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週刊浅草「江戸っ子瓦版」 -のんびりHiGH句な日々-

文学と食とRUNの日々を、PHOTO5・7・5で綴るエッセイ♪

車夫。

2016年05月31日 | ☆文学のこと☆


      【車夫】
     著:いとうみく 


 冒頭の一文から本の世界へ引きずり込まれた。

 ミュールの靴擦れに悪態つく女の子の独白が生々しい。

 どうやらその原因が父親の再婚問題に絡んでいるらしいと判る。 

 その父親と再婚相手を一緒に追っかけてくれたのが車夫の吉瀬走だ。

 浅草の町に人力車が復活したのはいつの頃だったろう。

 あの頃、ローカルは人力車なんて流行らないと決めつけていたように思う。


 



【紫陽花や笑顔が滑る足袋の音】哲露
 

 いまでは六区の町の灯が消えかけたのが嘘のように、観光地として息を吹き返した。

 それと呼応するように勢力を増した人力車。

 住人として今では当たり前の風景だが、それを動かすのは生身の人間の力だ。

 そして観光客を口説き、乗せるのが商売だから、

 見てくれ、風采がいいに越したことはない。

 まさに体育会系の若者にはうってつけの職だろう。

 陸上出身の主人公とはよく思いついたものだ。

 人力車が行き交う辻の風景や描写、町の空気感。

 作者は実際、よくよく取材されてのことに違いない。

 「この仕事をはじめてから、季節の変化に敏感になった気がする。」

 お気に入りの一文だ。

 欲を言えば、喰い物のシーンにシズル感と香り立つ匂いがもっとあればと思った。

 野暮かもしれないが、一読者として、
 
 ここを削ったらもっと余韻が残るのにと残念に思ったとこは内緒で伝えたい。

 過酷な運命に翻弄され、ストイックでニヒルになった主人公が、
 
 浅草の町人と共生することで、この町を訪れる人と触れ合うことで自然と明るく再生していく。 

 予定調和の結論を急がない運びがいい。 

 もっとこの先を読んでみたいと思った。

 仕事の合間に本を開きながら、神保町の老舗で元祖冷やし中華を食う。

 くらげも椎茸もたっぷりとさっぱりと酸味の効いたタレが沁みている。

 胡瓜はあくまで潔い食感で、老舗の焼き豚とハムは口に含むと柔らかく滋味深い。

 頬が緩むほど肉肉しいシュウマイを噛み、冷えた麦酒で流し込んだ。 




 
 揚子江飯店の冷やし中華は、おいらの中でいちばんの味。

 車夫はいとう作品でいちばん気に入った本。

 一度、人力車に乗ってみたくなった。

 いとうさん、続編はいつ!?

 


東京零年

2016年04月10日 | ☆文学のこと☆


    【東京零年】
    著:赤川次郎 
   2015/8/10 新潮社


【自由だと知らぬ仏を山笑う】哲露
 
 久しぶりの赤川次郎

 小学生の頃、よく読んでいた作家だ。

 中学に上がり、スノッビーな同級から「赤川次郎なんて読んでいるの!?」と、心の底から揶揄された。

 多感な年頃、実際面白かったのだが、たしかにどの作も似たり寄ったりで、変化に欠け、飽きていたこともあった。

 そこからベストセラー大衆作家として敬遠してきたままこの歳に至る。

 自分では決して手を出さないジャンルの本に気づくから、

 同級生が嫌がった高校のオオタカ先生の課題図書も嫌いでなかったし(誰にも言ったことないが)、

 日曜の書評欄が好きである。

 そこに意外なことに、赤川次郎の新作が載っていた。

 2011年の震災以降、被災地を歩いたり、記事や番組をチェックしたり、

 反原発のデモに行ったりと自分なりに意識が変化した。

 書評欄の中で、赤川次郎はこれまで書いてきたことの意味を問い、反省し、この作品を書いたとあった。

 国家と権力者が奢り、行き着いた先の恐ろしいまでの管理社会を描いている。

 ジョージオーウェル「1984」の現代版といったところか。

 このフィクションを読んでいて、物語と達観できない妙にリアルな想像力が怖い。

 改めて、文章の技法もさすがと思った。

 書かない物書きがバカにするほど恥ずかしい無知はないと思い知らされた。

 国家統制、そこには力に絡め取られたものの終焉が暗示されている。

 B型の流感の惚けた頭にも読みやすい文体。

 この世へのアンチテーゼとして、必読の一作である


ガラスの壁のむこうがわ

2016年03月27日 | ☆文学のこと☆


 「ガラスの壁のむこうがわ」
著:せいのあつこ 画:北澤平祐 
    発行:国土社


 同人のせいのさんのデビュー作を読んだ

 表紙のカラフルな色彩のシャボン玉は、本文に入るとガラスの玉だと気づく。

 うつろな女の子の目は本を見ているようで、どこを見ているのか。

 日本人はとかく枠にはめたがる。

 個性を伸ばそうという教育者のスローガンなんて嘘っぱちだ。

 国も、会社も、学校も、軍隊も、家庭ですら輪を乱すもの、異端を嫌う文化がわが民族には脈々とあるような気がする。

 人と同じでなければいけないなんて誰が決めたんだろう。

 友達100人できるかなという歌を、何の疑問も湧かず歌っていたけど、

 成長するにつけけたくさんの友達を持てば持つほど、関係性のあいまいさ、薄さに孤独感が現れるはずだ。

 ツイッターやFBなどのSNSがいい例だ。

 ここでも利便と引き換えに、孤独が誘発される。

 いっそ一人でいたほうが気が楽なのだ。

 ただ、時折、自分の考えに共感できる、共鳴できる友がいると妙にうれしい。

 それこそが真の友情ではないのか。

 常に群れることを、組織を嫌う私もまた一人の由香なのかもしれない。

 一般的に言う、普通なんてものは幻影なのだ。

 同人の一人として、せいのあつこの短編を読んできた。

 作者のメッセージが結実し、潔く一冊にまとまったことが仲間として感慨深い。

 読み終え本を閉じた。

 由香の目が心なし笑って見えた。

 せいのさん、デビューおめでとう。形になってホントよかったね。

 これからも異端を、不器用がかっこいいを、子供たちにいっぱい届けて欲しい。 


【薄紅のガラスに映る友の顔】哲露


 


 満月の光が照らす隅田川の桜も一部咲き。

 雨の予報も外れ、晴れ間が広がっている。

 春の公園。のんびりと、風のラブソングを聴きながら、花に語りかけたい。

 墨堤の露店を冷やかしにいこうか。

 ああ、花粉さえなければなぁ


闇医者おゑん秘録帖

2016年02月14日 | ☆文学のこと☆


   闇医者おゑん秘録帖
 あさのあつこ著 中央公論新社 


【青い目に眩しき一陣春嵐】哲露


 封建の世は取り上げ婆という、お産婆さんが赤子を拾い上げた

 明治から昭和を経て、その仕事は医師に引き継がれ、助産婦がその一端を担っている。

 一方、貧しい家の子、訳ありの子を堕す(間引き)のも産婆の仕事であった。

 封建から科学の時代になってもそれは変わっていない。

 あさのあつこは闇医者という新たな用語で女性の哀しみと強さに焦点を充てる。

 鎖国の時代に、遠い異国から浜に流れ着いた者の無常は常人には計り知れない。

 異人の血を持つおゑんの祖父や末音の諦念は如何程のものだろう。

 暗闇のなかで生きる彼らの気力は、敬虔なほどの渾身によるものか。

 外国籍の船医としての医術が祖父を救い、調香の技術が末音の生きる術となった。

 この時代にそうした交流を受け入れる町があったことに新鮮な驚きを憶える。

 けれどあさのは徹底的に、人の欲への浅ましさを書いてゆく。

 長年の血と汗を信じた果てに、容易に騙し騙される人間の傲慢と愚かさ、闇の深さに読み手は絶望を感じるはずだ。

 女性の社会的立場の弱さと悲惨は物語の時代特に顕著だが、希望を見、定を受け入れた時の強靭さは、この両者が対になることで成り立つものであるかもしれない。

 おゑんやお春もまた希望を失いかけた女を救うことで、自らを救っているのだ。

 銭で子を堕すことを生業とする闇医者だが、その実態は世の女たちを解放することにある。

 ここにこの物語の特異性がある。

 石見銀山が舞台の「ゆらやみ」でも、定に抗い、子宮で男を愛し、一筋に生きる女性の逞しさを描いた。

 鉱山の底の暗がりと銀の煌めきは、子を宿す子宮そのものであるかのように思えた。 

 タイトルほどに暗さは感じられない。

 それはおゑんの捌けた立ち振る舞いと、女たちの気丈な生き様によるものだろう。

 ラストの語り、おゑんの饒舌はちと気になるが、先がどうしても読みたくなった。

 上手い切り口をみつけたものだ。

 おゑんの続編に期待したい
 


名前も呼べない

2016年01月31日 | ☆文学のこと☆



 「名前も呼べない」
 伊藤朱里著 筑摩書房 



 日曜の書評欄で気になっていた本

 初めての伊藤朱里。

 「名前も呼べない」

 タイトルからおよそ想像がつくが、いわゆる不倫ものだ。

 細やかな内面の描写はまさに純文学。

 心の襞をこれでもかとなぞる手法は好きな部類なのだ。

 ピアノの旋律とジェンダーフリーに生きる友人の言動がいい伴奏になっている。

 丁寧に仕込んだ梅酒の瓶は、不倫相手の家庭を投影させる映写機。

 夫、妻、息子まで梅の実の揺らぎに見えてくる。

 だが、規定路線にのっかり読んでいると、

 おっ、

 ここまで騙されたことに気づく。

 あざとい仕掛だ。
 

【頬冷やり瓶の底にある何か】哲露


 じつは、もう一話ある。

 「お気に召すまま」

 成人した娘二人と父親の物語だ。

 離婚したのは、自分のせいなのか、母のせいなのか、父のせいなのか、妹のせいかのか。

 優等生の家庭の離婚もまた誰かのせいだというのか。

 負の連鎖を断ち切れないのか、そもそも連鎖と考えることがおかしいのか。

 淡々と綴られていく平坦な地の文と、等身大でえぐるようなセリフに心の芯を鷲掴みされる。

 同じ男として、無口な父の娘に向ける雄弁が切なかった。

 太宰治賞を取った「名前も………」よりこちらにより強く惹かれた。

 新聞で見たのもご縁であるが、なんでも読んでみるものである。

 これからの才能を感じた。

 伊藤朱里に注目してみたい


椎名誠さんのこと

2015年11月16日 | ☆文学のこと☆





 日曜日、築地の朝日新聞社に行った

 朝日ホールで、椎名誠氏の講演会があるのだ。

 爽快に晴れ渡る陽の下、 築地場外を抜けると、たくさんの観光客がひしめいている。

 中国語、関西弁、中国語と、およそこの街のイメージにない言葉が飛び交う。

 ああ、耳学問で知ってはいたが、ここもインバウンド効果なんだ。

 かつて、日曜の昼間なんぞ築地はガラガラだった。

 欧米人にマグロの競りが人気と聞いたのはすでに過去のこと。

 井上(ラーメン屋)以外のラーメンを啜る中国人と関西人。

 地元でなく観光客のためにできた海鮮丼の店でも中国人と関西人が丼メシをかっ込んでいる。

 観光立国に立候補した日本だが、あまりの性急に街が人がついていけないのではないか。

 長いこと単一民俗でやってきた鎖国体質の日本人。

 とはいえ、今後30年で3割は減ると言われる日本の人口。

 日本らしさを見失わず、フランスのような観光立国になれるや否や。

 そんな矢先に飛び込んできたパリのテロ。

 安保法案を通したがいいが、その覚悟が、政を司る人たちにどうも見えない。

 大きな時代の転換期。

 私たちはどこへ向かう。




 
 社会人成り立ての頃、椎名さんの本に出会った。

 怪しい探検隊の行動様式そのものも興味深々だったが、小説の面白さには手が止まらなかった。

 SF好きが高じて、アドバードで日本SF大賞を取られたときは僕も誇らしかった。

 デビュー曲からファンになったマドンナが、爆発的に売れ出したときのあの心境に近いかな。

 彼の銀座のカラスを読んで、出版社で働こうと本気で思った。

 そして、大川にたくさんの水が流れた。

 アウトドアの本に創刊から携わり、いまもこうして出版社で働いている。

 もっとも、あの頃と時代背景は一変してしまったが。。。

 あのやんちゃな男の作品が教科書に載っているなんて、隔世の感がある。
 
 憧れの作家に生でお会いしたのは初めてだ。

 チベットの鳥葬のこと。

 アメリカのこと。

 モンゴルのこと。

 孫のこと。

 放射能のこと。

 中国のこと。

 興味深いお話しの数々を聴いた。

 野田知佑さんらしき先輩のことも話された。 

 本の雑誌が、菊池寛賞をもらうとか。

 継続することが如何に大切か、ここでも学ばせてもらった。





【波除の市場の空や七色に】哲露


 ホールを出ると、雨上がりの空に虹がかかっていた。

 椎名さん、やっぱ本物の男だ。

 カッコよかったな。

 自分の身に置き換えると、情けない限りだが、自分なりに一歩ずつ進むしかあるまい。

 彼はまた新しい雑誌にチャレンジしているという。

 いい仲間が周りにいるから面白いことが巻き起こる。

 すべては彼の行動とお人柄から始まったことだろう。

 虹の向こうに進もう

 


本郷の合宿!

2015年11月01日 | ☆文学のこと☆


    東大の安田講堂


 「本郷もかねやすまでは江戸の内」

 大岡越前守は、享保の大火を教訓に、土蔵や塗屋造りを奨励した。

 かねやすより北は茅葺や板壁のまま。

 かねやすとは、京が出の口中医(歯医者)が興した店で、元禄の頃「乳香散」という歯磨き粉を売り大繁盛した。

 ゆえに、こんな川柳がうまれた。

 今年も東大そば、その本郷の旧宿に、日本から外国から同人たちが集まった。

 それぞれ、思い思いの小説を持ち寄って。



         愛の物語分科会


 畳敷き、膝突き合わせ、互いの小説を論じ合う。

 30代の頃に信奉した作家が同じ分科会に顔を出してくれる。

 作家越水利江子姐さんの計らいである。

 こんなご縁もあるから、人生おもしろい。

 それにしても、みんな作品をよく読み込んできていること。

 思わず、その姿勢にタジタジとなる。




 そして、1日目の懇親会。

 秋田からの豪華な差し入れ。

 天寿はすっきりとした大吟醸だが、この秘蔵酒のトロリとした濃密に舌が歓喜している。

 牛タンの笹かまぼこ、いぶりがっこ。

 敦子先生、ご馳走さま。

 作家の率直が聞け、さらには全国各地の逸品が飲める。

 毎度、贅沢な宴会だわ。



         季節風大会の総会


 この後ろにも作家、作家、作家。

 物書き以外のひとには、面白くも痒くもない、およそ真面目な集い。

 開会にあたり、作家あさのあつこが言う。

 勉強になったなんて甘っちょろいことを言っててはいけない、

 どうか傷付き、涙し、たくさん血を流してください。

 そうでなければこうして集まる意味がない、と。

 至極その通り。

 なまけもの海光は悩みこそすれ、血を流す覚悟もなく、ただ項垂れるばかり。


            三四郎池
 

【銀杏踏む陽だまりの池三四郎】哲露


 大兄と散策していたら、あちらこちらで同人たちの群れとすれ違った。

 漱石はこの池を眺め、何を思ったのだろうか。


 
 浅草寺とツリーと十三夜


 久しぶりに大兄と飲み、語った。

 帰りには、十三夜が江戸の町をほのぼのと照らしていた。

 37回もの歴史を持つ、季節風の集い。

 5年目の参加。

 俺は、何を得、何を失う。

 結局、書き続けることしか、答えはない


火の鳥

2015年09月06日 | ☆文学のこと☆





【燃え盛る民の願いに秋の水】哲露


 久しぶりに手塚治虫を手に取った。

 名作[火の鳥]黎明編と未来編を続けて読む。

 卑弥呼の時代、遠い未来の話し、どちらも戦が描かれている。

 種族、血縁、友人、同僚の争いが繰り返されていく。
 


 何世紀、何万年と連綿としてヒトの生命が紡がれる。

 不老不死の血を手に入れるため、ヒトは火の鳥を射止めようとする。

 だが、不老不死ゆえ火の鳥は何者にも血を与えはしない。 

 火の鳥は死と再生を繰り返しながらただそれを見守るだけだ。

 たった一発で町ごと吹き飛ばす爆弾。

 目に見えない放射能の恐怖。

 そんな人類滅亡の兵器を持ってしまったのに、いまだ権力は兵器を増やすことに熱心だ。




 
 澤地久枝[火はわが胸中にあり]を読んでいる

 西南戦争後の近衛兵士の叛乱を、綿密な取材と丹念な筆で書き留めている。
 
 この竹橋事件は時の権力が隠したいことだったのだろう。

 歴史の教科書にも載っていないこの事件に、若者やこの時代に翻弄された貧民たちから教わることは多い。

 先週は国会議事堂を取り囲むほどの民衆デモが起こった。

 国会へ出る東西南北の駅では警官が国会へ近づけまいと誘導を繰り返した。

 一歩、地上に出ると、国会正面に繋がる歩道を封鎖してやはり近づけまいとした。

 それでも、民衆が溢れ出すシーンに、欧米の革命を見たような高ぶりを憶えた。

 翌日の報道ぶりを見ると、いつかこのデモですら歴史に埋もれてしまうかもしれないと思う。

 それでも、ヒトの記憶、DNAに刻まれたモノは消すことはできない。

 それを口伝で、小説という形で残すことが先人の知恵だ。



          恵比寿なゝ樹

 
          大塚三業地小倉庵

 
 なゝ樹の手打ち、小倉庵の田舎と生粉打ちの相盛り。

 外回りの楽しみは、伝統の蕎麦を噛むことにある。

 この蕎麦切りもそばがきから始まった先人の食文化だ。

 ヒトの争いの連鎖を、手塚は決して止まないヒトの愚かさと見抜いていた。

 一方、生きる縁となる、こうした食こそヒトの力の象徴でもある。

 あさのあつこ[ゆらやみ]を読み始めた。

 相変わらず硬質な文体に、時代考証に根ざした重みが物語を太くしている。

 石見銀山の衰退と、幕末から維新にかけての時代の変遷の描き方が鮮やかだ。

 そして、男と女、子供、連綿と続くヒトの営みが克明に照射され、心の奥底に潜む気高さと小狡さが抉り出されている。

 たけくらべのような、切ない余韻がのこる。

 物語は中盤に差し掛かる。先が楽しみだ。


 


 日本橋から東京駅と再開発が進む。

 この赤レンガが残ってホッとした。

 北関東から運ばれたこの赤い煉瓦も、また歴史の一面である。

 この広場で、TOKYO STATHIONを臨み、手を空へ広げてみる。

 ヒトは本来、自由な生き物なんだ。

 日常に縛られる日々だが、たまには空を見上げる余裕が欲しい。

 蝉が最後の咆哮を上げている。

 夏がもうすぐ去る。

 新しい夏に僕は向かう


北原未夏子【あめのちともだち】を祝う!

2015年07月14日 | ☆文学のこと☆

 
  【あめ・のち・ともだち】
  著:北原未夏子 絵:市居みか
 2015/6/5 国土社刊 初版第一刷 

 
 ついに本物の夏が来た

 そのタイミング、まさに満を持した感で、期待の新人、北原未夏子がデビューした。

 同人季節風に入会したての頃、彼女の印象は柔らかな口調で、朗らかな笑顔の女性というものだった。

 ところが、合評が始まると、そのおっとりとしたイメージからは想像もつかない独自の視点で鋭く的確を言い得ていた。

 沢山のプロ作家がひしめく同人の中で、とっくに世に出ている存在のように映った。

 仕事柄、毎月多くの出版物を目にするが、

 自分の本を出すということが、いかに重労働で時間のかかるものだと改めて思い知る。

 準大手の取次が、版元が、書店が加速度的に無くなっていく時代。

 再販制の名の下、過剰に、無駄なものが多いのも事実だ。

 時間はかかったが、北原は本物だ。

 季節風で描き続けたモチーフは、段ボールに、小さな頭にきっと沢山詰まっていることだろう。

 大器は晩成、ゆっくりでいい。




 
 平和ボケの民を尻目に不穏な政治情勢の真っ只中だ。

 未来へ向かう子供たちの心に、ごく自然と寄り添うことのできる稀有な書き手だと思う。

 出版界は激動の時代なれど、目指すものを見失わなければ、本物は残る。

 自戒を込めて、書き続けることの大切さを学んだ。

 同世代の先輩の笑顔が、本当に嬉しい。

 北原さん、おめでとう。




 
 初出版のお祝い会には、業界の重鎮、編集者、大勢の仲間が集まった。

 新宿52階の高層からの眺め。

 忘れられない思い出の夜景だな。

 オレンジからブルーに色を変えた東京タワーが祝福してくれたようだった。









【鬼灯や友のやくそく忘れない】哲露
 

 オレンジ、橙色といえば、このほおずきの季節でもある。

 涼を求め、七夕、朝顔、鬼灯と下町は祭りが続く。

 浴衣は着ているものより、見るもののほうが涼しい。

 伝統の行事や季節の風物を書くのも、何気ない日常を描くのも、作家の大切な仕事だと思う。

 どこにでもある日常の機微を、見失いがちな世の中だ。

 友達と交わした約束のために、流した涙は甘さもしょっぱさも一生の宝になる。

 信じることができるって、幸せなことだよ。

 北原さんの本に、気付かされたこと、子供たちが忘れませんように。




 
 雲ひとつない青空が眩しい。

 お陽様が元気だ。

 梅雨明けはどうなったのか。

 今月25日は、両国からつづく、伝統の大川の花火。

 浴衣に、うちわ、夏の涼は、家族の大切な行事なのだ。

 この日ばかりは、受験も、仕事も忘れ、楽しみたい。

 皆さん、水分と塩はしっかりと。

 今年の夏は一度きり。

 ご自愛くださいませ


越水利江子【うばかわ姫】を読んで

2015年07月08日 | ☆文学のこと☆

 
      【うばかわ姫】
    著:越水利江子
  2015/7/10第一刷 白泉社刊
     招き猫文庫


 
 小暑を過ぎたというのに、例年になく涼しい


 天の川から溢れたのか、しとどに濡れるお江戸の夏が続く。

 そんな折、地元東武ビルの書店にふらっと立ち寄った。 





 
 あった、あった。

 同人の大先輩、越水の待望の一般文庫デビュー作が並んでいる。


 そういえば寄稿された文芸誌【読楽】の感想を書いたのは、2014年の幕開けだった。
  http://blog.goo.ne.jp/tetsu-local/s/%C6%C9%B3%DA


 こうして一冊の本になるまでの月日を思うと、駆け出しはホント途方に暮れてしまう。

 文芸誌の段階ではもちろん、お話しはプロローグでしかないと思っていた。

 新刊だ、新鮮な気持ちで頁を捲る。

 文庫特有の黄がかった軽い用紙の手触りが心地いい。

 一度読んだはずの文章だ。

 それがまるで、物語の中の姥ヶ淵の湿り気を帯びるように、私の心を徐々に濡らしていく。


 二章の月下の恋に入るともう止まらない。

 そして、この作品を読み明かしていくに従い、込められたモノの大きさ、静かなる熱い深淵を前に立ち竦んだ。

 物書きの端くれとしての何かが震えだす。


 誤解を恐れずに言うと、越水が一般を書いてこなかったことがずっと解せなかった。

 児童書の世界では、90冊を越える著作を持つというのに、だ。

 生きるとは、苦しみであり、悔恨の繰り返しである。だからこそ、刹那、快と愛を享受できる。

 「その御大将を見よ」と言った、豺狼丸の母、お濠の言葉。

 「たとえ道の途中で倒れようとも、どこへ向かおうとしていたかを知る者さえあれば、人は笑って死ぬことができる」

 これは生前の藤沢周平が漏らしていた言葉と類似する。

 娘として、母として、なにより人として懸命に、真摯に生きてきた小説家は、時代物の巨星に通ずる境地に至ったのかと不遜ながら思う。

 姥皮を纏った野朱は作者の分身であり、それを感じとることのできる我々の一部でもある。

 若気の至りと享楽の奢りは、人を狂わせ堕落させる。

 だが老皮を脱いでも再び謙虚に身を投じれば、愛の本質が垣間見える救いもある、

 野朱の姿を借りた作者がそう訴えているように感じた。


 越水が私淑する山本周五郎の珠玉【つゆのひぬま】を思い出しながら、

 いずれ古都の城下に住まいし市井の人々の暮らしを、愛の溢れる筆致で見事描いて欲しい、と切に願う。

 さすれば遠からず、宇江佐真理、杉本章子と並び称される日は近いと私は信じる。

 「一期は夢よ、ただ狂え。」

 この小説を書くために生まれた。そんなものを書ける日がはたして来るのであろうか。

 京の姫君、越水のメッセージを、肝に銘じて、私もそろそろ狂いたいものである。


 【崖っ淵濡れて踠いて皮一枚】哲露


 お江戸の寺町はまもなく、橙色のほおずきで染まる。

 利江子姐さん、おめでとう
 


お山の寒桜!

2015年03月17日 | ☆文学のこと☆



 上野恩賜公園なう、じゃないけど弥生に入り再び立ち寄った

 春の気配に枝が思いっきり背伸びしたように花を広げていた。

 皆さん、大寒桜はいまが満開の見ごろでやんす。

 日本、欧米、中国、etc、etc。

 世界各国の平和の民がシャッターを押している。

 カメラよりスマホが多いのは当世風。 

 


【薄紅の花は上野か浅草か】哲露

 
 上野の清水の舞台の前でも咲いている。

 染井吉野まであともうすぐだが、長閑な陽気に誘われて来てみてよかった。

 公園では早速区画割りがしてあった。

 気が逸るってこういうことか。

 15年前に地元の版元にいた時には、昼間から交代で場所取りをしたもんだ。

 そういえば、そん時にとんでもないタイアップのトラブルが勃発して花見どころでなくなった。

 それもこれも懐かしい思い出だわ。

 

 大川(隅田川)に黄色い花が賑やかだった。

 1月は看病と自身の病でほぼ走れなかった。

 こんな花に出逢えるのもランニングの効果のひとつか。

 だが、いくら走っても体脂肪が落ちない。体重も落ちない。

 たったひと月で、筋肉量が大分落ちた。

 しばらく辛抱して、筋肉を育てないといかん!



 谷中霊園の手前の大雄寺。

 彰義隊が戦った地。

 ここに幕末三舟の一人、高橋泥舟が眠っている。

 尊敬する山岡鉄舟の義兄で、槍術と書の名人だった。

 その昔の下町には、カッコいい大人が多かった。

 鳥羽伏見の戦いにも加わり、幕府に恭順を説いて、晩年まで慶喜の信任も厚かったと云われる。

 こんな生き様ができようか。

 目まぐるしい日常を言い訳に、平凡なサラリーマンは今日も平和にモルトを傾けるのだ

 


青空に透く師走かな。

2014年12月21日 | ☆文学のこと☆



 街がイルミネーションに溢れている

 そりゃそうさ、師も走る年の瀬だもの。

 今年の暮れは、ほんに政の先生たちも走り回った。

 これは新橋SL広場の一景。

 これを眺める私の心も気忙しい。



 出版社恒例の年末進行に突入している。

 そんな中の異動やら退職やらなんやかや。

 アベノミクスの恩恵で我が社の賞与は七年連続の激減額とか。

 大手ゼネコン、電器、通信、金融、車、財団に勤める同期たちは羽振りがいい。

 これぞアベノミクスだ。



 そんな最中の忘年会シーズン。

 あれよあれよと埋まったスケジュール。

 友人、知人、同人、同僚、いろんな会合が集中する。

 景気がいいのやらわるいのやら。

 笑った日、泣いた日、楽しんだ日、悲しんだ日。

 今年のいろんなことが走馬のように脳裏を駆け巡る。



 週刊浅草と銘打ったくせに、二週間ぶりのご無沙汰だ。

 ブログ読者の方、すみませんm(__)m

 週が開ければ、聖夜がくる。

 信じるモノにしか見えない、白い髭のサンタさんはどこを飛んでいるのだろう。

 大振りの枝垂れ柳に、人工のもみの木が輝く。

 これぞ、現代の輝ける闇。



 レンガ造りの東京駅は100歳を迎え、千客万来のスイカ打ち止め。

 万華鏡のようなステンドは、その中で見上げた天井でありんす。

 この駅を起点に、何千、何万の人々のドラマが始まったのだな。

 新聞に内田百のエピソードが載っていた。

 ご存知列車好きの百先生、一日名誉駅長に「少し落ち着かなければいけない」と興奮を隠せなかったという。

 こんな茶目っ気があの名文を生んだ。

 テンプレという言葉を同人から拝聴した。

 殻から飛び出せない小鳥のように、私はまだ羽ばたく術を知らない。

 こんな他人事のように斜に構えたことをほざくと、そのうち誰からも見向きもされなくなるだろう。

 朝井リョウ【何者】を読んで、恐ろしいことだと思う。

 彼の才能は羨むほどだが、そこには同人に指摘された、まさに己のさらし方が書かれているのだ。

 思い出したぜ、この、さらしらめ!

 いっそ、このまま地の底に落ちたほうがいいのかもしれない。

 自身の再生こそ、物語の原点なのだと信ずるならば。



 明大のリバティータワーで田口ランディさんに会った。

 彼女が司会を務めるダイアローグ研究会へ参加したのだ。(http://runday.exblog.jp)

 【原発事故報道を振り返る-その時メディアと行政は?】

 これが第21回目のお題だ。

 長年彼女がラブコールを送っていた、南相馬市長桜井勝延さんがゲストスピーカー。
 
 桜井市長の弁が奮っていた。

 若い時から現場をやってきた。金で魂は売らない。なめんじゃねえ。

 こんな政治家もおるんやね。

 自分の腑甲斐なさを思い知らされるのと引き換えに、生き物としての人間の希望を見た。

 20代の時に出会った、【コンセント】には何発もの銃弾を受けたようだった。

 こんな終わり方ありか? 呆れながら、この発想を自分が出来るのかと思うと茫然となった記憶がある。

 その後、一時期彼女の書くものに傾倒した。

 いくつか処分した文庫棚の奥に、まだ数冊残っている。

 物書きを目指すものの端くれとして、いまこの瞬間に再読したくなった。

 意外だったのは本物の彼女は声も溌剌としエネルギッシュで、とても好人物だったこと。

 またどこかでお会いしたいものだ。



 今年いちばんの映画、アナと雪の女王。

 記念撮影に行列が出来ていた。


【空見上げ枯れ葉ひと葉年の暮れ】哲露


 Happy Merry Christmas

 さっ、Let it go 


 


川上未映子。

2014年11月24日 | ☆文学のこと☆



 二の酉を前にした季節、会社を早々にひけ、恵比寿に向かう

 今宵は芥川賞作家川上未映子の講演会。

 タイトルは【フランスで読まれる川上未映子】

 彼女の生の声に刺激を受けようと思った。

 恵比寿ガーデンを横目にかすめ、日仏会館なるものに入る。

 こんなとこに、こんなのあったんやね。

 駅から近い入り口は坂道ゆえ二階にあたるようだ。

 暗めのエレベーターホールで長いこと待つ。

 講演に来た方か、何人も待つ。

 扉が開いたので、黙礼して乗る。

 はたしてそこに、その人がいた。凛とした感じで。

 いくら待っても来ないはずだ。

 川上未映子本人だもの。



 白状する。受賞した【乳と卵】しか読んでいない。

 受賞した際の、ポスターが取次のビルの各所、書店の各所に貼ってあった。

 仕掛けた方が美貌で売っているのかと見紛うほどの、構図だった。

 それでも、その佇まいに惹きつけられた憶えがある。

 正真正銘の本人も美しい部類の人だった。

 ほかの二人の丁寧語に比べ、馴れ馴れしいため口。

 でも、率直に話される言葉の数々は親身に満ちていた。

 声が誰かに似ている。

 多分、私の好きな女優だ。

 彼女は音楽家であり詩人でもあった。

 場内には彼女を慕うファンらしき女性が多数。マイクを向けられると感激の様子で、読んできた作品やエッセイを挙げていた。健気が微笑ましく、疎ましい。だって、髪型がそっくり。それだけのファンを構築できるオーラがあるんだな。

 司会は老獪な語り口の関口涼子氏。

 ディスカッサントのパトリック・オノレ氏の弁が奮っていた。

 オノレ氏はフランスでの彼女の翻訳家。

 二年前、パリで起こったフェミニストの論争を、川上未映子の作品と対比して語る口調は熱い。

 エッセイは日本独自のもので、フランスでは本になって読まれることはフランス人作家といえどもないそうだ。また、翻訳家が前に出ることもなく、編集者のように完全なる黒子のようだ。

 そんな中、作家になって書きたいと思ったことはないのか? 

 関口氏にそう振られたが、オノレ氏はきっぱりと小説は書かない、書けないと言う。

 だから、翻訳では大作家になったつもりになれることがやり甲斐だと潔い。川上未映子を聞きにいったのだが、オノレ氏の率直に好感を抱く。

 川上未映子といえば、発声に魅力を感じ、日常にも興味を持った。

 まだ発展途上やし、毎日が文学修行と語っていた。

 芥川賞作家の訓練とは何か? よくあるようで、それは実際ためになることやった。

 彼女が就寝前の習慣としてやっていることにいたく感銘を受けた。

 アスリートが筋トレを欠かさないように、小説家も文学の筋トレを欠かしてはいけないのだ。

 彼女は常に危機感を持っているという。

 多才な面を持つ彼女にして、そうなのだ。
 
 私など捨て身で書かねばなんだというのだろう。

 この夜から実践してみよう。

 川上未映子の本、ほかにも読んでみたくなった。




 【水そそぐ白魚の顔に紅き葉の】哲露

 
 かつて、この細長い公園に水が流れていた。

 山谷堀という掘割は、大川へ注ぐ。

 大店の主が、このルートを辿り、いい気分で新吉原に上がっていった。

 いまは、ここも赤や黄に色づく紅葉が眩しい。

 時代物はいっとき離れ、書きたいモノを書いている。

 短編だから、どんどん書ける。

 調べものが少なくて済むのもありがたい。

 やはり文章を書いている時が、無上の幸せだ。

 何を成したかでなく、何を成すか、要は書くかだな。

 今日もまた私は書き続ける


担当の夜。

2014年11月15日 | ☆文学のこと☆



 いやぁ、参った。

 マイッタというのはいい意味で、久しぶりに面白い本に出会った。

 新聞の小さな書評、つい気になって読んでみたのだ。 

 おもて表紙の可愛らしい絵に騙されちゃいけない。バブル期から失われた20年まで出版業界にどっぷりと浸かった漫画編集者と漫画家との凄まじいまでの生き様が詰まっている。

 著者は1960年生まれとあるから、バブル経済のど真ん中に編集者として鮮度のいい時期を過ごしていたことになる。

 その赤裸裸は、少しあとにこの業界へ入った私にも微かに体感できた感がある。いわゆる出版にも旬というものがあるとするなら、その片鱗を先輩たちにみる眼差しは同種のように感じた。

 異色の才能を信じて止まない若き漫画家との葛藤を書いた【担当の夜】

 とうに盛りを過ぎた大物漫画家とのアルコール漬けの日々【担当の朝】

 デビュー前から前借り専門自称無頼派の青年漫画家との蜜月を描いた【最後の担当】

 そして、過ぎし日の酒と薔薇の日々を懐古する【俺酒】

 この四編からなる。

  漫画週刊誌と月刊専門雑誌の私とは微妙に(大きくか!?)違うが、酒臭いどぶ川の同じ流れにはいたはずだ。

 あの頃は味も感じない酒を飲みに、毎晩銀座、新宿、四谷、六本木、西の新地、歴史的ドブ板街と夜な夜な繰り出した。主人公高野も、四ッ谷荒木町、ゴールデン街、二丁目に出没する。

 金とアルコールにまみれた編集者生活、あの狂気で侠気な時代の残渣は意外に長かった。

 

 全国の読者への大いなる勘違いの優越に支えられた絶対的な服従、取材相手、執筆者、絵描き、デザイナー、カメラマン、ありとあらゆるクリエーター、広告代理店、それら介在するモノに、背中を押され、ときに蹴飛ばされ、拝み、土下座し、さらには罵倒し、それでも締め切りだけは守ってきた。自分が面白いと信じれば、お上(上司)にも平気で逆い、クライアントに食ってかかって説得した。そんな時代がたしかにあったのだ。

 熱い時代を思い出させてくれた、担当の夜。

 出版界が隆盛であった頃の裏の世界をちょっぴり覗ける。

 これは買いですわ。

 出身大学の色眼鏡で見るつもりはないが、上智大出の関純二。元青年漫画誌編集長との肩書きだが、謙遜するその文学の博識と素養、言葉遣いのセンスが半端ない。

 手鎖上等、主人公高野の生き様に惚れた。最後の俺酒にいたって、おそらく私小説の類いに入る。

 判る人には判るこのシュールで真摯なオモロさ。

 おいらのツボにハマっちまったよ。

【酒漬けの年末進行灯り恋い】哲露




 世間は酉の市の季節。

 浅草龍泉町の鷲神社は江戸から一葉を経ての盛大だが、巣鴨の大鳥神社は素朴の親近がある。

 ちょうどいい大きさは、わが村の市だ、と和ませてくれるんだね。



 それにしても、この年末の糞忙しい時を狙っての選挙だよ。

 肝心要の誰もが投票なんかいかねえんだろうな。

 誰のための政か。いつの時代も権力を持つと、自分だけの正義を振りかざし、汚いものを隠したい、金儲けしたいってのは変わらない。

 威勢のいい柏手に、偽政者どもも心洗われるがいい。



 龍泉も、巣鴨も、新宿も、各地の二の酉は、22日(土)でござんす。

 お見逃しないように

 

  


悪童日記を観て。

2014年11月02日 | ☆文学のこと☆



 酉の市の季節に入った

 11月1日は映画の日。

 家事少々、お昼の準備をして、電車に飛び乗る。シャンテのある日比谷が目当て。

 先週の分科会で知り合った同人Sさんから、教わった【悪童日記】が上映されている。

 以下、ネタバレもあるのでご用心。

 その原書は、ハンガリー人のクリシュトーフ・アーゴタ(日本と同じ姓→名)が書いている。日本にはフランス語の筆名、アゴタ・クリストフとして紹介された。

 作品名から想像される通り、痛快とか爽快とかいうジャンルではない。

 初回は人もまばら。だがこのフィルムを観たさに訪れた人もまた興味深い。みな同じ想いだろうか。

 途轍もない映画だった。

 カラダも心も呆れたように動かない。感動しているのか、動揺しているのかすら判らない感情が渦巻いている。

 作者のクリストフは、1935年生まれ。56年のハンガリー動乱の際に、夫と幼子を連れ、オーストリアを経てスイスへ逃げた。

 その時の体験が作品にも投影されている。

 冒頭、四人家族の和やかな様子が映される。軍隊から帰った父が二人に爪を切っている。どこにでもある日常だ。

 その後、世界大戦の戦渦が激しくなったのか、無邪気に過ごしていた都会から離れ、二人は祖母の家に疎開させられる。

 緑豊かな自然、まだらな石畳、堅牢だが古くひび割れたレンガの家、横殴りの風雪と大雪原、深淵で静謐な森、どれもが幻影と思えるほど美しい。

 瓜二つの双子は一卵性だろう。よくぞ探したものだ。

 無垢な少年たちが、魔女と呼ばれる粗野な祖母、盗みをしてまで強く生きる町人たちの中で、徐々に心を蝕まれ、変貌していく。

 二人の端正な顔立ちをみると、ドイツ人将校が見初め友人?として扱い、司祭館の女中が汚れた躰を洗ってあげるのも理解できる。

 圧倒されるのは淡々と続けられる登場人物たちの生の営みである。戦時下であれ、いやだからこそ、人はより生々しく土の上を歩く。

 母の言葉を忠実に守り、過酷な労働のあとも勉強をし、父の託した日記にありのまま書き留めていく。

 この日記の記述描写が映画ならではの醍醐味、簡素な絵の辛辣が面白い。

 そう、少年たちは現実を直視し目を逸らさない。彼らの視線が大人たちの心を射抜く。

 暴力に抗うためお互いをむち打ち躰を鍛える少年たち。

 この強さはなんなのか。

 無垢と無知、鈍感と鋭敏、怯えと恐喝、冷酷と愛憎、汚泥と潔癖、傍観と親身。

 司祭が十戒を知っているか?と問う。

 人が人を殺す世の中にあって存在意義を成していないと、反対に司祭を脅し、司祭を説く少年たち。
 
 純真な目の奥の率直に、いつだって大人はたじたじとなり、言い訳がましく嘘をつくほかはない。 

 吐くと凍るほどの息が、二人の無二の絆をつなぐ。

 見終わったあと、暫く茫然としてしまう。自失とはまさにこのことか。



 原作は母国語でなく、異国の仏語で書いたとSさんに聞いた。

 圧倒的な物語世界を前にしたら、難しい比喩も、理解不能な熟語も、スノッブな外来語もいらないのだ。

 平易でいいのだ。私は飾り立てた化粧でごまかそうとしていないか。書きたいものはなにか? そろそろ向き合ってもいいんじゃないか。

 気になったので原作も読んでみるつもりだ。

 愛してると手紙に認めた母は夫以外の赤子を抱え、話す言葉も薄く白々しい。

 捕虜になった父が現れ、少年たちを再び置き去りにする。この無常観はなんだ。

 小さな田舎町で暮らす二人を中心に描きながら、綿密に張り巡らされた伏線とあっけないほどの裏切りが観客を捉え、狼狽させる。

 あのラストはなんだろう。

 空虚のなかの静謐。淋しさを寄せ付けない、生への執着。それを前にしては正義など振りかざしても無意味なのだ。

 泥の河にあった日本人の感性とは違う、東欧の少年の成長の物語。これが成長といえるのか、怪物を創るのはいつの世も、大人の都合と不条理だ。

 シネマズシャンテをでた。細かい雨が傘をたたく。

 まだ躰のうちの細胞の襞という襞が水分を失い、機能を失くしたようだ。

 揺さぶられた何かがあった気もするが、実際頭のなかは空疎だ。

 悪童日記。

 うっかりみると、やられますわ。

 教えてくれたSさんに感謝したい。

 いまもなお、双子の視線が脳裏から離れない。

【違う国別れの先に未来あり】哲露




 運動不足だ。

 小降りになったところで走る。

 芭蕉庵の翁が川面を向いて燦然と輝いている。ライトアップした新大橋と屋形舟も一緒に。


 
 木曜日は、緩い感じのフットサル。

 主催者の女性が、本格的な俳句をやっていて驚く。現役の作家もいたそうだ。

 世間は狭いね。類は友を呼ぶってか。

 ボールなど蹴っている場合じゃないんだけどね、これも必要なんだよ、たぶん。

 この日は眉月。綺麗やったな~