都心でも30度を記録する暑さが戻ってきた
戻ってきたというのは、私が無類の夏好きで、この季節を待っていたから。
各地で樹木の緑が映え、色とりどりの花が目を楽しませている。
大塚の都電通り一帯は、いまや丸の内のOLが通う隠れ家の店が多い。
その坂道に、赤、黄、ピンク、白、桃色の薔薇たちが咲き乱れている。
豹柄の彩色を施した車両は帝京大学のもの。
一見、グロいようだが、都バスと同様、都の収入源の一つとして宣伝に勤めているのだ。
桜カラーは、城北信用金庫のもの。
三井住友(さくら)銀行と間違えないように。
こちらは最新車両だろう。
富山の市電のごとく欧州レイルの雰囲気もまたいい。
レトロ車両と旧装飾の車両は撮れませなんだ。
代わりに、下記の写真を。
「五月空目抜き通りをチンチンと」 哲露
会社の裏手にある公園に、旧車両が展示されている。
錆が浮いて、もの悲しい風情ではあるが、昭和40年代に生まれた私の頭のなかでは、東京の景観の主役そのものである。
三社祭のとき、地元の友人と都電に乗った際の記憶が話題にのぼった。
私はといえば、今は無き仁丹塔の前で父と安全地帯(都電が道の真ん中で停車するための駅)で手をつないで都電を待っていた記憶が鮮明にある。
今戸に住む友人は、大川沿いのバス通りを都電で走ったという。
貧しかったし、ITに慣れた現代人からすると便利とは程遠い時代だけど、人々の顔はどこまでも優しく、大人たちには寛容があり情にもあふれていたように思う。
松屋デパートの屋上には、スポーツランドがあり、花やしきも入場券などいらず、子供たちには天国だった時代。
都電に乗って、お出かけする。
それだけで、ウキウキした気分になれたものだ。
日比谷花壇で、薔薇の花一輪、10年前で800円だった。
とすると、この沿道の薔薇の価値やいくらほどか。
なんて、どうも庶民は下世話で仕方ない。
でも、その価値は十分。
だって、このバラの花びらを見ているだけで、こころが豊かになれるんだから
「汗を吸う草染め半纏初夏の風」哲露
浅草に三社祭が帰ってきた
町中に祭り囃子が響く。こうなると江戸っ子はじっとしてらんねえ。
紺地の帯、職人結びにキリリと巻いて白足袋に足を入れる。
町会を発進した大中小の御神輿は元気だ。踊り子さんと呼ばれる浅草芸者を派遣する総元締、見番まで担いで待機する。
市川団十郎像が見守る観音裏手に三之宮の氏子が集結する。
順に、浅草神社へ御神輿をいれお祓いをしていただくのだ。
チョコパピコで一息ついて、神社を詣り浅草寺の参道へ。
ご覧の大観客の中、担ぎ手は声を枯らしても誇らしい。
観世音菩薩に御神輿を掲げると、拍手が湧いた。
この気持ちいいこと。
町人の晴れ姿とはこのことか。
高張り提灯が点る。
ちろちろとロウソクの燈りが人々を封建の時代へ誘うのだ。
町内を巡回した六町会の御神輿が浅間神社へ集まる。
挨拶が終わると一本締め。
わっ!
六基の御神輿が一斉に上がる。
鳥肌が立つわ。
大勢の観客からうお~と歓声が上がった。
夜神輿はじつに幻想的で魅惑に包まれている。
お馬さんと赤子のにらめっこ。なんとも微笑ましい。
日曜になり、いよいよ浅草神社の本社(ほんしゃ)神輿のお出ましだ。
馬がひひんと嘶き、ぴーひょろぴーひょろ、お囃子がひと際高く鳴り響く。
日頃の練習の成果が担ぎ手のみならず、観衆の心をとらえる。
三之宮の登場。
本社神輿が来ると、異様な興奮がわき上がるのだ。
怒声が飛び交う。みな、本社の棒に触れたくて、殺気立つ。
一葉通りは女の子たちの担ぎ番。ひい婆ちゃんは女が神輿を担ぐなんて、ヤクザだと叱った。その若い女性たちが半分を占める。
マンチェスターユナイテッド香川の真っ赤なTシャツに半纏を纏った金髪の外国人も横乗りで参加だ。昭和に比べて、隔世の感がある。
宮神輿を無事に渡御し、町会神輿も堂々と担いだ皆の衆。
いったい、何本のビール、発泡酒を飲んだことだろう。
友達の家では茣蓙ををひいての大宴会。
親戚の店の中華やら、千住の鮒忠の焼き鳥やら処狭しと料理が並ぶ。
祭りで配られた弁当に、手製のつまみ。
いっぱい担いで、一杯飲んで食って、地元の仲間とおしゃべり。
サッカーへ出た次男も夜神輿に間に合って、ずっと担いでいた。
来週から石浜、玉姫、熱田、鳥越と界隈のお祭りがつづく。
見事な日本晴れのなか、浅草っこは今日も元気でござる
GWから地元浅草で観光まつりが行われている
祭りといっても一年中祭りのある賑やかな町。来週から三社祭もはじまる。
全部体験するわけにはいかないけど、宮田章司さんが生出演とあっては是が非でも行かねばなるめえ。
宮田さんは江戸売り声の伝承を芸としておやりになっている。
芸能生活60年とのことだ。こりゃ、すげえこってす。
某版元の元編集長からCDをお借りしたことがある。それが宮田さんを知ったきっかけ。
調べるとNHKにもご出演なさっていて、テープやCDに音源を残されている。図書館で借りては聞く。家人につまんないと言われながらも、宮田さんの声に、遠きお江戸の裏店に思いを馳せるのだ。
間違いなく、私の小説には欠かせない大切なものをくださった。
仲見世の煎餅屋、ご兄弟で働いていたエピソードも聞けた。
若かりし宮田さんはそれでは物足りなく、芸の道にはいる。
そこで、運命のひと、坂野比呂志と出会う。
病床についた坂野さんから「芸を継いでくれ」と。その遺志を固く守り、寄席の芸として江戸の売り声をこの歳まで続けられている。
芸の合間のお話の端々に、血のにじむような修行、勉強の片鱗が見えた。
まさに、継続が芸を昇華させたのだ。
生の売り声にうっとりと、居残って寄席の映像を観ていたら、ご本人が近くにお座りになった。
私にしては勇気をもって話しかける。拙いが小説を書いていること、曾祖母の面影などをぽつぽつと話すと、かつて宮田さんが訪れた向島百花園の女将さんの粋な台詞を気さくに教えてくださった。
思わぬ幸運に、心がうち震えた。
「皐月花かねて聴きたし西風に」哲露
宮田さんは、往時を生の声で伝承している。
私は私のやり方で、文字で文章で、江戸にあった人情の欠片を伝えられたら本望だ。
宮田「何かリクエストありますか?」
海光「冷や水売り~」
目の前の宮田さんにお願いした。
宮田「へえ、お客さん、よく知っているねえ」
とおっしゃる。
その昔、向島には上水の水が届いていなかった。そこで大川の上流などから冷や水売りが舟に乗ってやってきた。もちろん、冷蔵設備のない時代のこと。錫の器に水を汲んで、唇が、ひゃっこい、と感じるのが庶民の暑気払いの一興だった。
こんなことがあるから、浅草を離れられない。
宮田さんは末広亭や鈴本演芸場、浅草演芸ホールなどで芸を披露されている。
お元気なうちに、またお目にかかりたいと思う。
宮田さん、ありがとう存じました。
やらねばなるめえ