goo blog サービス終了のお知らせ 

京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

牛若丸伝説の地を歩く

2018-12-16 05:43:06 | 京都歴史散策


源義経は1159年、河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれます。
平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、合戦で大活躍します。
平家が滅び頼朝が鎌倉幕府を樹立するが、頼朝の怒りを買い、最後は奥州で1189年に亡くなるというのはほとんどの方が知っています。
悲劇のヒーローとして世の中の同情を引き、多くの伝説や物語が生まれました。
義経・牛若丸伝説は、真偽のほどはいまだ不明なのが多いようです。
『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』などがありますが、かなり脚色されたようです。

真偽はともかく、牛若丸生誕の地と言われるところを歩いてきました。
場所は京都市北区紫竹で、大徳寺より北で北山通りより南の地域です。
ここには古くから牛若丸伝説が多く残っていて、町名も牛若町となっています。

牛若丸生誕の地
畑のなかに石碑と説明板があります。











牛若丸胞衣塚の石碑
室町時代に彫られた石碑で、京都で最も古い可能性があります。










牛若丸産湯井の石碑











こに近くにも牛若丸産湯井の遺跡の石碑があります。












義経の父義朝ゆかりの神社 祭神の一人です。
紫竹に義朝の別邸があったそうです。
















牛若丸と弁慶の出会い

牛若丸と弁慶の出会いは一般的に五条の橋と言われ、現在の五条大橋にも牛若丸と弁慶の御所人形風の石像が置かれています。
しかし現在の五条通りはずっと後に造られたもので、当時の五条は現在の松原通りです。
今日では弁慶との出会いは、清水観音(清水寺)の境内とする説や、松原あたりとする説、五条天神社との説といろいろあります。

弁慶との最初の出会いは1176年頃のようですが、この時代は平氏政権(1167-1185)で、その拠点は平清盛の邸宅があった六波羅です。
当時の五条の橋のあった鴨川のすぐ近くです。
平家から逃れていた牛若丸がわざわざ六波羅に近い場所に出向くかという疑問があります。

今回の散策で、もう一つの伝説に出会いました。


牛若丸(御浄の橋)伝説

紫竹に近い紫野築山町に「常盤井」の石碑があります。
牛若丸の母、常盤御前の住まいという伝説があります。










またこの付近には「御浄の橋」が有栖川にかかっていたそうです。

弁慶腰掛石での出会い

「常盤井」のすぐ近所に「弁慶腰掛石」もあり、「ここで牛若丸と弁慶が出会った」との伝説が残っています。
米穀店の敷地内にあり、中に入らせていただき撮影しました。
















江戸時代の地図に有栖川や五常橋が記載されています。





首途八幡宮
「常盤井」「御浄の橋」から南に下るとこの神宮があります。

平安宮の北東にあたり、王城鎮護の神とされ、内野八幡宮とも呼ばれました。
「首途」は出発を意味します。
牛若丸がここで安全祈願し、共に奥州へ旅立ったとされる金売吉次の屋敷跡とも言われています。













































以上、牛若丸伝説の地を歩いて見ました。3km以内です。