディーの音程をきちんと取りたいと思ったら、特に最初の3連符(シ・ド・ミ)の部分を音階(スケール)を意識しながら歌うと良いだろう。3連符部分はハ長調だが、最後の「ソー」はハ長調の第五音としてではなく、変ホ長調の第3音として鳴っている。ここでシレっと転調されているので音程が取りづらいかもしれない。逆にここを意識的に押さえれば大丈夫であろう。






映画『風の谷のナウシカ』イメージソングについて

2023-06-17 15:20:00 | 音楽
映画「風の谷のナウシカ」のイメージソングに関してハフィントンポストが下記の記事を配信している。

『『風の谷のナウシカ』の「幻のテーマソング」がこれだ。大物たちの秘話を追った』

『『風の谷のナウシカ』のミステリー。安田成美さんのテーマソングが上映時に流れた?スタジオジブリの回答は…』

筆者は「風の谷のナウシカ」をロードショー公開当時にリアルタイムに映画館で鑑賞(10回近く観ている)した。安田成美さんが歌った例のイメージソングの存在も知ってはいたが、それが「映画作品内で流れない」事も知っていた。当時、アニメや映画に詳しい人なら大抵知っていた事実だが、ハフィントンポストの記者は若いので知らないのであろう。
なお、上映時間でない時、つまり休憩中に映画館内のBGMとして鳴っていたのは覚えている。「エンディングで流れたかも」と言っている人は恐らく休憩中のBGMを勘違いしたのだろう。

ハフィントンポストの記者は「せっかく大物音楽家(作詞:松本隆、作曲:細野晴臣)に作ってもらった曲を映画内で使わない理由は何か」という趣旨で記事を書いたようだが、映画本編を観て、そして安田成美さんが歌うイメージソングを聴いて、この両者が「合う」と思っているのなら相当の阿呆である。ハフポストの記者は音楽的感性・映画的感性がゼロな人間と言えよう。

映画本編は人類の運命に関わる壮大なテーマをシリアスに描いたものだが、この細野氏作曲のイメージソングは(歌詞も合わせて)映画のコンセプトとはあまり相容れないものである。それが一聴して分からないハフポストの記者には呆れるしかない。

このイメージソングは徳間書店や博報堂などのプロモーションを行うセクションがキャンペーンの一貫としてやったものであろうが、仮にこの曲がエンディングで流れたら、それまで綴ってきたナウシカの世界が一瞬で崩れてしまうほど呑気でホンワカした曲に聴こえてしまう。それほど映画のコンセプトとは乖離した曲である。高畑プロデューサーや宮崎監督がエンディングテーマへの起用に反対するのは「当たり前」であり、それが想像できないハフポストの記者は…これはもういいか。(笑) (*1)

映画本編の音楽を担当した久石譲氏も次のように述懐している。

「『風の谷のナウシカ』には、予告編やテレビCFで盛んに流されていたイメージ・ソング(今や女優として第一線で活躍している安田成美さんが歌っていた)があった。それを本編のラストでエンディング・テーマとして流したいという提案が、徳間のほうからあった。
が、作品としては、絶対に流さないほうがいい。これは、監督、プロデューサー、そして僕の三人のなかに強烈にあった。(中略)製作会社の徳間としては、どうしてもこの歌を入れたかったらしい。そこで、作家の精神というものを貫いたのが、プロデューサーの高畑さんだった。
文字どおり、体を張って、強硬に反対した。その姿には、本当に胸を打たれた。」
(久石譲『I am —遥かなる音楽の道へ—』メディアファクトリー刊)


全くその通りなのである。

細野氏は作曲前に宮崎監督に会って映画の内容について詳しく取材はしたようだが、あくまでありきたりな「ポップス」にしてしまったのが最大の敗因であろう。(*2) しかもこの作曲には大きな条件がある。当時の安田成美さんは新人であり、歌の素人でもあった。…ということは、あまり凝ったメロディーラインは書けない事になる。新人に難しいメロディーやリズムをあてがったり、高い歌唱能力を求めるのは無理に近い。実際にあのイメージソングを聴くと、メロディーラインの音域の幅が狭い事が分かる。素人に近い新人でもなんとかこなせる程度の歌でなければならなかったのである。そちらを優先させるならば、「映画のコンセプトを表現した曲」など最初から無理というものだ。そして、こうした作曲上の条件などはマスメディアで公式に語れる事ではない。

細野氏はエンディングテーマとして使ってもらえなかったことに不満があったようだが、真摯に、虚心坦懐にあの映画を鑑賞するならば、あの曲があの映画に「合う訳がない」ことは明白であった筈だ。それが分からない細野氏ではないと筆者は信じている。




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(*1)
ハフポストの記者は「日本テレビでの放送で初めて本編を見た。あんなにCMで流れていた歌が流れず、拍子抜けだった記憶がある。」と記しているが、これが何よりこの記者の感性が致命的に貧弱であることを雄弁に示している文言と言えよう。

(*2)
徳間書店はこの曲をヒットチャートに乗る商品として売りたかったようで、映画作家としての宮崎監督の意向とはそもそも根本的にずれていたのである。







「スティック」という楽器

2023-05-16 19:29:39 | 音楽
かなり前のキング・クリムゾンの演奏映像で、ベースのトニー・レヴィンが「ベースではない何か」な楽器を弾いているのを見た。下記の映像を参照されたい。


『King Crimson - Elephant Talk』

『Elephant Talk: King Crimson on 'Fridays', ABC TV, USA』


ご覧のように、多弦編成のギターから共鳴胴をカットしたような形である。音を聴くと、ちゃんとベースの役割を果たしているだけでなく、和音である種のリズムパターンを演奏している。タッピング奏法で演奏される楽器であり、通常のベースではできない表現が可能となる。(*1)

この楽器が当時から「スティック」という名称であることは知っていたのだが、関係者以外にはあまりにもマイナーな楽器であり、ほとんど普及していないので忘れかけていた。

だが、そこに突然記憶を呼び戻す番組が放送された。テレビ朝日の「ハマスカ放送部」(2023年5月8日放送)である。ここに突然登場したのだ、スティックが。MCの1人であるハマ・オカモト氏は「初めて知った」かのようなリアクションだったが、彼のようなプロのベーシストがこれを知らない筈がない。それくらいには有名な楽器だったのだ、こいつは。

その番組の「YouTube限定公開版」があるので参照されたい。↓


『【激レア楽器】チャップマン・スティックでBase Ball Bear・関根史織の人生が変わった!?ハマ・オカモトと齋藤飛鳥が聞く【YouTube限定公開】2023/5/8OA「ハマスカ放送部」』


番組ではBase Ball Bearのベーシストである関根史織氏がこの楽器を紹介する形で進行したスティックだが、一瞬でこの楽器にハマってしまった関根氏の感性は素晴らしいと言えよう。スティック熱が興じてついにはトニー・レヴィンにも会ってしまう、というのは拍手である。
\(^o^)/

関根史織氏自身がスティックを紹介する動画もある。下記を参照されたい。


『チャップマンスティックの関根史織(Base Ball Bear/stico)がAstral Destinyを演奏!』


番組YouTube版の映像には含まれなかったが、筆者が興味深かったのは齋藤飛鳥さんが実際にスティックを持って演奏したシーンである。(冒頭画像参照)もちろん初見の楽器であり、大した内容は弾けないのだが、メジャースケールをゆっくり弾いたその音はそれでもタッピング奏法も含めてこの楽器に対するセンスを感じさせるものではあった。同時に「あの齋藤飛鳥さんがスティックを弾いている」というシチュエーション自体がとてもシュールであり、それを面白いと思った音楽関係者は少なくなかったであろう。




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(*1)
余談だが、この時期のドラムはイエスでも活躍したビル・ブルーフォードである。