週刊浅草「江戸っ子瓦版」 -のんびりHiGH句な日々-

文学と食とRUNの日々を、PHOTO5・7・5で綴るエッセイ♪

神田まつやで今を呑む

2015年09月20日 | 呑み屋探訪(神田、室町界隈)





【そばを食む友の盃ちちち虫】哲露


 久しぶりに神田まつやを訪問する。

 大切な仲間とのかけがえのない時間。

 わたしはまつやのこの角の立った蕎麦切りが大好きだ。

 噛みごたえのある弾力は何より男っぽいし、潔い生粋の江戸ッ子の気風すら感じる。

 そば味噌のアテだけで何杯もすすむわい。






 一人は国会へ出向いて遅れるとのことで、先に先輩とラガーを。

 冷やし豆腐、浅草海苔、板わさの定番で、ぬる燗をちびり。

 裏のかんだやぶは、建て替えて営業を再開しているが、この日はお休み。

 老舗の建て替えが増えている。

 浅草の小柳も近代的なビルになって興ざめしてしまった。





 まつやのこの佇まい、生きているうちは存分に愉しみたい。

 蕎麦屋飲みは、サクッと粋にいきたいものだ。

 混んできたので、湯島に移動。

 湯島の玉善では、北海の幸を堪能。

 楽しい時はあっという間だ。

 人生なんてあっけないものだ。





 8.30と9.14の取材。

 熱しやすく冷めやすい日本人が、こんな形で意見を表出することは珍しい。

 社会人になった頃に、報道のあり方に疑問を持ったことがはじまり。

 紙も電子も意見は様々。

 なので、自分の目で見たこと、耳で聞いたことだけは確かだから現場に足を運ぶ。

 誰がなんと言おうと、ここには事実がある。




 
 目の前で起きたことと、報道の乖離。

 初めて参加した方はさぞ驚かれるに違いない。
 
 そこで考えることが重要なのだ。

 右の左もノンポリも、きっと国を思う気持ちは、 誰しも共通のことだろう。

 現実をより知ること、歴史を振り返り謙虚になることは両輪でなければいけない。

 白か黒だけでない、多様な意見に耳を傾けることは最低限の品格であり大人のマナーだ。

 自分の考えを押し付けることだけでは、何も解決しないのだ。

 今回は国会で、SNSで乱暴な言動や行動を目にした。

 国会で起きたことは、どちらにも与したくない違和感を感じた。

 直接会って、辛抱強く、冷静に話し合うことの大切さを今一度考察してもらえたらと願う。 

 




 日本人同士が、人間同士が、罵り合い、殴りあうことは愚の骨頂だ。

 私はマッチョな思想を嫌うが、理想論だけ語るつもりもない。

 そろそろ本気で、国民的議論をするときがきたのではないか。

 言論統制、言論封殺はごめんだ。

 自由を欲する。

 永久に公開されない秘密なんて権力の都合でしかない。

 管理社会なんてまっぴらだ。

 正義の名の下に、過去の戦争がある。

 国民が覚悟を持って、生きることがいまこそ求められている。

 日々に流されがちだが、もっと学び、本質から逃げないで様々な問題に向き合いたい。 

 平和に家族や友人と酒が飲めること、これが私の恒久的ないちばんの願いである。
  


火の鳥

2015年09月06日 | ☆文学のこと☆





【燃え盛る民の願いに秋の水】哲露


 久しぶりに手塚治虫を手に取った。

 名作[火の鳥]黎明編と未来編を続けて読む。

 卑弥呼の時代、遠い未来の話し、どちらも戦が描かれている。

 種族、血縁、友人、同僚の争いが繰り返されていく。
 


 何世紀、何万年と連綿としてヒトの生命が紡がれる。

 不老不死の血を手に入れるため、ヒトは火の鳥を射止めようとする。

 だが、不老不死ゆえ火の鳥は何者にも血を与えはしない。 

 火の鳥は死と再生を繰り返しながらただそれを見守るだけだ。

 たった一発で町ごと吹き飛ばす爆弾。

 目に見えない放射能の恐怖。

 そんな人類滅亡の兵器を持ってしまったのに、いまだ権力は兵器を増やすことに熱心だ。




 
 澤地久枝[火はわが胸中にあり]を読んでいる

 西南戦争後の近衛兵士の叛乱を、綿密な取材と丹念な筆で書き留めている。
 
 この竹橋事件は時の権力が隠したいことだったのだろう。

 歴史の教科書にも載っていないこの事件に、若者やこの時代に翻弄された貧民たちから教わることは多い。

 先週は国会議事堂を取り囲むほどの民衆デモが起こった。

 国会へ出る東西南北の駅では警官が国会へ近づけまいと誘導を繰り返した。

 一歩、地上に出ると、国会正面に繋がる歩道を封鎖してやはり近づけまいとした。

 それでも、民衆が溢れ出すシーンに、欧米の革命を見たような高ぶりを憶えた。

 翌日の報道ぶりを見ると、いつかこのデモですら歴史に埋もれてしまうかもしれないと思う。

 それでも、ヒトの記憶、DNAに刻まれたモノは消すことはできない。

 それを口伝で、小説という形で残すことが先人の知恵だ。



          恵比寿なゝ樹

 
          大塚三業地小倉庵

 
 なゝ樹の手打ち、小倉庵の田舎と生粉打ちの相盛り。

 外回りの楽しみは、伝統の蕎麦を噛むことにある。

 この蕎麦切りもそばがきから始まった先人の食文化だ。

 ヒトの争いの連鎖を、手塚は決して止まないヒトの愚かさと見抜いていた。

 一方、生きる縁となる、こうした食こそヒトの力の象徴でもある。

 あさのあつこ[ゆらやみ]を読み始めた。

 相変わらず硬質な文体に、時代考証に根ざした重みが物語を太くしている。

 石見銀山の衰退と、幕末から維新にかけての時代の変遷の描き方が鮮やかだ。

 そして、男と女、子供、連綿と続くヒトの営みが克明に照射され、心の奥底に潜む気高さと小狡さが抉り出されている。

 たけくらべのような、切ない余韻がのこる。

 物語は中盤に差し掛かる。先が楽しみだ。


 


 日本橋から東京駅と再開発が進む。

 この赤レンガが残ってホッとした。

 北関東から運ばれたこの赤い煉瓦も、また歴史の一面である。

 この広場で、TOKYO STATHIONを臨み、手を空へ広げてみる。

 ヒトは本来、自由な生き物なんだ。

 日常に縛られる日々だが、たまには空を見上げる余裕が欲しい。

 蝉が最後の咆哮を上げている。

 夏がもうすぐ去る。

 新しい夏に僕は向かう