【うばかわ姫】
著:越水利江子
2015/7/10第一刷 白泉社刊
招き猫文庫
小暑を過ぎたというのに、例年になく涼しい
天の川から溢れたのか、しとどに濡れるお江戸の夏が続く。
そんな折、地元東武ビルの書店にふらっと立ち寄った。
あった、あった。
同人の大先輩、越水の待望の一般文庫デビュー作が並んでいる。
そういえば寄稿された文芸誌【読楽】の感想を書いたのは、2014年の幕開けだった。
http://blog.goo.ne.jp/tetsu-local/s/%C6%C9%B3%DA
こうして一冊の本になるまでの月日を思うと、駆け出しはホント途方に暮れてしまう。
文芸誌の段階ではもちろん、お話しはプロローグでしかないと思っていた。
新刊だ、新鮮な気持ちで頁を捲る。
文庫特有の黄がかった軽い用紙の手触りが心地いい。
一度読んだはずの文章だ。
それがまるで、物語の中の姥ヶ淵の湿り気を帯びるように、私の心を徐々に濡らしていく。
二章の月下の恋に入るともう止まらない。
そして、この作品を読み明かしていくに従い、込められたモノの大きさ、静かなる熱い深淵を前に立ち竦んだ。
物書きの端くれとしての何かが震えだす。
誤解を恐れずに言うと、越水が一般を書いてこなかったことがずっと解せなかった。
児童書の世界では、90冊を越える著作を持つというのに、だ。
生きるとは、苦しみであり、悔恨の繰り返しである。だからこそ、刹那、快と愛を享受できる。
「その御大将を見よ」と言った、豺狼丸の母、お濠の言葉。
「たとえ道の途中で倒れようとも、どこへ向かおうとしていたかを知る者さえあれば、人は笑って死ぬことができる」
これは生前の藤沢周平が漏らしていた言葉と類似する。
娘として、母として、なにより人として懸命に、真摯に生きてきた小説家は、時代物の巨星に通ずる境地に至ったのかと不遜ながら思う。
姥皮を纏った野朱は作者の分身であり、それを感じとることのできる我々の一部でもある。
若気の至りと享楽の奢りは、人を狂わせ堕落させる。
だが老皮を脱いでも再び謙虚に身を投じれば、愛の本質が垣間見える救いもある、
野朱の姿を借りた作者がそう訴えているように感じた。
越水が私淑する山本周五郎の珠玉【つゆのひぬま】を思い出しながら、
いずれ古都の城下に住まいし市井の人々の暮らしを、愛の溢れる筆致で見事描いて欲しい、と切に願う。
さすれば遠からず、宇江佐真理、杉本章子と並び称される日は近いと私は信じる。
「一期は夢よ、ただ狂え。」
この小説を書くために生まれた。そんなものを書ける日がはたして来るのであろうか。
京の姫君、越水のメッセージを、肝に銘じて、私もそろそろ狂いたいものである。
【崖っ淵濡れて踠いて皮一枚】哲露
お江戸の寺町はまもなく、橙色のほおずきで染まる。
利江子姐さん、おめでとう
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