週刊浅草「江戸っ子瓦版」 -のんびりHiGH句な日々-

文学と食とRUNの日々を、PHOTO5・7・5で綴るエッセイ♪

川上未映子。

2014年11月24日 | ☆文学のこと☆



 二の酉を前にした季節、会社を早々にひけ、恵比寿に向かう

 今宵は芥川賞作家川上未映子の講演会。

 タイトルは【フランスで読まれる川上未映子】

 彼女の生の声に刺激を受けようと思った。

 恵比寿ガーデンを横目にかすめ、日仏会館なるものに入る。

 こんなとこに、こんなのあったんやね。

 駅から近い入り口は坂道ゆえ二階にあたるようだ。

 暗めのエレベーターホールで長いこと待つ。

 講演に来た方か、何人も待つ。

 扉が開いたので、黙礼して乗る。

 はたしてそこに、その人がいた。凛とした感じで。

 いくら待っても来ないはずだ。

 川上未映子本人だもの。



 白状する。受賞した【乳と卵】しか読んでいない。

 受賞した際の、ポスターが取次のビルの各所、書店の各所に貼ってあった。

 仕掛けた方が美貌で売っているのかと見紛うほどの、構図だった。

 それでも、その佇まいに惹きつけられた憶えがある。

 正真正銘の本人も美しい部類の人だった。

 ほかの二人の丁寧語に比べ、馴れ馴れしいため口。

 でも、率直に話される言葉の数々は親身に満ちていた。

 声が誰かに似ている。

 多分、私の好きな女優だ。

 彼女は音楽家であり詩人でもあった。

 場内には彼女を慕うファンらしき女性が多数。マイクを向けられると感激の様子で、読んできた作品やエッセイを挙げていた。健気が微笑ましく、疎ましい。だって、髪型がそっくり。それだけのファンを構築できるオーラがあるんだな。

 司会は老獪な語り口の関口涼子氏。

 ディスカッサントのパトリック・オノレ氏の弁が奮っていた。

 オノレ氏はフランスでの彼女の翻訳家。

 二年前、パリで起こったフェミニストの論争を、川上未映子の作品と対比して語る口調は熱い。

 エッセイは日本独自のもので、フランスでは本になって読まれることはフランス人作家といえどもないそうだ。また、翻訳家が前に出ることもなく、編集者のように完全なる黒子のようだ。

 そんな中、作家になって書きたいと思ったことはないのか? 

 関口氏にそう振られたが、オノレ氏はきっぱりと小説は書かない、書けないと言う。

 だから、翻訳では大作家になったつもりになれることがやり甲斐だと潔い。川上未映子を聞きにいったのだが、オノレ氏の率直に好感を抱く。

 川上未映子といえば、発声に魅力を感じ、日常にも興味を持った。

 まだ発展途上やし、毎日が文学修行と語っていた。

 芥川賞作家の訓練とは何か? よくあるようで、それは実際ためになることやった。

 彼女が就寝前の習慣としてやっていることにいたく感銘を受けた。

 アスリートが筋トレを欠かさないように、小説家も文学の筋トレを欠かしてはいけないのだ。

 彼女は常に危機感を持っているという。

 多才な面を持つ彼女にして、そうなのだ。
 
 私など捨て身で書かねばなんだというのだろう。

 この夜から実践してみよう。

 川上未映子の本、ほかにも読んでみたくなった。




 【水そそぐ白魚の顔に紅き葉の】哲露

 
 かつて、この細長い公園に水が流れていた。

 山谷堀という掘割は、大川へ注ぐ。

 大店の主が、このルートを辿り、いい気分で新吉原に上がっていった。

 いまは、ここも赤や黄に色づく紅葉が眩しい。

 時代物はいっとき離れ、書きたいモノを書いている。

 短編だから、どんどん書ける。

 調べものが少なくて済むのもありがたい。

 やはり文章を書いている時が、無上の幸せだ。

 何を成したかでなく、何を成すか、要は書くかだな。

 今日もまた私は書き続ける


担当の夜。

2014年11月15日 | ☆文学のこと☆



 いやぁ、参った。

 マイッタというのはいい意味で、久しぶりに面白い本に出会った。

 新聞の小さな書評、つい気になって読んでみたのだ。 

 おもて表紙の可愛らしい絵に騙されちゃいけない。バブル期から失われた20年まで出版業界にどっぷりと浸かった漫画編集者と漫画家との凄まじいまでの生き様が詰まっている。

 著者は1960年生まれとあるから、バブル経済のど真ん中に編集者として鮮度のいい時期を過ごしていたことになる。

 その赤裸裸は、少しあとにこの業界へ入った私にも微かに体感できた感がある。いわゆる出版にも旬というものがあるとするなら、その片鱗を先輩たちにみる眼差しは同種のように感じた。

 異色の才能を信じて止まない若き漫画家との葛藤を書いた【担当の夜】

 とうに盛りを過ぎた大物漫画家とのアルコール漬けの日々【担当の朝】

 デビュー前から前借り専門自称無頼派の青年漫画家との蜜月を描いた【最後の担当】

 そして、過ぎし日の酒と薔薇の日々を懐古する【俺酒】

 この四編からなる。

  漫画週刊誌と月刊専門雑誌の私とは微妙に(大きくか!?)違うが、酒臭いどぶ川の同じ流れにはいたはずだ。

 あの頃は味も感じない酒を飲みに、毎晩銀座、新宿、四谷、六本木、西の新地、歴史的ドブ板街と夜な夜な繰り出した。主人公高野も、四ッ谷荒木町、ゴールデン街、二丁目に出没する。

 金とアルコールにまみれた編集者生活、あの狂気で侠気な時代の残渣は意外に長かった。

 

 全国の読者への大いなる勘違いの優越に支えられた絶対的な服従、取材相手、執筆者、絵描き、デザイナー、カメラマン、ありとあらゆるクリエーター、広告代理店、それら介在するモノに、背中を押され、ときに蹴飛ばされ、拝み、土下座し、さらには罵倒し、それでも締め切りだけは守ってきた。自分が面白いと信じれば、お上(上司)にも平気で逆い、クライアントに食ってかかって説得した。そんな時代がたしかにあったのだ。

 熱い時代を思い出させてくれた、担当の夜。

 出版界が隆盛であった頃の裏の世界をちょっぴり覗ける。

 これは買いですわ。

 出身大学の色眼鏡で見るつもりはないが、上智大出の関純二。元青年漫画誌編集長との肩書きだが、謙遜するその文学の博識と素養、言葉遣いのセンスが半端ない。

 手鎖上等、主人公高野の生き様に惚れた。最後の俺酒にいたって、おそらく私小説の類いに入る。

 判る人には判るこのシュールで真摯なオモロさ。

 おいらのツボにハマっちまったよ。

【酒漬けの年末進行灯り恋い】哲露




 世間は酉の市の季節。

 浅草龍泉町の鷲神社は江戸から一葉を経ての盛大だが、巣鴨の大鳥神社は素朴の親近がある。

 ちょうどいい大きさは、わが村の市だ、と和ませてくれるんだね。



 それにしても、この年末の糞忙しい時を狙っての選挙だよ。

 肝心要の誰もが投票なんかいかねえんだろうな。

 誰のための政か。いつの時代も権力を持つと、自分だけの正義を振りかざし、汚いものを隠したい、金儲けしたいってのは変わらない。

 威勢のいい柏手に、偽政者どもも心洗われるがいい。



 龍泉も、巣鴨も、新宿も、各地の二の酉は、22日(土)でござんす。

 お見逃しないように

 

  


動物たちに会って。

2014年11月08日 | ★江戸っ子エッセイ★



 秋晴れの休日、久しぶりに上野の動物園に行く

 上野公園もそうだが、動物園も案外混んでいて驚く。

 外国人の方たちもやたら目に付く。

 大陸の人も結構、ここは万国平和だ。

 やはりみんな野生の動物に興味があるのね。



 息子たちが幼い頃は、それなりに遊びに訪れていた。

 子どもたちに本物の動物たちを見せてあげるには最適な施設だもの。
 
 学校の遠足で、アフリカやインドへ連れていくには遠過ぎるからね。

 この動物たち、人口の場所で生まれ、育ったものたちも多い。
 
 まさに、人間に観察されるために生きているのだ。

 安っぽい賛否を述べるつもりはない。これはこれで一定の価値があるのだろう。もちろん人間の側に。。

 

 僕が小さなうちから人気者であるパンダはやっぱり行列が出来ている。

 ちょうど笹を食べるところがみられた。

 可愛い顔してるけど、自然界で出会うと怖いだろうな。なんといっても熊だもんね。

 賢いゴリラに、うんちを投げられたことがある。

 昔はガラス越しでなかった。

 人に近いと言われる類人猿だから、四六時中見られていることに苛立っているんだろう。



 百獣の王は気品と風格たっぷり。

 サバンナでは何もしない雄より、働きものの雌に共感を抱いてしまう。俺は雄だけども。。

 この日は雄が見られなかった。

 子どもの頃は、虎とライオンがどっちが強いかなんて、不毛で幼稚な議論をした。住んでいる場所が違うから戦う必要もないわけだ。



 象もそうだが、サイやカバの圧倒的な存在感にはただひれ伏すしかない。

 プロレスもカラダの大きさにアドバンテージがあるからね。

 動物たちがもし思考というものを持つならどう思うのだろう、と私はいらんことを考える。

 野生と違って、敵がいない、餌に不自由しない、それを最良とするのか。

 はたまた、自由に駆け回ることのできない束縛、群れからの離別、好みの雄雌と交配できない不条理を嘆くのか。

 水族館でも同様な視点で、観察してしまう自分はアホなんやろか。

 梟の洞察深い視線、全長1.2m、片足でじっと動かないハシビロコウの諦念、シマウマの彩色の美しさ、猿山のボスの杞憂、北極の地から亜熱帯に連れてこられたシロクマの怠さ。

 平和と引き換えの、不自由にも一遍の価値があるなら、自由ゆえの尊厳が生き物として当然の権利ではないのか。



 1639(寛永16)年に再建された五重塔が立っている。

 これ、今回気付きました、って遅いやろ。

 重要文化財が上野動物園内にあるなんて知らんかった。

 荘厳な佇まいは、ここだけ異質の空気を放っていた。



 モノレールが下る方面に、不忍池が一望できる。

 天上の蓮が池一面を覆っている。

 むかし、北あかり(ジャガイモ)を売りにきていたおじさんが言っていたっけ。西郷さんの銅像、有名な不忍池はさぞ立派なもんだろうと想像して上京したら、こんなちっちゃい沼だったのか、と。

 そう、北海道の大地を知っている方からみたら、彼の地の水たまりのようだな、と思ったもんだ。

 育った環境の違いや、ちょいと視点を変えると、同じ万物も別の見え方になるから、難しくも面白い。

 いちばん最初に書いた小説は、象が出てくる現代の夢物語。合評で全否定されたモノだが、同人の方から面白かったよ、とメールもらった。

 自分が書きたいモノ、それすなわち、自分だけのオリジナルなんだな。

 たまには、いつも行かない場所にいくと、刺激スイッチが入るでやんすよ。

 先週は鼻ッ風邪を引いた。

 毎朝熱を測ると、35度2分。低体温、爬虫類なみの海光でござる。

 来週10日、そして22日は酉の市。

 皆さんも、流行っているので、ご用心くださいまし


 【かじかむ手灯り恋しい酉の市】哲露

 


  


悪童日記を観て。

2014年11月02日 | ☆文学のこと☆



 酉の市の季節に入った

 11月1日は映画の日。

 家事少々、お昼の準備をして、電車に飛び乗る。シャンテのある日比谷が目当て。

 先週の分科会で知り合った同人Sさんから、教わった【悪童日記】が上映されている。

 以下、ネタバレもあるのでご用心。

 その原書は、ハンガリー人のクリシュトーフ・アーゴタ(日本と同じ姓→名)が書いている。日本にはフランス語の筆名、アゴタ・クリストフとして紹介された。

 作品名から想像される通り、痛快とか爽快とかいうジャンルではない。

 初回は人もまばら。だがこのフィルムを観たさに訪れた人もまた興味深い。みな同じ想いだろうか。

 途轍もない映画だった。

 カラダも心も呆れたように動かない。感動しているのか、動揺しているのかすら判らない感情が渦巻いている。

 作者のクリストフは、1935年生まれ。56年のハンガリー動乱の際に、夫と幼子を連れ、オーストリアを経てスイスへ逃げた。

 その時の体験が作品にも投影されている。

 冒頭、四人家族の和やかな様子が映される。軍隊から帰った父が二人に爪を切っている。どこにでもある日常だ。

 その後、世界大戦の戦渦が激しくなったのか、無邪気に過ごしていた都会から離れ、二人は祖母の家に疎開させられる。

 緑豊かな自然、まだらな石畳、堅牢だが古くひび割れたレンガの家、横殴りの風雪と大雪原、深淵で静謐な森、どれもが幻影と思えるほど美しい。

 瓜二つの双子は一卵性だろう。よくぞ探したものだ。

 無垢な少年たちが、魔女と呼ばれる粗野な祖母、盗みをしてまで強く生きる町人たちの中で、徐々に心を蝕まれ、変貌していく。

 二人の端正な顔立ちをみると、ドイツ人将校が見初め友人?として扱い、司祭館の女中が汚れた躰を洗ってあげるのも理解できる。

 圧倒されるのは淡々と続けられる登場人物たちの生の営みである。戦時下であれ、いやだからこそ、人はより生々しく土の上を歩く。

 母の言葉を忠実に守り、過酷な労働のあとも勉強をし、父の託した日記にありのまま書き留めていく。

 この日記の記述描写が映画ならではの醍醐味、簡素な絵の辛辣が面白い。

 そう、少年たちは現実を直視し目を逸らさない。彼らの視線が大人たちの心を射抜く。

 暴力に抗うためお互いをむち打ち躰を鍛える少年たち。

 この強さはなんなのか。

 無垢と無知、鈍感と鋭敏、怯えと恐喝、冷酷と愛憎、汚泥と潔癖、傍観と親身。

 司祭が十戒を知っているか?と問う。

 人が人を殺す世の中にあって存在意義を成していないと、反対に司祭を脅し、司祭を説く少年たち。
 
 純真な目の奥の率直に、いつだって大人はたじたじとなり、言い訳がましく嘘をつくほかはない。 

 吐くと凍るほどの息が、二人の無二の絆をつなぐ。

 見終わったあと、暫く茫然としてしまう。自失とはまさにこのことか。



 原作は母国語でなく、異国の仏語で書いたとSさんに聞いた。

 圧倒的な物語世界を前にしたら、難しい比喩も、理解不能な熟語も、スノッブな外来語もいらないのだ。

 平易でいいのだ。私は飾り立てた化粧でごまかそうとしていないか。書きたいものはなにか? そろそろ向き合ってもいいんじゃないか。

 気になったので原作も読んでみるつもりだ。

 愛してると手紙に認めた母は夫以外の赤子を抱え、話す言葉も薄く白々しい。

 捕虜になった父が現れ、少年たちを再び置き去りにする。この無常観はなんだ。

 小さな田舎町で暮らす二人を中心に描きながら、綿密に張り巡らされた伏線とあっけないほどの裏切りが観客を捉え、狼狽させる。

 あのラストはなんだろう。

 空虚のなかの静謐。淋しさを寄せ付けない、生への執着。それを前にしては正義など振りかざしても無意味なのだ。

 泥の河にあった日本人の感性とは違う、東欧の少年の成長の物語。これが成長といえるのか、怪物を創るのはいつの世も、大人の都合と不条理だ。

 シネマズシャンテをでた。細かい雨が傘をたたく。

 まだ躰のうちの細胞の襞という襞が水分を失い、機能を失くしたようだ。

 揺さぶられた何かがあった気もするが、実際頭のなかは空疎だ。

 悪童日記。

 うっかりみると、やられますわ。

 教えてくれたSさんに感謝したい。

 いまもなお、双子の視線が脳裏から離れない。

【違う国別れの先に未来あり】哲露




 運動不足だ。

 小降りになったところで走る。

 芭蕉庵の翁が川面を向いて燦然と輝いている。ライトアップした新大橋と屋形舟も一緒に。


 
 木曜日は、緩い感じのフットサル。

 主催者の女性が、本格的な俳句をやっていて驚く。現役の作家もいたそうだ。

 世間は狭いね。類は友を呼ぶってか。

 ボールなど蹴っている場合じゃないんだけどね、これも必要なんだよ、たぶん。

 この日は眉月。綺麗やったな~